もう、ひとりではなく

 セーブルから北の山へ向かう道程は、決してなだらかなものではない。
 度重なる隣国との小競り合いのせいか、大地は乾き、荒涼としている。視界を遮る大きな岩山だけの渇いた大地を、時折遠くまで見渡しながら黙々と足を運んだ。
 セーブルはカイルが世話になったフェリド一家が住む街から七日ほど離れた距離だ。河と陸路を併用して昼頃に到着するとすぐに街の様子を観察し、一日休んだだけで街を出た。依頼人から指定された待ち合わせ場所は、手紙が到着した日から八日後の、セーブルの北にある山の中だったからだ。
「……なんとか間に合うかなー……」
 岩山と岩山の間の細道を進み、溜息を吐く。
 カイルが少年の頃から世話になったフェリドは、美しい妻や義妹、可愛い息子と娘を持つ一家の主だった。豪快な男で、細かいことには拘らないが筋は通し、やるべきことはきっちりこなしていた。そのフェリドが営んでいた稼業が、魔物専門の退治屋だった。
 街一番、いやもしかしたらこの国一番の剣の腕を持つフェリドにそれは天職だったようで、カイルも十六になってから手伝ったが、彼の剣に敵う者を見たことがない。魔物に対しては圧倒的な強さを持ち、人に対しては優しさと厳しさをもってあたっていた。傲慢や偉ぶるなどといったことには無縁の男だったからか、、同業者に頼られることも少なくなかった。
 世話になった恩義のためだけでなく、カイルの中では一番に尊敬する人になっている。
 同業者からも一目置かれているフェリドから一人立ちした。それは大きな意味を持っている。大きな力を持つ彼の庇護下から抜け出し、一人で依頼人や魔物の相手をしなくてはならない。
 今まで一人で依頼をこなしてきたことがないわけではない。だが今回は特別だ。何しろ、カイルが魔物退治屋となって初めて請け負った依頼だからだ。――自力で獲得した仕事ではなく、フェリドに回してもらった依頼なのだが。
 詳しいことは依頼人に会わねばわからないが、フェリドと依頼人――ゲオルグ・プライムとは、旧知の仲だという。とすればフェリドが行けば良さそうなものだが、フェリドが決めたことにカイルが異論を唱えるはずもなかった。
 休憩を挟み、セーブルから数時間をかけて山の麓に到着すると、山の頂上までを見上げる。周囲同様に緑の薄い山だが、魔物が潜んでいないわけはない。
 深呼吸をし、気合を入れて山へ踏み入る。待ち合わせは山頂近くの小屋。地図は頭の中に叩き込んである。魔物の情報も仕入れてある。今のカイルならば、数が多くなければ対処できるレベルだ。
 しかし、どんな情報も不足はあるということを、その三十分後に実感することになる。
 
