王子たちがロードレイクの視察を終えて戻って来た日は見事な青天だったが、カイルの胸には暗雲が立ち込めていた。というのも、彼らが視察に行った後でちょっとした事件がカイルの身の上に起こったからだった。
かつて様々な女性に声をかけたし、一夜を共にしたこともある。一夜以上の関係にならないのは、カイルのほうで深入りしないように細心の注意を払ってきたからだし、女性のほうでもそれを望んでいる部分もあったからだ。
遊び人の面目躍如か、同衾した女性から不満を訴えられたことはない――少なくとも記憶にある限りは。だが、先日はそれ以前の問題だった。遊び人の面目どころか男の沽券に関わる。
原因を正確に知るには医師に相談するのが一番だろうが、妙な噂を立てられても困るし、ナンパしにくくなるのも困る。そもそもの心当たりはあるが、それだけは誰にも口が裂けても言えない。
――ゲオルグ殿のせいだ。
酒のせい、自分のせいもあるが、酒に当たることはできないし自虐の趣味もない。恥はかいたから自分のせいの報いは受けたとして、当たるとすれば残るはゲオルグしかいない。
あの朝以来ほとんど必要なこと以外で口をきいていないが、これは黙っていられない。
女王へ視察の報告を終えたら、きっと詰め所に戻ってくる。心の準備をする時間はあったから、逃げる必要はない。にも関わらず、直前になって詰め所を飛び出したのは我ながら往生際が悪いものだと自嘲を禁じえない。
結局は口さがない貴族を追っ払った後で詰め所に戻ったが、王子が一緒に来てくれたのは幸いだった。一人で戻っていたら、どんな顔をしていればいいのかわからなかっただろう。
顔を見れば心はざわついた。何でもない風や軽く明るくを装うのは慣れていた。ゲオルグのことで王子に言った言葉にも、基本的に嘘はない。興味や関心がまったく失せてしまったわけではないからだ。
だが今は、やはり憤りのほうが勝る。
勤務明けに服を着替え酒を軽く飲むと、決意を新たにゲオルグの部屋の前に立った。
ノックの返事を待つこともせずに不躾に室内に入れば、驚いた顔のゲオルグに迎えられる。
「……どうした?」
ただならぬ気配を察したらしいゲオルグは、女王騎士の衣装を畳みながらカイルを見上げた。その後ですぐに眠るつもりだったのだろう、すでに夜衣に着替えている。
ベッドに腰掛けていた彼の傍まで大股で歩み寄ると、きっと睨み付ける。
「ゲオルグ殿のせいですからね」
「……何の話だ?」
常になく低く凄むと、ゲオルグがわずかに動揺した。畳み掛けるようにまくし立てる。
「男として屈辱的ですよ! 可愛い女性とさあこれからって時に何もできないなんて……!」
「ちょっと待て……順を追って説明してくれ。話が見えん」
ゲオルグはカイルの勢いを手で制し、畳み終わった装束を傍のテーブルに乗せると、改めて見上げてくる。さぞ戸惑っているに違いないが、気遣う余裕はない。
促され、カイルはなるべく冗長にならない程度に端折ろうと努力しながら、何がゲオルグのせいであるのかを説明した。
簡潔に言えば、ナンパに成功した女性と同衾するにあたり勃たなかった原因はゲオルグにあるということなのだが、多少の誇張が混ざった主観だらけの説明は長く、またゲオルグに対して苛立っているものだからどうしても八つ当たり気味になる。おまけに「何故」ゲオルグのせいなのか核心に触れないまま話を進めたため、いささかわかりづらい。
何とかその場を取り繕えたし、済んだことだとは思うが、カイルの中で不名誉な出来事だったことに変わりはない。
「どーしてくれるんですか!」
ゲオルグは途中で異論を挟むことなく黙って最後まで聞いてくれた。聞き終えると小さく首を傾げる。
「どうしてくれるのかと言われてもな……」
どうすればいいのかと問い返す瞳は、この男にしては珍しく困り果てている。少なくともカイルは初めて見た表情だった。
――ゲオルグ殿でもそんな表情をするんだ。
少しくらい困れば良い、自分はそれ以上に困ったのだからと、わずかに湧いた罪悪感をごまかすようにそう思った。
「……責任取って下さい」
カイルはふいと横向いた。これは八つ当たりだ。本当はゲオルグだけが悪いわけではないとわかっていて、彼を困らせている。
あの時勃たなかったのは深酒し過ぎたせいかもしれず、また先日の衝撃から体が立ち直っていないせいかもしれない。後者には多少ゲオルグのせいもあると思うが、責めてよいほどかどうか。いずれにせよカイル自身の問題が多勢を占める問題だ。
