焦燥、そして慈愛

「ゲオルグ殿っ」
 ノックもなく勢いよく私室に飛び込んできたのは、カイルだった。久々に本拠地に戻り、滅多に使用しない自室で寛ごうかとマントを椅子の背にかけた時の乱入だ。
 あまりの勢いに、すわ敵襲かと再び装備に手を伸ばしかけたが、カイルが酒臭いことと、女王騎士の装束を纏っていないことに気付いて気を取り直す。
「どうした?」
 ノックもなかったことは素面に戻ってから注意するとして、まずは用件を聞こうと向き直る。
 酒場で飲んで、酔った勢いのままエレベーターも使わずに駆け上がってきたのだろう、カイルは肩で息をしていた。夜になったから着替えたのだろう、普段着らしい服は両の肩が露になっており、激しく上下しているのが見て取れる。
 ゲオルグは彼を宥めるために水差しから水を注ぎ、グラスを手渡す。カイルは受け取ると一息に飲み干し、グラスをゲオルグに返した。そうして酔った眦を鋭くさせ、睨む強さで見つめてくる。
 だがどうしたことか、一言も発言はない。飛び込んできた勢いでは絶対に何かあるはずなのに、何も言わないのだ。そういえば今回帰ってきて顔を合わせるのは今が初めてだ。だが熱烈感激という雰囲気にしては、妙に何かが切迫している。
「……カイル? どうした? 何があった?」
「…………うぅ〜〜……」
 唸り声を上げたかと思うと、前触れもなく涙が零れ落ちた。これにはさすがにゲオルグも驚く。
「本当に、一体どうしたんだ?」
「……なんでもっ……」
「ないわけあるか」
 戦争があったとか、誰かが戦死しただとかいう情報なら、外に出ているゲオルグにも伝わってくる。だがそれはなかった。だとしたら人の死を悼んで泣いているのではない。
 すぐにそう結論付けたが、だからといって本当の理由がわかるはずもない。
 大股で傍に寄ると、指で涙を払ってやる。それでも止まらない涙に、これ以上硬い指で触れるのも良くないかと、部屋の奥に足を向けた。近頃できた風呂のため、湯浴み用にと配給されたタオルを探し出して、指よりずっと柔らかなもので涙の筋を拭う。
 そうして今更、立ちっぱなしでいることに気付くと、ソファなどと気の利いたものがない部屋なので、ベッドまでカイルの手を引き、隣に座らせる。タオルを渡してやると、時折顔に当てたりしているが、膝でかたく握り締めていた。
 ――何なんだ、一体。
 目の前でぼろぼろ泣き出してしまった男を前に、ゲオルグは途方に暮れた。二十歳をとうに過ぎた男がそんな風に泣くとは予想外であり、まったく不意を突かれてしまった。まして男を泣き止ませる術など、ゲオルグにわかるはずもない。救いは、大声で泣き喚かれているわけではないということか。
 カイルはゲオルグを困惑させるという快挙を成し遂げたことに気付くはずもなく、口の中で何かぼそぼそとした恨み言を口にしながらしゃくりあげた。
 ――こんな酔っ払い方をするとは知らなかった。
 以前は同じ量を飲んでも素面に見えたし、酒には強いものだと思っていたからだ。飲んだ分だけ涙が出るのだろうか、などと馬鹿な考えが浮かぶ。
「……あまり泣くと、腫れるぞ」
「誰の、せいだと……思ってるんですかー!」
 ようやく鳴咽以外で口を開いてくれたことにほっとし、口許を緩ませる。
「俺のせいか」
「他にいるなら連れて来て下さいっ」
「わかったわかった。俺が悪かった」
 何が悪かったのかよくわからないままに謝罪を口にし、両手を軽く挙げて降参のポーズを取れば、カイルはごにょごにょと口の中で何か呟きながら俯いてしまった。
 まるで子供だ。子供をあやすように宥めるしかないのか。
 子供の機嫌の取り方など心得ているわけはないが、苦笑しながら手を伸ばし、カイルの頭を撫でてやる。
「…………」