 サラマンダーが現れたのは、殺し屋ハゲタカを倒してすぐだった。
「なんでこんなとこに……!」
 生息しているという話は聞いていない。が、いるということは巣があるか、はぐれてここに棲んでいるということだろう。
 サラマンダーが吐き出す焔を避けると、抜き身のままの太刀を構えて斬りかかる。
「……かったいなー!」
 剣が弾き返されるかと思うほどの皮膚の硬さに舌打ちし、水の紋章の魔法詠唱に入る。自身の剣が軽いほうだとはカイル知っていたが、それはフェリドに比べてだと思っていた。
「っ……!」
 頭を狙う爪を、身を伏せて避ける。完全には避け損ない、爪の攻撃を肩に食らったが、深くはない。お返しとばかりに氷の息吹を見舞った。
 ――大丈夫、倒せないことはない。
 フェリドといた時にも、このくらいの魔物は出没したことはあるし、戦ったことだってある。その時と違うのは、フェリドがいないということだけだ。そう思うと、その事実に舌打ちしたくなる。心のどこかで、フェリドに甘えているのだと。
「くっそー……!」
 やはりフェリドの力は強大だったのだと改めて思い知らされる。いきなり彼ほど器用に、豪快にはなれないにしても、もう少し上手くやっていけると思ったのだが、現実はそう甘くはないようだ。
 ――まっずいなー……そろそろ陽も落ちるし……。
 時間をかけてもいられない。この魔物の声や血の臭いを敏感に察知する、鼻の良い魔物だっているのだ。そいつらがいつ群れてかかってくるとも知れない。
 細かい傷が増えるのも、苛々を増させる。
 回復魔法を使うか。間合いを取り、息を吐く。
「……っ!」
 不意に、背後に感じた強い殺気に息を飲んだ。サラマンダーも察したらしく、動きを止めて警戒している。それほど圧倒的な殺気だった。
 背筋を冷や汗が伝う。もし背後にいるものの正体が魔物であるなら、間違いなく強い。今対峙しているサラマンダーと併せてかかって来られては、さすがに身が危うい。
 前門の虎、後門の狼とはこのことかと、逃げる機会を伺いかけた時だ。
「動くなよ」
 振り向く間もない。後ろから現れた陰が、カイルを抜いた。かと思うと、サラマンダーに真っ直ぐ襲い掛かる。
「あ……」
 一刀両断。
 刀を抜く、と思った次の瞬間には刃が煌き、瞬きの間に鞘に収まっていた。
 鮮やかで無駄のない攻撃を目の当たりにしたことでしばし呆け、魔物を真っ二つに斬り伏せた人の背中を見つめる。
 枯れ葉色のマントをまとったその人は、カイルと同じくらいの身長で、広い肩幅をしている。体格はマントに隠されてわからないが、きっと肩幅に見合った、がっちりした体格の持ち主だ。ちょうど、フェリドのような。
 男が血振るいをして刀を収め、カイルを振り返る。左目、いや半顔を覆い隠すように、黒の眼帯をしていた。晒された片目は見たことのない黄金。短く整えられた髪、浅黒い肌は、その男の精悍さを引き立てていた。王者か将軍のような雰囲気で、今の攻撃を見なくとも彼が強いということがわかる。
「大丈夫か」
「えっ……あっ、はいっ! 助かりましたー! ありがとうございました!」
 声をかけられたことに慌てるが、すぐに助けられたことを思い出し、頭を下げて礼を言う。まったく良いタイミングで現れてくれたものだと感謝せねばなるまい。
 カイルは愛刀を鞘に収めると、男の傍に寄った。
「そうか、良かった」
 男がふと口許を綻ばせると、印象ががらりと変わる。鋭い猛禽類の眼差しは優しさを含み、人好きのする印象になる。一瞬見蕩れ、女性にモテそうだなと暢気なことを思った。
 だがそれもわずかな間のこと。男はすぐに厳しい表情に戻るとあたりを一瞥し「ひとまずここを離れるぞ」と背中を向ける。
 倒した魔物の体液に惹かれ、別の魔物が集まることもあると知識として知っていたので、特に反論することなく素直な返事を返し、男の後ろについて歩いた。
 ――もしかしたら。
 この男がフェリドに依頼を寄越したゲオルグ・プライムだろうか。確認するのは安全な場所に着いてからでも遅くはない。今はほとんど日が沈んでしまったせいで、ゲオルグの背中を追って歩くことに集中しなければ、はぐれてしまう。
 山を斜めに登るように歩き、おおよそ山の裏側に回ったかと思われた時、木立の中に小さな小屋が見えた。男は真っ直ぐそこへ向かう。
「狭い上にもてなせるようなものは何もないが、外にいるよりはましだろう」
 招き入れられると、すぐに肩に薬を塗られる。大したことはないが、薬草を塗っておけば治りは格段に早い。治せる時に治さねば、いつ何が起こるかわからない。
「すみません、お世話になっちゃって……。ありがとうございます」
 カイルは大きく頭を下げた。遅ればせの礼も言いたかった。
「それから、先ほどはありがとうございました! おかげで助かりました」
「余計なことだったんじゃないか?」
「倒せたか倒せなかったかって二択だったら、そりゃー倒せたとは思いますけど、多分もっと時間がかかってましたし、大怪我負ってたかもしれないですしね。だから、ありがとうございました、ですよ」
「……前向きだな」
「いい親だったので」
 ほんとの親じゃないですけどねー、とは胸の中で付け足し、「そういえば、」
「助けて頂いたのにお名前を聞いてませんでしたねー。あっ、オレはカイルって言いますー」
「ゲオルグ・プライムだ」
「やっぱり」
 思わず声を上げると、不審の目で見られた。
「どうかしたか」
「ええとー……」
 荷物袋を漁り、箱に収めた書簡を取り出す。丸めてあったそれを広げ、文面をゲオルグに見せた。
「これをフェリド様に送ってきたゲオルグ・プライム殿は、ゲオルグ殿のことでしょう?」
「…………」
 ゲオルグは目の前に差し出された書簡に目を通すと、「ああ」と頷いた。
「たしかに俺がフェリドに送ったものだ。……カイルと言ったか。おまえはフェリドとはどういう関係なんだ?」
「フェリド様はオレの養い親です」
「……何?」
 カイルは荷物の中からさらに一通の手紙を取り出すとゲオルグに手渡し、それをゲオルグが読んでいる間にざっと説明した。
 十六で故郷を飛び出し、すぐにフェリドと出会ったこと。カイルに身寄りがないのを知ると、養ってくれるようになったこと。フェリドの稼業と、彼に憧れて稼業を手伝うようになり、独り立ちするつもりでいたこと。そして独り立ちをして初の仕事が、ゲオルグが寄越した依頼であること。
「……というわけで、オレが来たってわけです」
「…………あいつ……」
 手紙に向かって忌々しげに呟きを、溜息で掃ってしまうと立ち上がる。
「どうかしたんですかー?」
「いや……何でもない。仕事の話をする前に食事にしよう。腹が減っているだろう」
 問われた途端、正直な胃がゲオルグの言葉に同意するように、小さく鳴った。なんてタイミングだとさすがに恥ずかしくなったが、ゲオルグは微笑しただけでキッチンに向かった。
 たいしたものは作れないが、と言われたものの、夕食はカイルの舌も胃も満たしてくれた。特に兎肉と野菜、茸のホワイトシチューは絶品で、思わず二杯目をよそってもらったほどだ。たかだか数日で手料理に飢えてしまっていたのだろうかと思うと、まるで子供のようだ。
 そうして食後、寛ぎながら話そうとゲオルグが酒とつまみを用意してくれたのだが――
「オレ、ケーキをつまみにする人、初めて見ましたよー」
 半ば感心したように呟けば、ゲオルグがちらりと視線を寄越す。親の機嫌を伺う子供のようで、笑みを誘われる。
「おかしいか?」
「好みはそれぞれ、でしょうねー」
 笑いながらチーズケーキを口に運ぶ。ラム酒に漬けられたと思しきレーズンは濃い酒の味。ケーキ部分はチーズの味がしっかりして、外側や底のビスケット部分は固めで、全体的に甘さはほとんどない、チーズの風味が生きたベイクドチーズケーキだ。これなら確かに酒のつまみになる。
 カイルの好みにも合い、思わず「おいしー!」と言っていた。
「そうか。口に合ったならよかった」
 つられたように、しかしどこか嬉しそうに笑う。笑顔に見惚れてしまった。よほど好きなのだろう。精悍な顔と好みのギャップに、好感度が上がる。
 そうなると、色々なことが聞きたくなってくる。酒の勢いも手伝ってか、カイルはやたらとゲオルグに話し掛けた。ゲオルグも鬱陶しがらず、応えてくれる。
「ゲオルグ殿は、ここで一人で暮らしてるんですかー?」
「そうだな……最近はここを根城にしている」
「最近ですかー? その前はー?」
「北の、赤月帝国に。群島諸国にいたこともある」
 群島諸国はフェリドの故郷なのだと聞いたことがある。二人が知り合ったのはそこでだろうか。
「旅をしてるんですかー?」
「旅と言えば聞こえはいいが、ひとつ所に留まれない性質でな……各地を放浪しながら、傭兵のようなことをしている」
 きっとこの男ならそれで生きていけるのだろう。何しろ相当な手練れだ。仕官すれば相当な地位までいくのではないだろうか。
 他国の美女事情にも興味が湧いたが、ゲオルグの問いが早かった。
「このあたりに出没する魔物の噂は聞いたか?」
 どうやら真面目な話になりそうだと居住まいを正す。
「セーブルで聞きましたよー。被害は小さいそうですけど、数が多いみたいですね。……吸血鬼」
「ああ」
 旅人をあまり歓迎していない空気だったのはそのせいなのだと、親切な宿屋の女将が教えてくれた。
 死者や、吸血鬼化した者が出たという話は聞かなかったが、だからといって楽観はできない。明日にも死者は出るかもしれず、いつ首筋に穴を開けられるとも知れない。薄らとしたストレスが長く続けば、街の治安悪化にも繋がる。魔女狩りめいたことも始まってしまうかもしれない。そうなると、名君として知られているセーブルの領主ソリス・ラウルベルでも村人を押さえきれるかどうか。
「オレが聞いた範囲だと、はっきり姿を見た人はいないみたいですねー。もしかしたらいるのかもしれないですけど、そこまでは聞けなかったです」
 始めの頃に血を吸われたという被害者も、月夜に襲われたというのに顔についての記憶は曖昧だという。もしかしたら何か薬のようなものを使用したのかもしれないし、魔法の類で記憶を混乱させているのかもしれない。
「なるほど……」
「あと、吸血鬼と関係あるのかどうか知りませんけど、金色の獣を見たって話も聞きましたよ」
「金色の獣?」
「キラータイガーやヘルハウンドに似てるんですけど、もっとしなやかで綺麗だったそうですよ」
 ただ、そちらの獣に襲われたという話は聞かなかった。もっぱら吸血鬼に関する話ばかりが話題になっていた。獣に被害を受けたという者がいないため、危険視されてはいないのかもしれない。
 カイルの話にゲオルグは「なるほど」と頷くと、思案するような表情でグラスを口に運ぶ。
「……ゲオルグ殿がフェリド様に依頼を送られたのは、もしかして……」
「ああ。この件で力を借りようと思ってな。他に思い当たる人物もいなかったから、駄目かもしれんと思ったが……」
「オレですみませんー……」
「いや、ありがたい」
「そーですか?」
 どう考えても、一緒に仕事をするのならフェリドのほうがやりやすいはずだ。彼を知っているというのならなおのこと。
 しかしゲオルグは首を振る。
「俺もフェリドも、魔法は苦手だが……おまえは違うだろう。おまけに剣も使える」
「どっちも中途半端、かもしれませんよー?」
「本当に中途半端なら、フェリドも共に来ていたはずだ」
 だから心配しない、と笑う。優しい笑みに、カイルはさりげなく視線を逸らした。サラマンダーを相手にしているのを見ただけでそこまでわかることもすごいと思う。
 少し、いやだいぶ面映い。
 ゲオルグのような男は、きっと申し訳程度の世辞は言わないだろう。だから照れくさかった。
「吸血鬼のことは、どれだけ知っているんだ?」
「たいしたことは知りませんよ。フェリド様が教えてくれた範囲ですし」
 巷で言われている吸血鬼の弱点の大半は架空のもので、朝日も平気な奴はいるし、大蒜や十字架も弱点にはなりえない。弱点らしい弱点はないが、身体的能力は人間より遥かに優れており、少々の傷や怪我はあっという間に治るのだという。
 それだけ聞くと、本当に倒せるのかどうか疑問に思ってしまうが、方法がないわけではない。
 フェリドから教えられた吸血鬼のことを指折りながら思い出す。
「殺せば死ぬっていうのも聞きましたが、なかなか大変だとか、元々は好んで人を襲ったりするようなことはせず、始祖と呼ばれる人を中心に小さな村で暮らしてたとか、大昔にその村で何かがあって、ほとんどの吸血鬼はその時に死に絶えたって聞きました」
 セーブルを襲っている魔物が本当に吸血鬼であるとするなら、生き残った数少ない吸血鬼のうちの一人なのだろう。
 首と胴を斬り離せば殺せるだろうか。死人が出ていないようだから、説得すれば何とかなるかもしれないが、人間の生き血以外の主食はあるのだろうか。
 カイルが難しい顔をすると、ゲオルグが口を開いた。
「吸血鬼は属性で言えば闇だ。破魔の魔法がよく効く。本当は、夜の紋章があればいいんだが……あれは今どこにいるか、俺にはわからん」
「殺すつもりなら、普通に倒すだけじゃダメってことですかー?」
「首を斬ってやれば大丈夫だな」
「でなければ……」
「一時凌ぎにしかならん」
「それじゃー意味ないですよねー」
 セーブルから一時吸血鬼は消えるかもしれないが、復活してまたセーブルや違う街が襲われるのでは意味がない。相手が話のわかる吸血鬼なら良いが、そんな吸血鬼ならそもそも人は襲わない。
 その夜は夜更けまで話し続け、カイルが欠伸を殺しきれなくなったところでこれ以上考えるのは明日にしようということになった。
 ちょっとした問題が持ち上がったのは、眠る前だ。
「いいですよー、オレが床で寝ますから!」
 ゲオルグがねぐらにしているという小屋には、当然のようにベッドはひとつしかない。客を招くことを考えて暮らしているはずはなく、ベッドを使用するのは当然家主だと考えていたカイルは、ひとつしかないベッドを勧められて慌てて手を振る。
 だがゲオルグはカイルの固辞を受けてなお寝台を勧めた。
「俺が招いたのだから、客人をもてなすのは当然だろう。寝心地は保証しないが、床や外で眠るよりは良いはずだ」
「雨風をしのげるだけでありがたいですからー」
「山の夜明けは冷え込む。あんたに風邪を引かれたら、フェリドに何を言われるかわからん」
 養い親の名まで出されては、カイルもいつまで我を通すわけにもいかない。だが家主であり、恩人でもあるゲオルグを床で寝かせることにはどうしても抵抗があった。
「……じゃあ、一緒にベッドで眠りましょう。それなら寒くないですし、ゲオルグ殿も床で眠らないで済みますよねー? 少し狭くなりますが、仕方ないってことで」
「いや、俺は……」
「文句は聞きませーん。ほら、詰めましたからどうぞ」
 ベッドに上がりこんだカイルが半分のスペースを示すに至り、ゲオルグは諦めたように溜息をついた。
「……わかった」
「オレもフェリド様に依頼主を床で寝かせるとは何事だ、とか怒られるのは嫌ですからねー。お互い我慢しましょうってことで」
 どうせ一緒に眠るなら男より女のほうが良いに決まっている。ゲオルグもそうなのだろうが、ここは目を瞑ってもらうほかない。
 明け方どころか山では夜も寒く、ベッドを勧めあっている間にも体は冷えてしまった。毛足の長い毛布に肩まで潜り込み、ゲオルグに背を向ける。ややあって明かりを消したゲオルグが隣へ体を横たえた気配がし、カイルはほっとして目を閉じた。眠りは思いの外早くカイルを引きずり込んでくれた。
 