――みっともない。
拳を握り、俯く。
引き金は今回のことだとしても、それ以前に抱えていた靄が晴れていないから、こんな八つ当たりをしている。
今更恥じても、他にどうする術もなかった。苛立ちをぶつけたいだけだったのだから。
――いっそ嫌われたほうが楽かな。
思い付きが頭を掠めた。こんな八つ当たりをしているのだからそうなっても仕方ないと思う反面、淋しくもある。あの夜まで、いや今も好ましいと思っている人間に嫌われるのは、少し悲しい。気が合わないザハークやアレニアとはまた別の壁ができるのだろう。やはり自業自得だろうか。
子供っぽい自分の行動をごまかせもせず俯いたままでいると、手を取られた。
驚いてゲオルグを見れば、顔を覗き込まれている。ずっと見られていたのだろうか。彼の目に、自分はどう映っているだろう。ひどく情けない気持ちになる。
「……すまない」
困惑し、申し訳なく思っているのが手に取るようにわかる。肌を通して伝わる。理不尽なことで腹を立てられても、この人は怒鳴り返したりはしないのだ。
いっそ怒鳴られたほうがよかった。そんなこと知るかと、あれは合意だったはずだとでも言われればよかった。そうすれば嫌いになれたかもしれないし、踏ん切りがついたかもしれない。
「どう責任を取ればいいのかわからないが、俺でできることなら、できる限りのことをしよう」
こんな風にされてはどうすればいいのか、わからない。
カイルは唇を噛んだ。
「…………ゲオルグ、どの……」
乾いた声が喉から漏れた。ただ自分を見上げるゲオルグを見下ろし、名を呼ばわった後は言葉にならず、己の拳を見つめることしかできない。それでもゲオルグがどんな表情をしているのかは、見えた。
――違う。
そんな顔をさせたいのではない。
そんな表情をさせるために、ここに来たのではない。本当は、詰りたかったわけでも批難したかったわけでもない。
カイルは取られていないほうの拳を強く握った。どうすればいいか。そんなことがわかっていたら、ここには来ていなかった。
決して八つ当たりだけがしたかったのではない。今更そんなことを言っても言い訳にしかならないが。
いたたまれないほど落ち込んだ時、浮かんだのがゲオルグだった。咄嗟にあの夜が原因かと思ったのは、もしかしたらゲオルグを思い出したことによるこじつけかもしれない。ゲオルグに責任を引っ被せ、羞恥から目を逸らしたいだけかもしれない。
――ゲオルグ殿なら。
何とかしてくれるのではないかと期待したのも、事実ではあるが。
逡巡の後、カイルは身を屈め――ゲオルグに口付けた。ゲオルグが一瞬身を引いたのはわかったが、構わず肩を掴んで口付ける。
「カイル?」
訝しげな声に怯みかけたが、逃げられないよう今度はゲオルグの顔を両手で掴み、構わずもう一度口付ける。驚きで硬直してしまった気配を感じたが、抵抗はなかった。ゲオルグのような男が驚きすぎて抵抗すら忘れているのかと思うと、ほんの少し溜飲が下がる。
こんなことをすれば嫌われるのはわかりきっている。どうして、と自問する一方、どうなっても構わないという捨て鉢な思いもあった。
――いっそ、本当に嫌われようか。
一度嫌われてしまえば何をしようと嫌われているのだから、後はそれ以下になることはない。
第三者がいる場であからさまな嫌悪を向けられることもないはずだ。不用意な言動ひとつであらぬ噂が立てられることくらいは察知しているだろうし、そうなれば彼をこの国に呼び寄せたフェリドにまで噂は及ぶ。そんな事態をゲオルグが歓迎するはずがなかった。
そこまで考えると、深く呼吸した。
「もう一度、しませんか」
「何?」
「一回やったら二回も三回もたいして変わらないと思いません? オレがホントに勃たなくなったのかどうかもわかるし――できることはしてくれるんでしょう」
「…………」
俯いたまま息もつかずに早口で言ったのは、反論と、顔を見るのが怖かったから。しばしの沈黙すら、痛い。
長い前髪が落とす影が表情を隠してくれていれば良い。
あの強い眼は何もかもを見通しそうで、今は見たくないし見られたくなかった。
「ねえ。いいでしょう」
喉は干からびて、声は無様に震えたかもしれない。だがそんなことに気を回す余裕はなかった。笑顔を貼り付かせたまま、崩さないようにするだけで精一杯だ。
