焦燥

 目が覚めた時に久々に感じた鈍い頭痛に、ゲオルグは小さく呻いた。
 目蓋を開くことすら億劫だが、窓から差し込む陽は朝を主張している。そろそろ起きなければならないだろう。ぎりぎりの時間になれば王宮付きの人間が起こしに来ることは知っていたが、寝起きのだらしない姿を他人に見られたいとは思わなかった。
 寝足りないことはわかっている。寝覚めは良いほうなのに、頭や気分がどうにもすっきりしないからだ。水差しからグラスに水を注ぎ、一息に空けると溜息を吐く。二日酔いという言葉が脳裏をかすめた。だとすれば、何年ぶりの体験になるのか。
 一人でやっていくようになってからは、ついぞ覚えがない。とすれば、フェリドと行動を共にしていた頃――賢しらな少年だった頃以来ということになるか。あの頃は限界やペースがわからずに無茶な飲み方をして潰れたことはあったが、まさか三十を間近に控えて度を過ごすとは。フェリドに上手く勧められたせいもあり、己を過信しすぎたせいもある。
 飲みすぎたことをわずかの間だけ悔やむと、違和感に気付いた。違和感というよりは、喪失感と表現したほうが近かったかもしれない。
 何が足りないのか、言葉では説明しがたい。だがたしかにあったものが、今はない。
 淋しい気すらする。
 その次に気付いたのは、体の重さだった。
 いくら飲み過ぎたとはいえ、体がこんなに重くなるほどではないはずだ。とすれば、原因は何か。
 昨夜の事を順に思い出していけば、自然と理由に気付かされる。その瞬間、もう一度眠ってやろうかとさえ思った。だが宮仕えの身に二度寝など許されるはずもなく、嫌々ながらも身を起こし、身支度を整え始める。脱ぎ散らかした衣や装束が、記憶が偽りでないことを示している。畳みもしなかったのだから、皺だらけに違いない。新しく換えを下ろさなくてはなるまい。
 それでは、あれも現実だということだ。
 思い出すと頭を抱えてしまう場面を思い出し、ゲオルグは嘆息した。いっそ記憶をなくしてしまえたほうが、どれほど楽だろう。
 今この場に彼がいないということは、ゲオルグが眠っている間に出て行ったということ。相当酔っ払っていたようだが、彼のほうはどこまで記憶があるだろう。いっそ覚えていないほうが幸せかもしれないが、こればかりはゲオルグには判断がつかない。
 どの道、ゲオルグの記憶にあることがゲオルグにとっては現実に変わりない。相手がいかに酔っ払ってどんなちょっかいをかけてこようと、こちらから返すべきではなかった。止められなかったせいもあるが、そればかりを理由にするのは卑怯だろう。
 カイルが覚えていようといまいと、少し調子に乗りすぎたことは謝らねばなるまい。調子に乗りすぎただけなのか、と問い詰められると、言葉に詰まってしまうのだが。
 許されることなのか、判断はつかない。同じ立場に立ったことがないからだ。一発や二発、殴られるのも覚悟しなければならないかもしれない。
 ともあれ、話すきっかけを考えねば謝罪は不可能だ。
 どう話を切り出すか。
 まずは水でも浴びて頭を働かせよう。そうして、詰め所で顔を合わせる前までに考えれば良い。
 これは逃げではないと自分に言い訳し、衣服を見苦しくない程度に整えると、部屋を出た。
「…………あ」
 間が悪いとはこのことを言うのかと、ゲオルグにしては珍しく天を恨んだ。部屋から一歩出た途端、カイルが通り掛かるのにばったり行き当たってしまったのだ。
 あまりに咄嗟のことに言葉を失ってしまったが、それはカイルも同様だったようだ。息を飲み、沈黙している。
 互いに視線を逸らし、沈黙する。気まずい空気を破ったのは、カイルだった。
「昨日はご迷惑おかけしちゃって、すみませんでしたー」
 つられ、ゲオルグもようやく言葉を発する。
「あ、ああ……俺のほうこそ、」
「あんなに飲んだの久しぶりでしたよー。また飲みましょう」
 にこりといつものように笑うと、「じゃー仕度があるんでー」と去っていく。ゲオルグは何も言えず、その背を見送った。
 どういうつもりかわからなかった。
 言葉を遮られたこと以上に、彼の動作の不自然さ、笑顔が強張っていたことがゲオルグの胸を痛ませた。どんな気持ちで、声をかけてくれたのか。
 体は痛むのだろう。だから歩き方がおかしかった。ゲオルグを問い詰めたり責めなかったのは、昨夜のことに触れられたくなかったからなのか、ゲオルグが覚えていないと思い込んでいたからなのか。
 次に二人になる機会があれば、その時には話ができれば良い。話ができなくとも、謝ることができたなら。
 溜息を吐くと、水場へ向かった。
 