 
 
 体に奇妙な違和感を覚え、カイルは意識を浮上させ――自分の置かれた状況に気付くと、頭の中が真っ白になった。
「えっ……な、なにっ?」
 裸にされ、組み敷かれている。薄ぼんやりとした中、相手の顔の判別は何とかついた。――ゲオルグだ。
 それがわかると思考が止まる。
 ――何故ゲオルグ殿が?
 理由を考えるより反射的に体を押し退けようとしたが、腕は頭上でまとめて縛られている。力いっぱい引っ張ったが、とても外れそうにない。
「う、あ……ッ」
 体の中心を弄られると、甘い痺れが体の中を走る。どれほどそうやって弄られていたのか、すっかり熱を帯びた性器は先端から先走りを零していた。自分の体の反応が信じられず、顔を逸らして羞恥を耐える。
 ゲオルグの指が胸元を撫で、視線はカイルの体から動かない。見られる羞恥から逃げるように体をよじるが、逃げられずに抑え込まれる。
 顔が寄せられたと思うと、耳朶を噛まれ舌で舐められ、首筋まで辿られた。ぬめらかな感触に、体が震える。
 性器に触れた手はカイルの中心を握りこみ、指先が先走りを塗りこめるように円を描いて撫でる。男相手の経験はないはずなのに、ゲオルグの行為に反応を返している体が信じられなかった。
「あッ……」
 短く悲鳴をあげ、震えた。全身が痺れたように力が入らないことに気付く。口では嫌だと言っても、触れられた箇所がどこも気持ち良くて堪らない。歯を食いしばって声を堪えることしかできないが、それもいつまでもつか。
 されるがままに大きな手に脚を割り開かれ、急所をすべて晒す。ぬるついた指が張り詰めた性器を撫で下ろして後ろを辿り、狭い孔を撫でる。そうして体の力が抜けているのを良いことに、指がゆっくり捩じ込まれていく。先走りだけではなく、何か塗られているのか、指を入れられても痛みはほとんど感じなかった。
「ゲオルグ殿っ……止めてください……っ」
 影が落ちているゲオルグの顔にどんな表情が浮かんでいるのか、カイルには見えない。押さえつけられ、行為に恐怖を覚えても、体は無関係であるかのように上り詰めていく。
 後孔に入れられた指が蠢き、狭いそこをゆっくり解きほぐしてゆく。ある一点を擦られれば、背が大きく仰け反った。
「あ、あッ、やだ……ッ」
 逃げる腰はゲオルグの手に捕えられ、強く反応を返してしまった箇所ばかりを責め立てられる。声はもう、抑えられない。
「やぁっ、あッ……、あっ、あ……!」
 開かされていた脚を抑え付けていた手は既になく、閉じようとしていたのに強く弱く刺激を繰り返し与えられ、しどけなく開いたまま、踵がシーツを滑る。性器は触れられてもいないのに雫を零し続けた。
 覆い被さったゲオルグが胸元に口付け、しこりを帯びていた乳首を口に含む。唇でやわやわと食まれたかと思えば、歯を立てられ、押し潰すように舐められる。
 奥まで指が入れられたかと思えば、感じる場所に触れながら抜かれる。同時に指で乳首をつままれた。複数与えられる刺激に、腰から背筋にかけて何かが走った。
「ゲオルグどのぉ……、やだ……っ」
 滲みがちの視界で、ゲオルグを捕える。ふとゲオルグが笑んだ、ような気がした。
 ゲオルグは胸から顔を起こすと、指をことさらゆっくり引き抜いた。カイルは憐れな悲鳴をあげ、体を震わせる。
「          」
 耳元で何か囁かれたが、よくわからなかった。いや、わかったが理解できなかった。そんなことを今言うのは卑怯ではないのか。少なくとも、人の体を蹂躙しておいて言う台詞ではない。反論も何もできない。
 そうして後孔に指より数段質量があるものが宛がわれ、ゆっくりと突き入れられる。
「あ、ああ……ッ」
 腰を掴まれたままでは逃げを打つこともできず、ゲオルグの性器を受け入れた。緩く、あるいは強く抽挿を繰り返され、そのたびに意味をなさぬ言葉が唇から漏れた。
 
