霧のかかる道

 女王騎士長の執務室を出、詰め所も出て扉を閉めると、扉にもたれて溜息を吐いた。
 フェリドから告げられたリムスレーアの婚約の儀の日に決行される計画の仔細は、さすがのゲオルグにも重くのしかかっていた。
 ――保険、か……
 掛値なしに信頼できるとまで言われて、嬉しくないわけがない。だが掛けられたものを考えると、手放しで喜ぶわけにもいかない。
 察するに「時」が近く、元老院のどちらの派閥にも属さず、かつ女王家に深く踏み入っておらず、フェリド自身が信頼でき、必ず事を成し遂げてくれる人間、と選択肢の幅を狭めていった結果、ゲオルグに白羽の矢が立ったのだろう。わざわざ他所の国にいた人間を呼び寄せたのだから、その時点で何かあるとわかってはいたが。
 最悪の結果は考えておかねばならない。
 それは確かにそうだ。最悪の事態にならない保証はどこにもないのだから、考えうる事態のひとつとして想定せねばならぬことくらい、ゲオルグにもわかっている。なまじ相手が組み伏せやすくはないとわかっているだけに。
 いつまでもそこに留まるわけにも行かず、重い足をなんとか動かして部屋へ向かう。
 フェリドが想定する最悪の事態に陥った時、この国はどれほどのものを失うのだろう。
 まず、女王。
 次に、女王騎士長。
 この二人はまさにファレナ女王国の太陽と大河。民に慕われ敬われている二人だ、国民の悲しみも相当だろう。それでも国民は「他人」だ。彼らの二人の子供たちの悲しみに比べられるはずがない。血縁というのであれば女王の妹であるサイアリーズも、ルナスの斎主も。
 ゴドウィンの思う壺に嵌るのであればリムスレーアは傀儡の女王となり、男である王子は不要、血縁での王位継承問題を内乱化しないためにも結婚しない誓いを立てているとはいえサイアリーズも捕らわれ、亡き者にされてしまうかもしれない。
 そうなればリムスレーアはほとんど一人になってしまう。ルナスの斎主――ハスワールと言ったか――にはゴドウィンの血が流れているらしいし、立場上滅多な扱いはされないにしても、頻繁にルナスを空けて王都へやってくることは難しいに違いない。
 幼い少女が一人王都でファレナ女王国の女王としての誇りを失わずに生きていくのは、想像以上に困難だ。たとえ護衛のミアキスが傍についていたとしても、いつ心が折れてしまってもおかしくはない。そうなった時、彼女が再び心から笑える日がくるのか、ゲオルグにはわからない。聡明な少女は母に負けぬ賢王となるはずだが、傀儡のままでは外で何と言われるかわからない。できればあのまま成長した姿を見たいものだ。
 王子にしても、木で言えばまだ若木で、様々なことを糧に成長していく年齢。闘神祭の間だけでも成長した。彼がどんな若者に成長するのか、フェリドの息子という点を除いても楽しみだと思う。
 最悪の事態になれば、それらを見ることは敵わない。
 それは避けたいと思う。
「…………」
 深い溜息を吐く。
 フェリドの信頼を裏切るつもりはない。自惚れでなく、これは他の女王騎士にはできない仕事だと了解していた。
 女王騎士としてフェリドより長く勤めているガレオンは女王家や女王騎士長への忠誠心は篤く、その点は信頼できるにしても、彼らの身に刃を立てることなどできるような人間ではない。ザハークは融通が利きそうだが、アレニアと同様に彼を心から信頼できないのはゴドウィンの思想がちらつくからか。剣の腕は立つだけに惜しい人物だ。
 ミアキスやカイルは、人間性を信頼できる。言動の緩さはともかく、彼らが女王家を心から愛し敬い、護りたいと思っている気持ちは見て取れる。それは女王騎士としてというよりは、個人的な感情から発露されたものだろう。だからこそ、こんなことをあの二人には頼めないに違いない。あまりにも王家に近すぎた。
 ――丸く収まるのが一番良い。
 親友に愛する者を手に掛けさせたくはなかったし、その逆も同様だ。彼らの子供たちにも、悲しい顔はさせたくない。
 重苦しい気持ちを抱え自室のドアに手をかけたまま、ゲオルグは動けないでいた。酒場に行って気を紛らわせるか、女の柔肌に埋もれるか。手っ取り早い昇華法ではあるが、どちらも億劫に思えた。それに今酒を飲むと悪酔いする可能性が高い。そんなことがフェリドの耳に入れば気にさせてしまうかもしれず、それは本意ではない。そもそも夜更けともなれば王宮の門は閉ざされてしまい、出入りが容易にできるはずもなかったことを思い出す。
 かといって素面で一人で眠る気にもなれないのだ。やり過ごし方を知らないわけではなかったが、他人の熱があれば文句ない。
