交差

 ぱちりと硬質の音が、縦横十九路の盤面に打たれる。
 二人きりしかいない部屋の空気には対局の緊張などなく、どちらかといえば和やかだ。試合とは関係なく、手遊びに打っているからだろうか。だが机上の攻防は雑談に興じる雰囲気に関らず、競っていた。
 気分転換にホテルの中をうろついていた所を、同じく気分転換でうろついていた楊海にばったり遭遇し、お互い少し暇があるなら、と控え室に潜り込んで一局指し始めた次第だった。
「へェ。言ってくれるなァ、高永夏」
「笑い事じゃないですよ」
 対局を並べながら、太善が苦笑した。溜息し、こめかみを親指で揉む。疲れているのだろう。体はともかくとして、精神的に。とはいえ引率同士の手合いでもあった日には、疲れなど微塵も見せずに対局してみせるに決まっている。実際、手遊びのこの手合いでもなかなか隙を見せないものだから、困っていたのだ。
 楊海は白石を摘み、打つ。軽く打ったように見える手は、しかし上辺の太善の形勢を辛くした。
「自分を信じてなきゃ、言えないね。『どう思われようとかまわないでしょ』なんて」
「……楊海さんの言った通りだと思いましたよ」
「ン?」
 すぐさま太善に封じ手を打たれ、眉間に皺を刻む。ペットボトルの蓋を開けると、一口だけ水を飲んだ。太善の表情を窺えば、真顔で盤面を見つめている。
「まだまだ子供です」
 プライベートならばともかくも、公式の――しかも記者もいるような席で、あんな挑発的な発言をするなんて。
「……まあ、確かに普通は言わないだろうな。無駄に波風立てるより、さっさと誤解を解いた方が敵を作らずに済む」
 それが『大人のやり方』というものだ。一方的に敵愾心を持たれたのが気に障ったにせよ、レセプションでのあれは拙い。海外に遠征する手合い、ことに日本で行われるものでは、恐らく来日のたびに叩かれることになるのではないだろうか。
 無神経の子供か、不遜な棋士か――
「評価はこれからの活躍で変わるだろうけど、……気質が大物だな」
 キミが気にかけてるわけだね。
 ぱちりと、白石が盤を鳴らした。


「へえ。中国の団長がそんなことを?……棋士として評価して貰ったと考えて、いいのかな」
 ベッドの上で胡座をかき、枕を抱えて「オレ、あの人あんまり好きじゃないけど」と小さく鼻で笑った。自分の部屋のように寛いでいるが、そこは太善のベッドだ。
「好きじゃない? いい人だぞ、楊海さんは」  意外を隠さず問うと、永夏は横を向いた。
「……そうやって……ら、」
「ン? 何?」
「いや……なんでも」
 爪を噛む永夏に、太善が眉を顰める。
「永夏。楊海さんが言ったことは間違ってない。国際的な棋士として評価されることを考えるなら、」
「発言には気を付けろ?」
 語尾を奪い、首を傾げて微笑う。太善はソファに身を沈めたまま小さく溜息をつき、大儀そうに頷いた。
「もっと自分を大切にした方がいい」
 勝負に勝っている時はともかく、負けた時には散々に叩かれるだろう。世間とは往々にしてそのようなものだ。  それでもなお味方についてくれる者がどれほどいるか。
 悪評に堪えられるだけの精神があるかどうか。
 太善の苦言にも関らず、永夏は飄々と「どうでもいいよ、そんなの」嘯いた。
「おい――」
「オレのことは、オレの棋譜で見てくれればそれで構わない」
 勝負の勝敗が全てだ。棋士の人格など二の次だろう――。
 そう言い切れるのは十六という若さ故なのか。自分が十六の時でもこんなに生意気な発言はなかった。性格の違いと一言で片付けて良いものなのか。
「歳も関係ないし」
 そこがイイと笑い、ベッドから降りた。裾を乱したままでこちらへやってくる。イヤな予感がした。
「……永夏」
 いつもの、歳より上に見える微笑を浮かべたままで膝に座られた。こういう笑みの時は、大概ロクなことを考えていない。
「重い」
「慣れてる癖に」
 くく、と笑うのに合わせて髪と長い睫毛が揺れた。異性は無論だろうが同性でも見惚れるほど、整った容姿は、淡い室内灯に照らされると雰囲気を異にする。
 時々、本当に彼の年齢を忘れてしまう。
 彼の眼を真正面から捉えて、誘惑されるのに弱い。永夏はそれえをわかっている。今まで何度かその手にうかうかと乗ってしまったからだ。
 苦笑して彼を抱きしめてやる。惑わされぬよう頭を自分の肩口に抱えると、小さな子供にするように撫でてやった。
「明日が本番だ。今日は大人しく眠りなさい」
「……大人しく?」
 永夏の反芻に頷いてやると、後ろ頭を宥めるように撫でた。
 遊びに来ているわけではないのだと囁くと、わかっていると拗ねたような声が返された。まったく、大人なのか子供なのかわからない。笑いを堪えると、永夏の両腕が首に回された。
「じゃあ、大人しくしているから……」
 暫くこのままで。
 太善は頷くと、抱きついたままの永夏の肩を抱き、頭を撫で続けてやった。

 穏やかな呼吸が寝息に変わるまで、ずっとそうしていた。
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