 
 
 飛び起きた。声を上げて毛布を跳ね除け、自分の体を見下ろした。――汗でべったりと肌に張り付いていたが、服を着ている。だが早鐘を打つように動悸は激しい。
 あれは本当に夢だったのか?
 呼吸を整えながら唾液を飲み込む。喉は渇いてひりついた。闇の中で目を凝らし、己の手首を凝視する。縛られたような跡は見当たらない。さすってみても痛みはなかった。
 長い溜息を吐き、ようやく肩の力を抜く。
 夢だったのだ。
 脱力し、ヘッドボードにもたれる。
「よ……よかった……」
「……大丈夫か?」
「っ?!」
 かけられた声に心臓が跳ねる。思わず身構えてしまったのは仕方がないとカイルは自分に言い訳し、ゲオルグが身を起こすのを見つめた。
「あ……す、すいません、起こしちゃいましたね」
「気にしなくていい。……嫌な夢でも見たのか」
「ええ、まあ……そんなところです」
 まさか正直に夢の内容を話すわけにもいかない。曖昧に言葉を濁すと、カイルは手探りでベッドから降りようとした。寝直すにしても、汗は拭いておきたい。隣で眠るゲオルグに不快な思いをさせるのも気が引けた。
「ちょっと、水でも浴びてきますー。汗かいちゃって……」
「大丈夫か?」
「ええまあなんとか……わっ?!」
 ベッドの端へとなんとか移動しようとしていた時、体が毛布に引っかかった。頭から床に落ちる。思ったが、衝撃はなかった。ゲオルグの腕が腰から腹へ回され、支えられていた。
「暗いからな……気を付けろ」
「……っす、すいませんっ」
 思わずどもり、体は硬直する。自然にしなければと思うほど、不自然になる。真っ暗でなければ、顔が赤いのを不審に思われたに違いない。
「オレっ、汗かいてるから気持ち悪いでしょっ。すぐ戻りますからっ。あ、起こしてしまってすみませんでしたっ」
 今度は慎重に、と思うが、根本的な問題に気付いた。カイルが言うより早く、ゲオルグが察したようにベッドから下りる。
「明かりが要るだろう。俺も付き合おう」
「やっ、明かりだけでいいですよー?」
「目が覚めたついでの散歩だ。気にするな」
 固辞しようとしたが、結局「水辺の場所まで案内がいるだろう」というゲオルグの言葉に折れて、同行してもらうことになった。水辺まで行くにしても帰るにしても、遭難はしたくない。
 着替えと体を拭く布、武器を携え、ランタンであたりを照らし歩くゲオルグについて歩く。離れたところから川のせせらぎが聞こえたが、月のない闇夜では確かに方向がわからない。あたりを見回しもせず歩く男は、よほどこの山に詳しいのか。ねぐらの周りを調べるのは初歩とはいえ、ゲオルグの方向感覚には感心してしまう。
 どうにも調子が狂ったままなのは、ゲオルグが一緒にいるからだ。せっかく頭と体を冷やそうと思ったのに、これでは効果があるかどうか。しかし彼に罪はないので、厚意は素直に受け容れるべきだろう。
 ゲオルグが立ち止まり、振り返る。薄ぼんやりした光を受けても、彼の目は金色に見えた。
「……着いたぞ」
「ありがとうございます。すいませんー」
「構わん。が、水は相当冷たいから気を付けろ」
「服着たままでもいーかなー」
「おい……」
「大丈夫ですよー」
 洗う手間が省けるとばかりに川の中へ足を踏み入れる。刺すような冷たさに、眉を顰めた。しかし気を取り直し、足を進めて膝まで浸る。しゃがみこんで顔を洗うと、気持ちもすっきりする気がした。
「ま、いっかー」
 思い切って体を川の中に浸す。芯まで凍るような冷たさが、今は心地好い。星空を見上げ、体の熱を冷ましていく。
 きっとあんな夢を見たのは、女性と話す機会が減ったからだ。フェリドの手伝いで出掛けていた時には、気が紛れていたためか平気だったが、一人では気を紛らわせるにも限度がある。
 ちらりとゲオルグのほうを見遣れば、ランタンを岩場に置いて座り込んでいるようだった。こちらを見ていないのは、周囲を警戒してくれているのだろう。あるいは、起きてから様子がおかしいカイルを気遣ってのことか。
 あれは夢だったのだから、気にするほうがおかしい。態度をおかしくするのもゲオルグに失礼だろう。今正面から顔を見づらいのは、自分が受身だったことと、相手がゲオルグだったこと、リアルな夢だったこと、リアルすぎて滅茶苦茶気持ち良かったことのせいだ。羞恥心と罪悪感がないまぜになっているのなら、今この河の流れで流し落としてしまえれば良い。
 実際されてもあんなに気持ち良いのなら、抵抗する気も途中で失せそうだという考えも、流しておくことにする。
 自分に言い聞かせると、溜息を吐いて体を起こした。さすがにもうこれ以上は体が冷えすぎる。髪も服も水を含み、体が重く感じられる。すっかり体温を奪われていた。
「大丈夫か?」
「大丈夫ですよー。…さすがに寒いですけど」
 川の水に全身を浸した上、夜風に吹かれては体温が戻るはずもない。濡れた衣服は身動きが取りづらく、なかなか脱げてくれない。ようやく脱げたと思ったら、ゲオルグが頭からタオルをかけてくれた。礼を言い、体を拭う。
 すっかり頭が冴えた。今夜はこれ以上眠れるかどうかわからないが、体を休めなくてはならない。できる時に体を休めるのも、旅と仕事の基本だった。
 着替え終わると、来た時と同じようにゲオルグがランタンを手にして歩き出す。後をついてゆっくり小屋へと戻った。
 
 
 
 翌朝、カイルは発熱した。
 原因は考えるまでもなく、深夜の行水のせいだ。フェリドの家を出てから続いた緊張感が、ゲオルグに会ったことで解かれたせいもあるのかもしれない。
「……ほんとーにすみませんー……」
「気にするな。ひとりの時じゃなくて良かったな」
「そーいってもらえると、嬉しいよーな、ベッドを占領して申し訳ないとゆーか……」
「風邪なら寝ていれば治るだろう。余計なことは気にしなくていい」
 ゲオルグは苦笑すると、カイルの額に手を当てた。
「……ゲオルグどのー」
「ん?……冷たかったか?」
「きもちいーですー……」
 額に当てられた手を取り、頬を擦り寄せる。体温が高くなっているためか、ゲオルグの掌はひんやりとしていて気持ち良い。できればずっと触っていてもらいたいくらいだ。
 ゲオルグはそんな気持ちをわかってくれているのか、手を払おうとはせず、カイルの額や頬を撫でてくれる。
「……気持ちいー……」
 うっとり呟き、ほとんど閉じかけていた瞼を閉じてしまう。意識を何かに搦め捕られるように眠りに落ちた。
 