「……仕方ない」
 他に行くところも思い当たらなかった。扉から手を離し、自室から少し離れた部屋を訪れる。
 もしかしたらいないかもしれないと思いはしたが、それならそれで構わなかった。その時こそ諦めて部屋に戻るまでだ。
 ノックをするとすぐに返事が返ってくる。相手が在室していたことにほっとしながら名を告げると、数瞬の沈黙の後、扉が開かれた。
「……珍しいですねー、というか初めてですね。どうかしたんですか」
 女王騎士の中でも特異な部類に入るだろう彼は、今は夜衣に着替えていた。起きていたが、就寝する前だったようだ。すっかり寛いでいた様子である。
 常と変わらない笑顔。瞳だけがゲオルグの様子を窺っている。気付きはしたが、黙殺した。
「ちょっとな……邪魔しても良いか?」
「フェリド様と何かお話してたんでしょう? 終わったんですか?」
「ああ」
 本来なら野郎はお断りなんですが、と軽く寄越すのに苦笑しながら室内へ招じ入れられる。
 勧められたソファの傍らまで来た時、ゲオルグは発すべき言葉を失った。
 ――何と言えばいいんだ?
 カイルの部屋に来た理由を。
 正直な理由を口にするのは憚られた。三十を目前にした男が「一人寝が心許なかったから」というのはあまりにもあんまりだ。かといって街に出るのが面倒だったというのもいかがなものか。
 どんな表情をしていいのかわからず、結局無表情になった。
「フェリド様のお話って何だったんですか? ああ、言えないなら言わなくていいですけど」
「……いずれ、わかる」
「ふぅん……じゃあ婚儀の日の関係ですね」
「そんなところだ」
 嘘ではないので頷くと、ぎこちなくソファに腰掛けた。来客用に置いてあるのか、茶を出される。飲みながら滑稽なほど一生懸命に言い訳を探す。
「……で。こんな時間にどーしたんですか。一応オレ、寝るとこだったんですが」
「ああ……すまん」
「いや、謝らなくてもいいですけど。オレも人のこと言えませんしー」
 ロードレイクから帰った日のことを言っているのだろう。そういえばあの日、カイルの様子がおかしかったことを思い出す。
 昼夜問わず元老院の二派閥や貴族たちのことを調べていたせいと、ストームフィストやルナスに出向いていたこと、カイルの態度が以前と変わりなくなってしまったため、失念していた。
 無言で見つめれば、居心地が悪くなったのか暫くして視線を逸らされた。意識されていると思うのは、自意識過剰か。

 一回やったら二回も三回もたいして変わらないと思いません?

 不意に、無理に口調を軽薄にさせたカイルの言葉が思い出された。
 ――本当だろうか。
 あの夜以来、ああいった意味ではカイルには一度も触れていない。あの夜の主たる目的が達せられたせいもあるし、カイルの意図がまったくゲオルグに掴めなかったせいもある。
 本当に己が不能になったかどうかを確かめるためだけに男に抱かれたと言うのだろうか。確かめたかっただけなら、何もゲオルグを受け入れる必要などなかったはずなのだが、カイルがどのような思考をもってあの結論に達したのかわからない以上、何も言えない。
 男との経験が比較するほどあるわけではないが、良かったか良くないかと問われれば間違いなく良かった。一度目は酒の勢いだったために何とでも誤魔化しは利いたが、二度目は互いに素面だった。それで最後までやれたのは――刺激を受ければそれなりに反応してしまう男の性もあったにしろ――少なからずゲオルグも興奮を覚えたからだった。
 あれがカイルの一時の自暴自棄ならあの夜が最後、今後はもうないに違いない。
 なくても構わないが、今言い訳に使うなら三度目が有効なのだろうか。拒否されたら、それこそ添い寝だけでも構わないのだが。
 茶を飲み干すと、二杯目を注ごうというのかカイルが立ち上がって傍に来る。咄嗟に、その手首を掴んでいた。
「……ゲオルグ殿?」
 緊張を孕んだ声。当然か。
 どこか不安そうな、迷い子のような表情は二十四の男がする表情ではないと内心で溜息を吐いた。とてもではないが、事に及ぶ気にはなれない。
「……添い寝を頼む」
「……は?」
 カイルの表情が、面白いくらいに変わった。意表を突かれたらしい。
「一緒に眠ってくれ」
「……眠るだけ、ですか?」
「そうだ。後は何もしない。……抱えて眠らせてくれるならそれが一番いいが」
「……オレ、抱き枕ですかー?」
「そうなる。嫌なら隣で眠らせてくれるだけでいい」
「…………」
 探るような眼差しは当然だろう。夜中、唐突に押しかけてきた男が頼むことではない。幼子ならともかくも。