そんなことをしてどうしたいのか、誰か教えてくれるのならば訊いてみたい。
――ああ、そうか。
いっそ、逃げ出せたら楽だった。
だが今の状況で何を言い訳にすればいいのがわからなかったし、逃げてどうにかなるものでもない。
ゲオルグの言葉を待つ間、どれほど経ったのか。夜が明けてしまうのではないかと思ったが、実際は数分だったはずだ。刑の裁定を待つ罪人のような心境に陥りかけた時、ようやくゲオルグが口を開いた。
「……わかった」
頷きながらもまだ逡巡しているのだろう。返事の歯切れは良いとは言えない。だが拒否をされなかっただけでカイルは満足していた。
顔を寄せると腕を引かれ、口付けられる。半端な態勢のままでいると強引に体を反転され、ベッドに押し倒された。ベルトを外され上着を脱がされる。シャツは自分で脱いだ。肌への口付けは丁寧で、どうしてそんな風に触れるのか理由を問いたくなる。
「…………っ、」
肌を滑る唇の動きに合わせるように、ゲオルグの短い髪が皮膚を擽る。柔らかな感触に息を詰めた。
冷えた掌が胸から下肢を撫でてゆく。その温度がゲオルグの気持ちなのではないかと思うと、胸が疼いた。ゲオルグの気持ちを無視して事に及んでいるのに、まったく勝手なものだ。
本当はこんなことをしたいわけではなかったはずだが、体は勝手に高まっていく。
下衣の上から触れられ、何度も形をなぞられる。もどかしい刺激に焦れそうになれば、ようやく直に触れられた。硬い掌の感触に息を飲み、シーツを掴む。
以前と違い、互いに完全に素面の状態だ。言い訳はできそうにない。
「……っ、……」
強弱をつけて扱かれ、先端を指の腹で弄られる。
――何が不能だ。
ゲオルグに触れられ、弄られただけでたやすく熱が集まる。とすればやはり、衝撃から立ち直っていなかっただけなのだ。理由がわかったからといって、途中で止める気などないが。
先端から先走りが滴れば、ゲオルグの手の動きはいっそう滑らかになる。気付かないうちに、カイルの腰も揺れていた。
「あ……っ、はっ、あ……」
シーツに皺を作り、緩く頭を振る。上半身の至る所に口付けを落とされるが、それも熱を煽るだけだ。
手の動きは徐々に激しさを増し、カイルを翻弄していく。ゲオルグが知ってか知らずか、弱いところばかりを責め立てられ、呆気ないほど容易にカイルは達した。
行為の後の空気は湿っていて、重い。
互いに達した後の余韻に浸るわけでもなく、カイルはほんの少し呼吸を整えただけでゲオルグから逃げるように身を離すと服を整え始めた。これ以上触れられているとおかしくなりそうだった。
平静を装って下衣を穿き、上衣を羽織る。息を吐き、袖に手を通した。体は少し軋んだが、以前ほどではない。ゲオルグの視線を感じると、目を伏せた。
「少し、安心しましたよ」
「……何がだ?」
「男として不能になったわけじゃないってわかったから。……ゲオルグ殿が上手いんだと思いますけどね。付き合い良いですよゲオルグ殿」
「…………」
何が言いたいのかと問う視線。カイルは微笑む。それから背を向けて身支度を続けた。すっかり乱れた髪を括っていた髪留めと紐を解き、手櫛で整えると緩く纏める。
「もしゲオルグ殿も気持ち良かったんなら、またしましょう」
これも嫌がらせだと思われるだろうか。思われても仕方ないのだが。わずかな沈黙がカイルを臆病にさせた。
「……一度やったら、後は何度やっても同じ、か?」
沈黙を破るゲオルグの声音は低く、何故だか優しいような気がした。
都合の良い耳だと思う。
「無理強いはしませんけどねー、さすがに。好みもあるでしょうし。でも自分で言いますが、そんなに悪くなかったでしょう?」
肯定も否定もない沈黙を肯定だと受け取ることにして、すっかり身支度を整える。ゲオルグの視線が背に刺さるのを感じたが、振り向くわけにはいかなかった。決して顔を見られてはいけない。きっと、精一杯の虚勢がばれてしまう。
振り返ると、笑顔を作った。なるべくいつもの笑顔になるように。
「……おやすみなさい」
それだけ言うと、できるかぎり自然に部屋を出る。声はいっそ無様なほど掠れたことくらいわかっている。扉を開けた手が震えていたことには、気付かれなかっただろうか。そんなことばかりが気になった。
扉が閉まる前にゲオルグが何か呟いた気がしたが、カイルの耳には届かなかった。