 目を覚まして緩慢に身じろぎし、あたりを見回すと、薄明かりの中でゲオルグに見つめられていることに気が付いた。食事を一緒に摂ったテーブルに肘をつき、こめかみのあたりを支えている。金のひとつ目に捕えられていた。
 何を考えているのか、まったくわからない。わからないのは熱のせいなのか、本当にわからないのか。それすらもわからなかった。
 じっと見つめ返せば、わずかに空気が揺れる。
「……ゲオルグ、どの……?」
 声は熱のためか掠れ、届いたかどうかわからない。ふとゲオルグが立ち上がり、ベッドの傍までやってきた。
 濡らされていたタオルが外され、額にそっと、冷たいゲオルグの掌が当てられる。やはり心地よかった。
「……下がらんな」
「さっきよりは、楽になりましたよー?」
「もう少し眠ったほうが良い。……それとも、何か食べるか?」
「いえ……もう少し、そうしていて下さい……」
 ただ触れているだけでこんなに気持ちいいなんてすごいなあなどと暢気なことを考え、掌に頬を擦り寄せる。もう片方の手が、頭皮を撫でるように髪を梳いた。
「……せっかく水を浴びたのにー……また浴びなきゃ……」
「拭くだけにしておけ。ぶり返したら意味がないだろう」
「そうかもしれないですがー……」
「病人は大人しく言うことを聞くものだ」
 優しい笑みと掌に、カイルは小さく頷いた。
 まるで子供にでもなったような気さえする。何故だか安心してしまう。無意識にゲオルグの腕を抱きしめる。
「おい……?」
「添い寝してくださいよー添い寝ー」
「何?」
 思い切り怪訝な顔をされると、ぱっと手を離して背を向ける。自分でも子供っぽかったかと思うだけに、ばつが悪い。
「冗談ですよー」
 さすがに自分の発言に少し恥ずかしくなって寝返りを打ち、視線を避ける。ゲオルグはどう思っただろうか。
 気恥ずかしさに身を丸めれば、背後で毛布がめくられた。ベッドが小さく軋む。何事かと身を硬くすると、背中から抱きしめられた。ひんやりとした体温を感じる。――心地良い。
「余計に悪化しても知らんぞ」
 どうやらカイルの子供のようなおねだりを聞いてくれるらしい。だが背を向けたのは失敗だった。ゲオルグの声をすぐ耳許で感じてしまう。
「だ……大丈夫ですよー」
 多分、と口の中で付け足すと、ばれないように深く呼吸を繰り返す。
 抱きしめられることまではねだっていないが、密着している部分が多いとゲオルグの低い体温のおかげで全身が楽になるような気がする。包まれていると、水の中にいるような気分になる。熱でほてった体には、ちょうど良い。それだけで熱が下がった気になるのは、いくら何でも気が早過ぎる。
 頭の後ろのあたりで、ゲオルグの鼓動を感じた。ゆっくり脈打つリズムを聞いて、感じているうちに、先程起きたばかりだというのに眠くなる。
「不思議だなー……」
「何がだ?」
「……なんでこんなに気持ちいーのかなー……」
「…………」
 撫でる手が一瞬止まった気がしたが、本当に一瞬だけの間だった。優しく撫でられ、心地好さに瞼が重くなる。
 フェリドと仕事に出た寒い冬の夜、彼に抱きしめられて眠った時のような安心感。同じもののようでもあるし、違うようでもある。
 それをゲオルグにも感じたのだと言ったら、怒るだろうか。呆れるだろうか。
 そのうち本当に眠りに落ちてしまったので、口に出して言ったかどうかはわからない。
 
 
 
 
 
 規則正しい寝息が聞こえ始めても、ゲオルグはカイルの頭を撫でる手を止めなかった。
 なんと無防備な人間だろうか。
 ゲオルグはひっそりと吐息した。長い金の髪に口付けると鼻頭を埋め、髪に隠れた首筋、項のあたりにも口付ける。汗ばんでいたが、気にはならない。起きる気配はなく、体の力は抜けている。眠った相手にこれ以上の不埒を働く気はないが、腕の中にあると思うと触れたくなるのは仕方ない。自分に言い訳し、抱きしめる腕に力をこめた。
 長い独り身に、久々の人の温もりは甘い罠のようだ。
 生きているものの鼓動は、優しく柔らかく暖かい。長い年月を独りでいると決めたことを悔やみはしないが、人間が嫌いというわけではない。むしろ逆だとわかっている。
 時には街で女性と同衾することもあるし、情報を仕入れるために見知らぬ旅人や渡りの傭兵たちと話すこともある。その程度の付き合いを淋しいと思ったことはなかった。それが当たり前だったからだ。
 フェリドはその点、特殊に入る人間だったが、この男はどうか。
 出会ってたかだか二日だ。そんなことがわかるわけがない。触れたくなるのも、こんな近くに人がいるのが久しぶりだからだ。
 己に言い訳しても白々しく思えるのは、それが偽りだとわかっているせいだ。
 話をしているうちにこの男に好感を抱いたのは確かだが、それが肉欲を伴う好意に進展してしまっているのは予想外だ。ちらりと吸血鬼が好むタイプだなと思ったのは確かだが、ゲオルグ自身にも当てはまってしまうとは。
 フェリドが寄越した手紙の内容を思い出し、ひっそりと溜息を吐く。
 ――厄介なことを頼んでくれたものだ。
 他の人間ならともかく、フェリドの頼みを断るという選択肢は、ゲオルグにはない。だからこそ溜息を吐くしかなかった。
 あんな夢を見てもカイルがゲオルグを避けたり嫌ったりしている様子がないのは幸いだが、何度も続けば変わるかもしれない。そうなる前に、本当のことを話してしまうのが良いだろう。その結果、フェリドの頼み通りにならなくても、仕方がない。
 結論付けると、身を起こしてベッドから離れた。カイルが今風邪を引いてしまっているのも、ゲオルグに責任の一端がある。このままゲオルグまで眠ってしまえば、またおかしな夢を見させてしまうかもしれない。病人の体に障ることは避けておかねばならない。
 何か栄養のあるものを食べさせたほうがいいか、と考えながら装備を整えた。備蓄食料の残りも多いとは言えず、仕入れる必要がある。肉や魚は山でも賄えるが、セーブルまで行って色々仕入れて来ることを決めると、小屋を後にした。
 野菜、薬を少しと酒にパンと米。自分のためではないそれらをセーブルから担いでねぐらに戻ると、カイルがベッドの上で身を起こしていた。ゲオルグの顔を見ると、心なしか安堵の笑みを浮かべる。
「起こしたか?」
「いえ……」
 頭を振り、次に何をしようか迷っているような表情で見つめてくる。ゲオルグは荷物を置くと、ベッドに近付いた。
 カイルの額に手を宛てると、顔をしかめる。
「さっきより熱があるな」
 寝ておけ、と横にさせようとするが、拒まれる。熱くて寝ていられないというのが言い分だが、だからといって起こしておくのも良くはないはず。治りが遅くなるだけだろう。
 言い聞かせようとしても、カイルは首を横に振る。
「やですー。暑いですもん」
「早く熱を下げるんじゃないのか」
「そうですけどー……あついー……」
 毛布を跳ね飛ばしてぐったりとシーツに埋もれる姿は、憐れみを誘う。滅多に体調を崩すことのないゲオルグにはその辛さはわからないが、何とかしてやりたいとは思った。
 額に再び手を宛ててやると、力の抜けきった笑顔で見上げてくる。
「やっぱり気持ちいーなー……あ、ゲオルグ殿は暑苦しくないですかー?」
「ああ。平気だ」
 頷き、汗で額に張り付いた髪を指先で払ってやる。もともと暑さ寒さを極端に感じない体だ。旅を続けるには重宝する体だと思う。
 タオルを水を張った桶に浸し、固く絞ってカイルの首筋を拭くと、気持ち良さそうに息を吐いてくれる。
「もしよかったら、お願いがあるんですがー」
「何だ?」
 腰を屈めて顔を覗きこめば、青の眼が見上げてくる。空の色のようだ。
「……また、さっきみたいに添い寝してくれませんか? すごーく気持ちよかったから、してくれたら眠れそうなんですよねー」
「…………」
 思わず沈黙してしまったのは嫌だったからではない。それでは離れた意味がないなと思ったからだ。無論、カイルがそんなことを知るはずがないが。
 カイルは黙ってゲオルグを見上げ、返事を待っている。どこか幼い表情を見ると、沈黙を誤魔化すように髪を梳くように頭を撫でた。
 二十歳はとうに越しただろうに、フェリドは一体どういう育て方をしたのか。それとも元々の性質か。
「……わかった」
 変な夢を見ても知らないぞと口の中で呟き、タオルを置いてマントを脱いだ。
 