 それは自覚していたし、本当は言わずにおきたかったが、言ってしまえば開き直ってしまった。
 詮索されるだろうか。それとも呆れられるか、鼻で笑われるか。
 しかしカイルはゲオルグが予想したそのどれでもない反応を返してくれた。
「……いいですよ」
 断る理由もないですしねと付け足すと、茶器を片付けてベッドに腰掛ける。彼の口許には微笑が浮かんでいた。
 思いがけないと言えばそうだが、ありがたい。
「装束は脱いだほうがいいですよー。皺になりますし」
「ああ……」
 留めるところの多い装束を脱ぐと簡単に畳み、椅子に掛けさせてもらった。ルナスから戻って一度着替えた時に湯を浴びたとはいえ、きちんと入ってくるべきだったかと、下らないことが頭を掠める。
 帷子に単衣、下衣だけの姿になると、ベッドに上がり込む。さすがに二人以上の使用が想定されているはずもないベッドは、長身にしては細身のカイルだけならともかく、人並み以上に体格の良いゲオルグも隣に寝そべると狭かった。文句を言える身分ではないので黙って寄り添う。
 左腕をカイルの枕にし、右腕で腰のあたりを緩く抱く。カイルの片腕はゲオルグの腰に回されていた。腕のやり場がなかったためにそうなったのだろうが、胸は漣立った。
 正面から抱き着かれるように眠られるとは少々予想外でゲオルグは落ち着かなかったが、それを誤魔化すようにカイルの頭や髪を撫でる。指先や掌で撫でていると手触りの良さに本当に男と床を供にしているのか疑わしい気持ちになった。  そうこうしえいるうち、しばらくして規則正しい寝息が聞こえた。早々に寝入ってしまったようだ。もしかしたら寝つきの良いタイプなのかもしれない。
 手持ち無沙汰もあり、指先はまだカイルの長い金髪を弄る。長い金髪は河の流れのように白いシーツに広がった。薄ら香るのは香水の類か。
 ――何をやっているのだろうな。
 今のゲオルグの姿を、例えばフェリドやテオ・マクドールあたりが見たらどんな反応を示すか。爆笑で済めばまだ良い。真顔で心配されたらどう返せば良いか。想像にゲオルグは苦笑した。
 ――フェリド。
 友に頼まれたことを思い出す。
 万一、彼に頼まれた通りに事が運んだとして。
 ――赦されるのだろうか。
 彼の二人の子供たちに。サイアリーズに。――この男に。
「…………」
 事が成ろうと成るまいと、自分がこの国にいる時間はさして長くはないことをゲオルグは承知している。フェリドや女王の思惑通りに事が運べば適当なタイミングで堂々とこの国を去るだろうし、フェリドが危惧する事態に陥れば女王殺しの大罪人として追われながら去ることになるかもしれない。
 平穏が嫌いというわけではない。ファレナには好感を抱いている。この国も貴族同士の思惑が絡んだ不穏の上に成り立つ平和ではなく、フェリドたちが望む平穏が訪れたなら、今より数段気持ちの良い国になる。
 そこにいる自分を、ゲオルグは想像できない。元々ひとつ所に留まっていられる性質ではないせいかもしれない。
 だからこそ深入りはしない。国の事情にも、人にも。仕事でない限りは。
 今回は頼まれ事が多少踏み込んだものになっているが、それは恩義ある男からの依頼だからだ。仕事でもあるが、私情もある。身も蓋も無い言い方をしてしまえば、戦争がもし始まるのなら手は貸すし、終われば去る。傭兵とまったく変わりない。
 ――そのはずだが。
 人差し指に絡んだ金が、するりと解ける。蜜のような色の髪は、闇ではその輝きが失われている。しかし手触りは彼の人柄のようにしなやかで柔らかい。
 穏やかな呼吸を繰り返すカイルは、抱きしめた時には一定の警戒を抱いていたようだった。当然だと思う。だが人肌の温もりか他人の鼓動、あるいは自身の睡魔に負けたかで眠りに落ちると、すっかり体の力は抜けているようである。
 ――関係ない、はずだが……。
 ゲオルグが赦しを請うなら、フェリドと彼の身内である三人をおいて他にない。例え彼らに近いミアキスであろうとガレオンであろうと、余人には関係ない。カイルもその範疇に収まる、はずだ。
 なのにどうして、この男がどう思うかなんてことが気にかかるのか。
 怒るか、嘆くか、悲しむか――はたまた他の感情をぶつけられるか。想像だけではわからない。わからないがゆえに気にかかるのだが、それは何故か。
 何故と問えば、今のこの状態にしてもそうだ。誰かに話せば素面で酔っ払ったか、血迷ったかとしか思われまい。自分でも充分に血迷っている自覚はあった。
 窓から斜めに差し込む月光が、カイルの整った顔を照らす。蒼い光は顔色を失せさせ、今はあまり好きではない。
 ――何を考えていたんだ?