 さすがに驚いたのか、一瞬ぽかんとゲオルグを見上げると、赤い顔をいっそう赤くさせて「何するんですかーっ」などと喚きながら手を退かす素振りを見せる。力があまり入っていないのは、酔っているせいなのか、嫌ではないからか。普段より随分幼い仕草に見える。それは自分にだけそう見えるのか、ゲオルグにはわからなかった。
 構わず撫でてやると、涙に濡れた目で睨まれる。今度は迫力はない。
「こっ……子供じゃないんですからねっ」
「子供とは思ってない」
「嘘だあっ」
「…………」
 そんな風に言っているのは子供っぽいと思いこそすれ、子供だと思いはしないのは事実だ。酔っ払いにそんなことを言って、通じるかどうかはわからない。あやすのは子供にするのと確かに同じかもしれないが、他に術を知らないゲオルグは、他にどうすればいいのかわからない。
 苦笑すると、腕を掴んで引き寄せて胸の中へ収めてしまう。女性のようにすっぽりと、とはいかないのはご愛嬌だ。彼も男で、騎士なのだから。
 じたばたとカイルが暴れるのも構わず、逃がさないように抱きしめると頭を撫でた。先ほど本気で嫌がっていないのはわかったから、強制的にあやさせてもらうことにする。何か言えばカイルに癇癪を起こさせてしまいそうだったので、無言で。
 抵抗と反抗の言葉は少しの間だけだった。やがて小さくしゃくりあげるカイルがゲオルグの背に手を回した。背も撫でてやると、だいぶ落ち着いてきたらしいことがわかった。
「……まだ泣き止まないか」
「そんな……簡単に止まるなら、苦労は、しません……っ」
「腫れなければいいんだが」
 言いながら抱擁を解いて顔を両手で包み込み、そっと両の目尻に口付ける。額に、こめかみに、頬にも口付けた。零れ落ちる涙の軌跡を唇と舌で辿ると、抱きしめる。そうして背や頭をあやすように撫でた。不思議と嫌悪感はない。
「ずるい……」
 鼻声での抗議を危うく聞き逃しかけ、ゲオルグは手を止める。
「……何がだ?」
「…………撫でるの、が……」
「止めればいいか?」
「そんなこと言ってない……」
 体に回した腕に力が篭められる。では、もっと撫でろということだろうか。後ろ頭や背を撫でてやると、カイルは満足そうに体の力を抜き、体重を預けてくる。
「……ゲオルグどの……」
「ん?」
「…………おかえりなさい」
「ああ……ただいま」
 その後もずっと無言だったが、いつか鼻をすする音も聞こえなくなったと思うと、カイルの体はすっかり脱力していた。泣き止んだと思ったら、眠ってしまったらしい。
「……これのどこが子供じゃないって?」
 起きていればカイルが憤慨していた言葉を呟くと、彼の体をそっとベッドに横たえた。もう一枚タオルを用意すると水に濡らし、目の上に乗せてやる。そうでもなければ、カイルは仲間たちから質問責めを受けるかもしれない。笑顔と適当な言葉で有耶無耶にはできるだろうが、はたしてそれがこの城の主にも通用するかどうか。王子のことになると、カイルは甘くて弱い面があるのだ。
 責任転嫁されるかもしれないが、そうなると質問の矛先はこちらに向けられるかもしれない。とすれば原因を吐かなければならないだろうが、生憎ゲオルグには原因に心当たりがない。結局カイルに訊かなければわからない。しかし無理に訊く気にはなれなかった。
 言いたくなったら言えばいい。
 ゲオルグはそう思っている。カイルが本当に何かをゲオルグに言いたい、あるいは訊きたいのであれば、直接言ってくるはずだ。無理矢理に訊く必要はないではないか。たとえ気になっていても。
 金の髪をひと撫ですると、ゲオルグは夜衣とタオルを持って部屋を出た。寝台はひとつしかない。ゲオルグ一人であればそのままシーツに身を埋もれさせただろうが、誰かと分かち合うならせめて風呂にくらいは入っておくべきだろう。
 さっぱりしたら眠って、起きたら今宵のことを聞けばよい。カイルが覚えていればの話だが。
 風呂に向かいながら、ゲオルグは自分の口の端が優しい笑みを含んでいることに気付かなかった。
>> go back