 
 
 目覚めがやけにすっきりしているのはどういうわけか。
 窓から差し込む光は、おそらく朝日。昨日添い寝を請われてベッドに入ったのは昼過ぎだったか夕方前だったか。いずれにせよ、半日以上寝ていた計算になる。そんなに眠ったのがいつ以来なのか思い出せず、ゲオルグは溜息を吐いた。
 ――気を許しているのはこいつだけではない、ということか。
 ぴったりと密着されているがゆえに、体を起こすのは躊躇われた。しがみつくように抱き着いて眠っているカイルの頭を撫でる。ついでにと額に触れれば、熱は大分下がっているようである。この分なら、今日一日ゆっくりさせれば明日から動けるに違いない。
 手慰みに、縺れて散らばっている髪を梳いてやった。長い金髪はシーツに散らばり、朝陽を受けて輝く。日の出の光のようだ。美しいその色は、ゲオルグにはいささか塗しすぎる。だが目は離せない。寝顔は見えないが、穏やかであって欲しいと思う。
 しばらく頭や髪を撫でる以外にすることもなく、ひたすら撫で続けているうち、不意に抱き着いていたカイルが身じろいだ。緩慢な動作で顔を上げ、視線のピントが合うと、面白いくらい真っ赤になる。次いで、勢いよく体を起こした。
「ゲオルグ殿っ?」
「おはよう。よく眠っていたな」
 体の調子はどうかと尋ねると、「だ、大丈夫です!」と勢いよく答える。
 様子がおかしいのは一目瞭然。眠りに就く前は背中を向けて寝ていたのに、起きたら正面から抱き着いていたことが恥ずかしいのか、ゲオルグの危惧通りおかしな夢を見たか。原因はどちらだろう。
 じっと見つめると、慌てたように視線を逸らす。
「……また、おかしな夢を見たか?」
「えっ?」
 いっそ笑えるほどの狼狽ぶりに、ゲオルグは溜息を吐く。間違いなく、夢を見たのだ。この男を気に入っているのは自覚したが、続け様に見せてしまうとは。相性はいいのかもしれないが、このままだと嫌われ、避けられるのが先ではないだろうか。
 どうせ避けられるのなら、今のほうが傷は浅いかもしれない。どの道、告げると決めていたことだ。腹を括ると頭を下げた。
「……すまんな」
「なんでゲオルグ殿が謝るんですかー?」
「おまえが妙な夢を見るのは多分、俺のせいだからだ」
「ど、どーゆーことですか?」
「俺はどうも半端者でな……」
 ハーフの吸血鬼なのだと告白すると、カイルは目を大きく見開いた。
「吸血鬼とはいえ、血は必要ではないし、体が丈夫なのが取り柄のようなものだが……いつからかはわからんが、俺と接触して眠った一部の人間は、おかしな夢を見るらしい」
 同じ夢を見ること(見せること)で、同衾した相手から血を得るのと同じだけの気を頂いているのだと、何度か同じことを繰り返すうちに気が付いた能力だった。おかげで吸血鬼だと悟られずに人の世界に居られるのだから、感謝もしている。
 夢の内容は人によって違うようだが性的な夢が多いのは手っ取り早く気を吸収できるからだろう、と付け足すと、カイルの様子を窺った。今はただ呆然としており、ゲオルグの言ったことを本当に理解したのか怪しい。
「おい。……大丈夫か?」
「だ、大丈夫です」
「ならいいが……だから今夜からは俺が床で眠る。ベッドはおまえが使えばいい」
「でも、」
「不可抗力だが、またおかしな夢を見ないとも限らんだろう。今までの経験から言えば毎回毎回見ることはないんだが、用心に越したことはない」
 もし俺といるのが気持ち悪いのなら、依頼はなかったことにしてくれて構わない。
 付け足すと、カイルは微妙な表情をしたが、最終的には頷いてくれた。
 ゲオルグはベッドから下りると昨日置いたままにしていた食材を取り上げた。
「俺は食事の支度をするから、そのタオルで体を拭くといい」
 水で満たしてあった桶とタオルを指すと、背を向けて食事の支度を始めた。自分のために料理をすることも少ないため、凝った料理は作れないが、またシチューでも良いだろうか。ここへカイルが初めて訪れた夜の彼の食欲を思い出しながら、食材を洗った。
 背後ではカイルが体を拭いているらしい着替えているらしい気配。時折こちらを窺うような気配を感じるが、気付かぬふりで食事の支度を続けた。
 どうやら逃げるつもりはないらしい、ということがわかったのは、食事を摂るためにカイルが席についた時だった。今は逃げなくても、これからはわからないなと胸の中で呟き、簡素な食事を饗した。
 依頼の話になったのは、食後だ。
「具体的に、どーやって仕留めるつもりなんですかー?」
「おびき出すつもりでいる」
「どーやって?」
 小首を傾げられると、カイルの顔をじっと見つめた。
「いわゆる、囮というやつだ」
「それって……一応訊きますけど、誰がやるんですかー?」
「おまえにやってもらう」
「やっぱりー」
 がっくり項垂れた頭を撫でたいと思ったが、ぐっと堪えて笑う。吸血鬼が好むタイプだからという理由は、恐らく救いにはならないだろうから黙っておく。
「おまえに何かある前に終わらせる。心配するな」
「オレだって、ただ囮になるつもりはないですが」
「わかってる。そのための破魔の紋章だ」
 吸血鬼は生命力が人間とは比にならぬほど強い。己の剣の腕に自信はあったが、通常のモンスターと違い、一撃で仕留められるとは思えなかった。保険、というわけではないが、手立てが多いに越したことはない。そのために依頼したのだから。
「囮って具体的に、何をすればいいんですかー?」
「過去の事件を振り返ると、仕掛けてくるとしたら向こうのほうからだ。満月も近いしな」
「ってことは、待つってことですかー?」
「ああ。ただ待つだけじゃないが」
「罠をかけるってことでしょ? オレが囮で大丈夫ですかねー」
 必ず次にカイルが襲われるという確証はない。それは確かにそうだが、ゲオルグには確信があった。普段あまり表に出ることはない、吸血鬼の部分で感じる確信だ。
「心配ない。大丈夫だ」
 断言して頷けば、カイルはよくわからないまま「そーゆーもんですか」と納得したようだった。
「何人かやられてるなら、街の警備も厳重だと思いますけど」
「吸血鬼は闇や夜を好むが、それは闇や夜も同じだ。姿を隠すことなど、造作もない。それに、満月も近いから出歩きたくなる時期だ」
 姿を隠すなど俺にはできない芸当だが、と付け足すと、カイルはくすりと笑った。「ゲオルグ殿は、」
「そんな芸当できなくても素早かったですから」
「普通だろう」
「あれで普通と言われたら、オレは立場がないです」
 一通り軽口を叩き合うと、少ない荷物をまとめてセーブルの街へ向かう。満月までの猶予は数日あったが、街でできる支度は早めに済ませておきたかった。
 数日前にカイルが使った宿屋に部屋を取り、荷物を置いた。ゆっくり休むこともなく、夕方を待って街をぶらつく。事件を起こしている吸血鬼が出没するなら満月の深夜が確実だが、その前に下見に来ている可能性があるというのがゲオルグの言だったからだ。
 軒を連ねる店々を冷やかしながら、どうせなら楽しんでしまおうというのか、カイルは店の女性たちに歯の浮くような台詞を贈っている。変に緊張されるよりはマシだが、案外図太い神経の持ち主なのかもしれない。だからこそ、依頼を蹴りもせずにここにいるのかもしれないが。
 具体的にどう接触してくるのかはわからない。吸血鬼の性格によるからだ。古風な吸血鬼は眠りに就いてからそっと獲物の元へ訪れるが、白昼堂々細い路地に獲物を連れ込む吸血鬼も、いないわけではなかった。
 だが、逃がしはしない。これ以上迷惑をかけるのは、始祖の意思にもゲオルグのような半端者にも邪魔だからだ。離れた所からカイルの周辺に注意を払いながら、ゲオルグは決意を新たにした。
 