 ロードレイクから戻った夜、部屋へ押しかけた時。様子がおかしいのは明らかで、話を聞けば納得できた。
 確かにゲオルグは、償えるのであれば――あるいはカイルの気が済むのであれば、何でもしたいと考えた。そう考えること自体が稀であると、自分でもわかっている。
 カイルの言い分を聞けば、自分にも非はあると思う。酒のせいにしても、行動は常より箍が緩んでいた。女好きを自他供に認めるカイルが男と性交渉を持ったことがあるとは考えにくいから、おそらくあれが初めてだったはず。つらそうにしていても、止めるとは一言も言われなかったが。それにしても途中で止めるべきだった――勢いだけで片付けて良いものか。考え始めると、また気持ちが重くなる。
 カイルの様子がおかしかったのはそれだけか?
 酒で箍が緩んだだけか?
 勢いだけなのか?
 ゲオルグは己を納得させるに足る理由を出すことができず、溜息を吐く。
「……認めればいいのか……?」
 苦みが混ざった呟きは誰に聞き咎められることもない。唯一聞いているとすれば腕の中の男だけだが、寝息が乱れた様子はなかった。
 腰に回した手を解き、カイルの頬を撫でると顔を上向かせる。どうやらすっかり寝入っているようだ。寝顔は穏やかであり、まるで一流の芸術家の技であるように美しい。
 同じ性の人間にそんなことを思う日が来ようとは、ファレナに来るまで予想だにしていなかった。
 気を許した相手というのであればサイアリーズも同様なのに、どうしてわざわざ困難なほうを選ぶのか、自分で自分が不思議だ。サイアリーズの胸に未だ誰かがいることに臆したか――いや、やはりそうではあるまい。彼女に抱いているのはそういった情ではない。理由はともかく、単にカイルに惹かれる力が強かっただけだ。ただそれだけなのだ。
 ゲオルグがファレナに来た時に比べればカイルとつるむ機会は減り、それには淋しさを感じてはいるが仕方ないとも思ってきた。今日フェリドから召喚の理由を聞いたことで、ますますそう思う。
 ――この国に長くは留まれない。
 だから胸に湧いて澱んでいるこの感情が例え恋情であろうと、告げる気はない。
 不意に気付く。
 彼に触れられるのは、もしかしたら今宵が最後かもしれないということに。
 明日からは数日後に控えた婚約の儀の準備のため、また忙しくなる。外から来たゲオルグにとってはどこか他人事めいた儀式であろうと、長年女王家に仕えていたカイルにとってはそうではあるまい。王子と兄弟のように仲が良いことは知っている。リムスレーアとは知らないが、家族のように大切に思っているのだろう。だからこそ、今回の次第がフェリドから知らされれば余裕がなくなるのではないか。
 ――ではやはり今宵が最後かもしれない。
 そう思えば、妙に感傷めいたものが胸に訪れる。頬を撫でた掌を顎から首筋へ滑らせた。乾いた掌の感触は硬いはずだが、カイルは起きない。油断しすぎではないかと思うが、かえって好都合だ。
 日頃は前髪と額当てで隠された額を露にさせると唇を寄せる。それからこめかみ、頬へ。最後に瞼へ口付けると告白めいた言葉をひっそり呟き、カイルの体をしっかり抱き寄せて目を閉じた。
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