外気との気温差で曇っている窓を指先で拭い、外を覗いて小さく溜息をついた。
冷えると思ったら、雪だ。雨と違い音もなく降ってくるものだから、気付かなかったのだろう。
雪は薄らと街を覆っている。どうせなら全てが白に隠されてしまうがいい。内包しているものが黒や、その他の色に塗れているとしても、雪の白さに全て負け、見えなくなってしまうがいい。――いずれその白が溶け消えるとしても、一時の安らぎにはなるだろう。
雨に打たれたあの兄弟達にも、この白が慰めになるといいのだが。
「どうした?」
不意にかけられた声に軽く驚き、振り返る。広いとは言えないベッドの上で、見知った男は欠伸を隠していた。
いつ彼が起きたのか、まったく気付かなかった。油断ではない。気を許していたのだろう。
「――雪だ」
さっきまで雨だと思っていたのに。
呟くと、ヒューズは肩を揺らして笑った。
「寒いわけだ」
掛け毛布を剥ぐと、背伸び一つしてから椅子の背に掛けていた軍服に袖を通す。その背を眺めながら、窓枠に凭れた。窓枠の鉄は外の寒さを伝える。室内の暖かさが、まるで偽物のように思えた。
「中佐は雪は嫌いかな?」
「寒いのは好きじゃない」
年寄り臭いとロイが顔を顰めると、ヒューズは鼻を鳴らした。ズボンを穿き、上着を羽織る。
「おまえに言われたくないね。そういうおまえは、雪が好きなのか」
「嫌いじゃないさ」
「また半端な答えだな」
「寒さは好きではないが、雪そのものが嫌いなわけではない、ということさ」
「能力が使えなくても?」
「――嫌なことを遠慮なく言ってくれるな、ヒューズ」
眉間に皺を寄せただろうロイを、ヒューズは背を向けたまま笑った。夕刻ホークアイ中尉に雨の日は無能だと言われたことが、まだ刺さっているらしい。
あからさまな不機嫌面は、じきに三十路になろうかという男に不似合いなほど子供っぽいものではあったが、好ましいとヒューズは思っている。もっとそういう面を外でも見せれば、敵は減るだろうに。
言えばますます不機嫌になるだろうから言ったことはないが、惜しいと思う。
彼には、もっと協力者がいるべきなのだ。理解者もだ。彼を支持し、支える者がより多くいればいい。
上着を羽織りながら、ロイを振り返った。
「――で、おまえは雪を眺めながら、風流に何を思い悩んでいたんだ?」
「――――」
不意を突く問いに、ロイは表情を失くす。聞かれるとは思わなかった。
天井に視線をさまよわせ、無意識に頬を掻く。本当のことを言うのは正直、照れくさかった。だから半分は隠すことにした。
「……あの兄弟には、この雪は気休めになるのかどうかと思っただけだ」
「へえ! おまえの口からそんな言葉を聞けるとはね」
口笛のひとつでも吹きそうな口振りに、ロイは刺のある視線を返した。明らかな揶揄だと感じたからだ。
「――私に感情がないとでも思っていやしないか」
「違う違う。誤解させたんなら悪かった。俺はただ、おまえでも感傷に浸ることがあるのかと思っただけだ」
「感傷、ね――」
言葉とともに溜息を吐いた。薄明かりに照らされたヒューズは、悪戯の成功を喜ぶ子供の顔で笑っている。
当たっていると素直に認めるのは癪だった。外れてはいない、と頷いてやる。
「他の奴にどう思われようと、俺はおまえが案外情に厚い男だと知っているよ」
「――案外は余計だ」
「細かいことを気にするなよ。情の薄い人間についていこうと思う奴はいないさ」
すっかり着替えたヒューズが間近で笑う。
そうだといいが、と言ったのは、多分に照れ隠しだっただろう。彼の屈託のない笑顔が好きだったが、口にしたことはない。
言っておくが、と真面目な声に顔をあげる。
「情の薄い人間に付き合う程、俺も酔狂じゃないからな」
「誉めてるのか?」
「勿論。嫌な人間とは続かないさ」
こういうこともな。
にやりと笑い、ふざけた口付けを仕掛ける。避けられるかと思ったが大人しく受け、離れ際には唇を舐められた。伏せた目は、どうやら笑っているらしい。呆れているのかもしれなかった。行動に脈絡がなかったのは認める。
「本当におまえは遠慮がない」
「はっは! 遠慮が必要な程、よそよそしくなるような仲じゃないだろ」
「そりゃあ、そうだが」
「おまえに理解者が、協力者がもっと出来ることを心から祈るよ」
「嫁を貰え、か? 聞き飽きたぞ」
「妻や恋人である必然はないが、一番の味方になるには違いない」
何しろ無条件で自分の味方だ。しかも見返りを求めることもない――。
ヒューズの言葉にロイは微笑む。彼と彼の妻との仲が睦まじいのは、日頃から聞かされていた。
微笑ましい、或いはあまりに惚気るのでうざったいと思う他は、特に何の感慨も持たなかった。妬ましいと思ったこともない。
小さく溜息し、組んだ腕を解いて顎を撫でる。
「おまえの懐が、私には理解できないことも――昔はあったな」
「懐?」
訝しむ表情を前に、出来る限りのさり気無い口調を選んだ。妙な所を気にする男だ。こちらを変に慮って、勝手に沈まないとも限らない。
「私を抱く腕で、奥さんも抱くんだろう?」
後になって、これは言わない方が良かったかと悔やんだが、謝る時間を神は与えてくれなかった。
今度はヒューズが不意を突かれた。
他意がないことは、ロイの目を見ればわかる。が、それ故に戸惑った。今まで、こんな風に自分の家族のことが話題にのぼることはなかったのだ。
しかしよく考えれば、話をふったのは自分だろう。良くない話題を持っていったかと少し悔やんだ。彼を傷付けただろうか。
微かな苦みを口の端に浮かべる。
「――妻や子供とおまえを、同じはかりで量ることは出来んよ」
次元の違うものだ。比べる意味が無い。自分にとってはどれもかけがえのない、大切なものなのだから。
答えに、ロイは頷いた。
彼と同じ答えを、自分も持っている。故に、満足した。女に求める所と、彼に求める所は違うのだ。
「――長生きしろよ、ヒューズ」
「はっ! おまえほどには長生きなんぞ出来んさ」
何しろ繊細に出来てるからな。
鮮やかに笑うと、ロイの髪に触れた。
「じゃあ、またな」
「ああ」
笑って出ていくヒューズを、罪悪感にも似た思いを噛みしめて見送る。
己が利己的なのは、己が一番良く理解していた。
窓の外で降る雪に隠れてしまえばいいのに。ちらりと外を見てから、狭いベッドにもぐりこむ。
雪は既に止んでいた。朝になれば、きっと溶けだしているに違いない。
そんなものは見たくなかった。