 結局、その日は何事も起こらず、二日が経った。――満月だ。
 
「いよいよですねー」
 さすがに緊張しているのか、言葉の端が固い。だが表情は相変わらずの笑顔だ。鏡に向かって緩い三つ編みを作るその右手には破魔の紋章が、左手には以前から宿していた水の紋章がある。
 袖がないキャメルの革の上衣は下に着ている黒いシャツ同様、首元が開いており、さぞ食い付きやすかろうと思われた。無論、その肌に歯を立てられる前に仕留めなくてはならないが。
 準備は済ませてあった。後は現れるのを待つだけだ。
「油断しないようにな。いきなり現れる場合もある」
「それ、対処しようがないじゃないですか。ま、吸われるにしても少量で済むように祈ります。ゲオルグ殿を信用してますよ」
「ああ。……これを持っておけ」
 懐から出した小さな人形のようなものをカイルに手渡す。
「あ、これ……」
「気休めだ」
「気休めですねー。でもありがとうございます」
 笑いながら身代わり如来を受け取り、珍しい物でも見るかのように顔や体を一通り撫でると、懐へしまう。
 できればあんなものが使われることがないのがベストだが、最悪の事態は想定しておかねばならない。間に合わないことだけは避けたいが、どうなるか。
 支度をすっかり整えると、別々に表へ出た。日は落ちきってはいないが、雲に隠れた満月は低い位置に顔を出しているはずだった。
 吸血鬼の部分は押し殺し、カイルの身辺に気を配りながら気配を伺う。気の張る仕事だが、気を緩めるわけにはいかない。万一の事態も想定して手は打ってあるが、それが必要にならないのが一番良い。
 ぐるりと街を一巡りし、街を囲う壁のあたりに来た。人気がないのは街の門が閉ざされているからだろう。吸血鬼を警戒しているのなら、当然の措置だった。
 ふと、カイルが城壁の一角を見上げる。ゲオルグもつられるように同じ方向を見上げたが、角度が悪いのか、何も見えない。だが、いるのは気配でわかった。現れたのだ。
 ちらりとカイルがゲオルグを顧み、次の瞬間には城壁へ登る階段のほうへ向かっていた。
 ――いる。
 確信を持って後に続いた。気配は、階段を昇って城壁に上がり、奥へ行くにつれ濃くなる。いつでも刀を抜けるよう柄に手をかけ、身を隠す。
 気配は二人、というには若干弱い。単独で行動するのが基本である吸血鬼が誰かとつるんで行動しているのは珍しい。子連れだとしたら、面倒だった。
 城壁の突き当たりにカイルの背が見える。その奥に、誰かがいるのが見えた。先程まで弱かった気配のひとつが、増していた。
 ――あれは……
 風に雲を払われた月光が、周囲を照らす。カイルに向かい合っているのは、年若い男女だった。女、いや少女のほうは踊り子のような服装だが、少年は半裸で首に肩までの首輪のようなものを身に付けている。
 少年の瞳が見えた。――憂いに満ちた瞳はゲオルグと同じ、金だった。それを見た途端、体は動いていた。
 長い少年の爪がカイルを捕える前にカイルが寸前でかわし、ゲオルグの剣の鞘が凶暴な爪を払う。驚きに満ちた眼がゲオルグに向けられる。
「あなたは……」
「エッちゃん!」
 少女が小さく悲鳴を上げたが、少年は大丈夫と言う代わりに手を引いた。
「おまえたちは純血じゃなさそうだな」
「…………殺しますか、僕たちを」
 いつの間にか抜き身になった剣を突き付けられても、少年は冷静だった。ゲオルグはまっすぐ見つめる。どうやら理性はある。
 眼に力を込めれば、先に視線を逸らしたのは少年だった。少女のほうは元々大人しい性質なのか、気を飲まれたように二人を見守っている。
 話は通じそうだと判断し、口を開く。
「狩りの仕方は教わらなかったのか」
「……はい」
「あのねっ、エッちゃんは元々吸血鬼なんかじゃなかったんだよ! ホントだよ!」
 視線を和らげ、少女を見る。必死の形相で、ゲオルグにしがみつかんばかりの勢いだ。
「ゲオルグ殿……ここじゃ何ですから、話の続きは宿に戻ってからにしませんかー?」
 マントを引かれると頷いた。今更宿で暴れるような真似はしないだろう。カイルの判断は正しい。
「そうだな……おかしな気は起こさないだろうから、そうするか」
 ついて来いと二人を促し、宿屋の一室へ戻る。二人部屋に四人ではソファの数も足りなかったため、ゲオルグとカイルは並んでベッドに腰を下ろした。
 改めて自己紹介から始め、ゲオルグたちは少年がエルンスト、少女がノーマという名だと知った。日中は興行をしていることもあるらしく、少女の奇妙な格好にも納得した。
「それで、先程の話の続きだが……」
 促し、二人を交互に見るとエルンストが口を開く。
「僕は元々、普通の人間でした。でも、数年前に吸血鬼に襲われて……」
「どこで襲われたんだ?」
「僕たちの故郷、ここからだとずっと西の、小さな村です」
「何とか元に戻る方法を探してたんだけど、そしたら今度は変な紋章にとり憑かれちゃって……それは私のせいなの」
「ノーマ、いつも言っているけれど、あれは君のせいじゃない」
「ありがとう……でもやっぱり、私のせいだよ」
 傍から見ると、恋人同士の甘い囁きのようである。その雰囲気に水を注したのは、カイルだった。
「もしかして、あの獣はエルンスト君だったのかなー?」
「あの獣?」
 ゲオルグが隣を見ると、カイルは大きく頷いた。「ええ、」
「城壁にいた、大きな猫みたいな……猫よりずっと野性的な獣でしたけど。噂で聞いた獣もそうなのかな」
「豹です。何て言う紋章なのか知らないんですが、その紋章が宿って以来、僕は豹になっちゃったんです。満月の夜だけは、こうやって自分の意志で人の姿を保つことができるんですが、日中は気合いを入れて戻っても、数分しかもたなくて……噂になってたかどうかはわからないですが、僕だと思います」
「なるほど……」
 沈黙が下りるより先に、窓へ何かぶつかる音がして、ゲオルグが立ち上がる。窓辺に寄り、窓を開けると白い蝙蝠が入って来た。
「わざわざすまん」
「まったくじゃ」
 ゲオルグ以外の全員がぎょっとして蝙蝠を見る。しかしその時には、蝙蝠の姿はどこにもなく、銀髪の少女が立っていた。美少女と形容して間違いない、整った顔立ち、肌は白皙。
 ゲオルグは少女の前に進むと膝を折って恭しく頭を下げた。
「始祖様にはお変わりなく」
「久しいのおゲオルグ。堅苦しい挨拶は抜きじゃ。それで、おんしが言う吸血鬼というのは誰かえ?」
 くるりと一同を見回すと、自分で見付けてしまったらしい。エルンストと目が合うとすぐに傍へ寄る。
「おぬしかえ」
「は、はい」
 銀髪の少女は上から下まで値踏みをするようにエルンストを眺めると、腕を組んで頷いた。
「ふむ。……まあ良い」
「では、頼む」
「うむ。安心するが良い」
 どうやら始祖の機嫌は今は良いらしい。エルンストが好みのタイプだったのかもしれない。どうあれ、ゲオルグには都合が良かった。
「あのー、ゲオルグ殿ー」
「ん?」
 恐る恐る掛けられた声に振り向けば、カイルが興味津々な顔で始祖を見ていた。 「そちらの可愛いお嬢さんは、一体?」
「ああ……すまん」
 紹介がまだだったな、と笑って少女を顧みる。
「こちら、我ら吸血鬼の祖にして村の長であられる、シエラ様だ」
「我が子らよ、息災で何よりじゃ」
 何か返さなくてはならないのかと、エルンストが視線で訴えるのに気付き、ゲオルグは表情を和らげる。
「今は初めまして、で構わんが、次からは始祖様もお変わりなく、と答えるといい」
「はい。……初めまして、始祖様」
「うむ」
「あ、オレも初めましてー! 吸血鬼じゃないですけどー、カイルって言います」
「わ、私も初めまして! ノーマです、よろしくお願いします!」
「ゲオルグ、そちら二人は何者じゃ?」
 紹介を受けて初めて気付いたというように、カイルとノーマを交互に見た後、ゲオルグを見上げてくる。まるで少女そのものだが、実際は何百歳という年齢だということは知っている。言わずにおいたほうが機嫌は損ねないだろうから黙っておいた。
「ノーマはエルンストの連れ、カイルはフェリドの養い子で、今は俺が雇っている」
「あの男はまだ魔物退治をやっておるのか」
「元気にやってますよー。フェリド様をご存知なんですかー?」
「おお。縁があってのう。婚儀にも呼ばれたが、あやつには勿体ないくらいの美人じゃったな」
「フェリド様とアルシュタート様の結婚式ですかー?」
 首を傾げるカイルに、ゲオルグは「見た目通りの年齢と思うな」と囁いた。
「すべての吸血鬼たちの親みたいな人だからな」
「てことは、ゲオルグ殿より年上……?」
「ずっとな」
「そこ、聞こえておるぞ」
 ぎろりとシエラに睨まれ、カイルが慌てて「綺麗なまま歳をとらないのもいいですよねー!」などと取り繕うのが面白い。
「あんたに面倒を見てもらうことが決定した後で何だが、本題だ」
「ふん。ぬしが寄越した手紙に書いてあったのう。だいたい承知しておるが……エルンスト、そなた人を殺めるまで血を吸うてはおらぬのじゃな?」
「は、はいっ」
 突然話を振られ、エルンストが姿勢を正す。ゲオルグが安心させるように微笑むと、肩の力を少し抜いたようだ。
「おまえたちの身柄はシエラ様に預ける。気を付けねばならんことや血の吸い方、その他色々教えてもらうといい。シエラ様は各地を旅しておられるから、そのうちエルンストの紋章に関しても解決できるかもしれないな」
「ホントにっ?」
「確約はせぬが……可能性があるのは確かじゃな」
 エルンストとノーマはシエラの微笑みに顔を合わせて頷き、声を揃えて「お願いします!」と頭を下げた。
 