 考えが甘かった事を思い知らされるのは、それから数日後の事になる。
 
 
 
 
 
 戦場にあっては冷静で大胆不敵、どんな敵をも一太刀で斬り伏せると賞されるゲオルグだったが、このところはこの男にしては珍しく、苛立っていた。もっとも、苛立っているのがわかるのは付き合いの長いフェリドくらいだったのだが。
「空気がなあ。張っているぞ」
 子供が恐がるんじゃないかとの揶揄に、一瞥だけをくれてやる。フェリドは肩を竦め、友の顔を眺める。
「結構わかりやすいのは昔から変わらんな」
「そんなことを言うのはあんただけだ」
「俺ほどおまえと付き合いが長い奴がいないからだろう。親しくなればわかるはずだ」
 したり顔で言われ、思わず舌打ちしそうになるのを堪えた。いい大人になり、赤月帝国では重職にまで就いたというのに、どうもまだこの男の前では少年の頃のような気持ちに戻ってしまうようだ。
「……用があって俺を呼んだんじゃないのか」
「用? 勿論ある。まあ、急ぐな」
 肩を竦めるとにやりと笑い、ソファに背を預ける。一国の女王の夫となっても、フェリドに形式ばった堅苦しいところは見られない。ファレナが鷹揚な国なのか、フェリドの世渡りが上手いのか。
 おそらくゲオルグが見ているより鷹揚な国ではあるまい。元老が権力を握るのを美しい女王は心良く思っていないようだし、元老も女王に妄信的ではなく己の利権に血道を上げているようで、水面下で攻防を繰り広げ、主なふたつの派閥は権力争いをしていると聞く。国や民を第一に考えるフェリドや女王がそれを快く思わないのは当然と言えた。
 ゲオルグがフェリドに呼ばれた意味もそこにある。フェリドが言葉にして言った訳ではないが、ゲオルグはそう諒解していた。
「俺の息子――王子には会ったな?」
「ああ。利発そうな少年だったな」
「自慢の息子だからな。アルによく似ているところがまた――」
「息子自慢に俺を呼んだのか」
「そんなわけあるか。最後まで聞け」
 苦笑すると、真顔に戻る。
「ファレナの国王は代々女性だ。だから男の王族というのはそれだけで軽んじられる傾向にある。本人がどういう人間かは関係なく、な」
「おまえの息子もそうだと?」
 否定はしない、とフェリドは肩を竦めた。そのせいなのかどうかは不明だが、一時期兄妹仲もうまくいってなかったこともある、というフェリドの言葉を意外に思う。ゲオルグが見た妹姫は兄をよく慕う活発な少女だったので、にわかに信じがたい。
「ファレナの国政の中心にいることはできないかもしれないが、リムの助けになることはできるだろう」
「ああ」
「それにはまず、この国のことを知る必要がある。王宮の中で人の話として聞くだけではなく、己の目で見て、感じることが重要だと、俺もアルもそう思っている。知見を広げることで得られるものも多いだろうしな」
 王宮の中のことは王宮にいればいくらでも知ることができる。だがまだ子供のうちに外からの刺激を受けていたほうが、感じることも多様だろうし物事を素直に受け取れるに違いない。
 少年時代から各地を渡り歩いてきたゲオルグにも、それはよくわかる。できる限り多くのものを見、沢山の人に会うが良い。色んなことを感じ、考え、受け止めることで知見は広がる。
 ゲオルグが納得して頷いたところで、フェリドは身を乗り出した。
「で、だ。軽んじられるとはいえ、息子が王子であることに変わりはない。いちおう基本的な武術は教えているが、万が一ということがないとも限らない」
 現状では可能性は低いが、一国の王子ともなれば拉致される可能性がないわけではない。少々のことは自力で乗り越えられるとしても、大人の判断が必要なこともあるだろう。
「勿論サイアリーズも同行させるつもりだが、王族が外泊するなら女王騎士もいたほうが、何かと格好がつく」
「それを俺に?」
「おまえもこの国を知るいい機会だ。ついでに気分転換してくるといい」
「…………」
 そんなに酷い顔をしているのだろうかと思わず頬をさすると、フェリドは小さく笑う。
「少し体を動かしてくるといい」
 気を遣われてしまったと落ち込むより、今は気遣いをありがたく受け取ったほうが良いのだろう。微苦笑すると軽く頭を下げ、礼を言った。
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