 
 
 
 
 翌日、エルンストとノーマがシエラに伴われてセーブルを後にするのを見送ると、カイルとゲオルグは宿を引き払い、山にあるゲオルグのねぐらへと戻った。小屋にはわずかな日しか滞在しておらず、セーブルで過ごした時間のほうが長いくらいなのに、やけに懐かしい気がした。
 勝手知ったる何とやら、カイルは椅子に腰掛けるとマントを壁に掛けているゲオルグの広い背を眺めた。
「ゲオルグ殿ー、シエラさんにはいつ手紙を送ったんですか?」
「ん? おまえが寝込んでいる間にセーブルへ買い出しに出た時だが」
 それならカイルが気付かなかったのも無理はない。頷くと、ほっとしたように背もたれに体を預ける。
 振り返ったゲオルグは傍まで来るとテーブルを挟んで向かい合う。
「どうかしたか?」
「ゲオルグ殿は、本当は何歳くらいなのかなーって思って」
「歳か? 二十九だ。吸血鬼の血は薄いようだから、おそらく寿命は普通の人間と変わらないだろう」
「えっ」
「……なんだ、その意外そうな顔は」
「ゲオルグ殿って落ち着いてるし目茶苦茶強いし、てっきり百歳くらいいってるのかと……」
「そうか? 期待を外して済まないな」
 微笑に、目を奪われる。かつて男に目を奪われたことなどないのに、一体どういうことか。
 さりげなく視線を逸らすと、
「べ、別に期待してたわけじゃありませんけどねー。……ゲオルグ殿はこれから、どうするんですかー?」
「それは俺の台詞だ。おまえはどうするんだ?」
 問い返されるとは予想外で、数秒問いが頭の中を繰り返す。
 ――おまえはどうするんだ?
 答えが案外難しいことに気付いた。
 独り立ちしたのだから、このままフェリドの元へ帰ってよいものかは考えものだ。とすれば、どこかに拠点を構えて多少の宣伝を行うか、旅をしながら行く先々で仕事を探すか。腕を磨きながらということを考えれば、旅をしながら仕事を探したほうが良いかもしれない。
 目の前の仕事にばかり気を取られ、先々のことを考えていなかったのは迂闊だった。
 ――ということは、
 ゲオルグともここで別れるということ。気付いて寂しいと感じるのは、フェリドと違ってもう会えないかもしれないことがわかっているからだ。
 ――なんで寂しいんだろ……。
 一月も過ごしていない。それに、一期一会なら今までの依頼人たちだってそうだった。出会い、別れを繰り返すことには慣れていたのではなかったか。
 カイルは自問を繰り返すが、ゲオルグの問いの答えすらも見付けられずに途方に暮れた。それが伝わったのか、ゲオルグは苦笑すると席を立ち、茶をいれてくれた。
「次にどこへ行くのか、決めているのか」
「……いいえ」
「そうか」
 カップをカイルの前に置くと、ゲオルグは真っ直ぐカイルを見た。
「決まってないなら、次の街まで一緒に行かないか」
「え……?」
「俺もここを離れるつもりだったからな。北のほうにもまた行ってみようと思っているんだが、おまえさえ嫌じゃなければどうだ?」
 途中で行きたいところが出来たなら、別れるのはそれからでも良い。
 ゲオルグの言葉に、カイルは目を見開いた。
 なんて都合が良い話だろう。そんなことがあって良いのか。
「い、いいんですかー? 足手まといになるかもしれませんよ?」
「おまえの力量は大体わかっている。それにフェリドとやってきたんだろう。特に問題があるとは思わん」
 それに、と付け足した後、沈黙がしばらく続く。何かを言い澱むゲオルグをじっと見つめた。
「ゲオルグ殿?」
「…………おまえと離れがたいと思っている」
 それだけを早口で一息に言うと、決まり悪そうに顔をやや逸らす。
 ――離れがたい、だなんて。
「……ただでさえお世話になりっぱなしだったのに……」
 都合の良い話だ。ゲオルグから言い出されただけでも充分、都合が良い。
「世話だの何だのは、気にするな。そもそもの原因は俺だ」
 それに、とゲオルグは言葉を継いだ。
「……フェリドからも頼まれている」
「フェリド様が?」
 いつそんなことを、と問いかけてはたと思い当たる。フェリドからゲオルグに宛てた手紙。あれに書いてあったのだとしたら。
 まさかこんなことになるのを見越して書いたのではないだろうが、カイルの背中を押すには充分だった。
「……何か恩返ししなきゃなー……」
 肩の力を抜いて溜息を吐けば、「できるさ」と笑って頭を撫でてくれる。擽ったい気持ちになったが、ひんやりした手は優しかったので大人しく撫でられた。
「どうする?」
 おまえの意思を尊重するが、と控え目な申し出に、カイルはにこりと笑みを返した。
 返事はもう、決まっている。
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