細い弧を描く月が美しい夜。
蓮は街の路地を歩いていた。
帰りが夜更けになってしまったのは電車が途中で立ち往生したせいで誤算でしかないが、仕方がないことだ。何を恨んだところで、過ぎてしまった時間は戻らない。それより早く寝床である教会に戻るのが得策だろう。石畳の道を歩く足は、自然と急いたものになる。
ところどころが消えた街灯が照らす道に落ちる影は長く、人気のなさもあいまって寂しさを感じた。昔はともかく、今のこの街は不穏が空気となって流れている場所もある。街を牛耳る者が代わってからだ。毎日のように大小を問わずいざこざがどこかで起きている。取り巻きに素行の良くない者が多いからだと街の者が噂しているのを、蓮も耳にした。
(痛ましいことだ)
救いを求め、教会を訪れる者は少なくない。来れない者もいる。来ない者も、来る気がない者も。だがすべての人は苦しみから逃れる権利を有している、はずだ。街の者も、権力者も──すべては神の前に平等だと信じているし、聖職者としてできることには全力で臨みたい、と思う。
「…………?」
ふと歩みを止めたのは、声が聞こえたような気がしたから。
(どこから……?)
前後左右を振り返るが、人影はない。
気のせいだったかと一歩を踏み出して──振り返る。今度こそ聞こえた。街灯のすぐ向こうにある路地、そちらの方だ。迷いもなくそちらに向かうと、路地をおそるおそる覗きこむ。
「……!」
そこにあるものが何であるのかを理解すると、蓮の行動に迷いはなかった。血溜まりに倒れている人間。何者かが走り去る足音。倒れている者を救うのは、当たり前のことだった。
背中に傷口や切り裂かれた痕がないことを確認すると、うつ伏せに倒れている人間──男だ──を仰向けに返す。若い青年で、暗がりにも映える空色の髪が美しい。目を奪われたが、すぐに我に返った。
声を掛けると、彼は短く呻き声を上げる。どうやら、死んではいないらしい。ほっとしつつ体に負ったであろう傷を確かめた。腹部のシャツが裂かれ、そこから脚にかけて大きく変色している。傷口はまだ新しい。血が流れ続けていた。
何事か呟くような声が聞こえた気がしたが、今は気に留める暇はない。すぐに彼の上体を起こすと、自分の服が汚れることも厭わずに背負った。
大きな病院は遠いが、診療所なら近くにある。この時間はもしかしたら医師は寝ているかもしれない。安眠を妨げるのは本意ではないが、人命がかかっている以上、やむをえないことだ。
歩く振動が背負うた彼に伝わらないように慎重に、だが急いで足を運んだ。
願わくば、彼の命が奪われることのないように。
「できる限りのことはしたよ」
タエはそう言うと、疲労の濃く滲んだ溜息を吐いた。
大病院と違って設備の乏しい診療所で、腹部を縫合する手術を強いてしまったことがどれほど大変なことか、医術に明るいわけではない蓮には想像しかできない。
「タエ、ありがとう」
「礼はその子が目を覚ましてから言いな。まだどうなるかわからないんだからね。……体力次第といったところかね」
冷静な言葉だが、表情は暗いものではなかった。運び込んだ彼は、まだ若く見える。おそらく蓮と同年代だろう。だからというわけではないが、その年齢で神の御許へと旅立ってしまうのはまだ早い。青い顔色の青年を見下ろしながら、蓮は息を吐いた。
「それにしても、こんな時間にお前が怪我人を運んでくるなんて珍しい。何かあったのかい?」
「地区の会合で遅くなって、たまたま通りかかった路地で倒れていたんだ。走り去る足音も聞いた。おそらく喧嘩、だろう」
「喧嘩ね……最近そんな連中ばっかりだ」
苦りきった表情でそう言うのは、この診療所にやってくる患者の何割かが喧嘩で負った怪我の治療を理由にしているからだろう。
きっとタエが考えていることを蓮も考えている。
昔はこんな風じゃなかったのに、と。
懐古するのは簡単だが、今は今で大切なものだ。だから口には出さない。
「さてと……私はもう寝るが、あんたはどうするんだい?」
「今夜は、彼についていようと思う」
「本土から帰ってきたんだろう? 寝なくて大丈夫なのかい」
「朝になれば教会に一度戻るつもりだが、大丈夫だ」
「そうかい。じゃあ、毛布を持ってきておこうかね」
「すまない」
「お前は私の孫みたいなもんさ。気にするんじゃないよ」
そうして一度住居スペースである二階へ行ったタエは、蓮に毛布を渡すと再度二階へ戻っていった。
「おそらく数時間もすれば発熱するだろうから、こまめに濡れタオルを替えてやるといい」
そんなアドバイスをきっちり実行するのが、蓮の生真面目な性格を表している。
「……ぅ……、……」
時折呻き声を上げるのは、うなされているからか。こればかりは蓮にもどうにもできない。ただ彼の眠りが少しでも穏やかになるように祈り、熱を冷ますために額に宛てるタオルを水に浸すばかりだった。
空の蒼を映しこんだような髪が、ばらばらと枕に散る。美しい色だと思うのは、本土へ渡るために乗った船から見た晴れ渡る昼空の、視界いっぱいに広がった様を思い出すからかもしれない。数ヶ月に一度、本土に呼ばれる時に蓮が楽しみにしていることのひとつ。
同じ色の睫毛が震えるのは、夢のせいだろう。額やこめかみに薄ら浮かぶ汗は、おそらく熱のせい。──彼の苦しみは、彼の物。わかっていても痛ましいと思う程度には、蓮は善良だった。
(それにしても……)
刃物を持ち出す喧嘩など、穏やかではない。警官ではないから事情聴取などはしないし被害者と加害者のどちらが悪いのかもわからないが、どちらが悪いにしても、こんなことが繰り返されなければ良い。蓮自身が喧嘩などしたことがないから、そう思う気持ちが余計に強いのだ。
一滴一滴落ちる点滴と青年の顔を交互に眺め、気が付いた時には夜が白々と明らみ始めていた。
彼が目を覚ましたのは翌日の午前のこと。
蓮はちょうど朝の礼拝が終わった後、タエの診療所に顔を出していた。連れて来たのが自分だということもあったが、それ以上に何か引っかかるものがあったからだ。何に引っかかっているのかまではどんなに考えてもわからなかったが、無性に彼のことが気にかかる。だから、「来てしまった」と言った方が正しいかもしれない。
診療所の受付に声を掛けると、いつも数名がいる待合室を抜けた奥の扉へと向かう。病室と言うには簡素すぎるほど簡素だが、この診療所で対応できない重傷人や病人はたいてい病院へ運ばれるから、これで充分だとタエは言っていた。
部屋にいたタエに彼の様子を聞いているうちに、彼が目を覚ました。
「目が覚めたかい」
ぱっと彼の方を振り向くと、こちらにぼんやりとした目を向けている。
「……ここは……」
「診療所だ。君は昨晩、刺されて倒れていたのだが……」
「蓮があんたを担いでここまで運んでくれたんだよ」
彼の目が、蓮を見る。濃い琥珀色の双眸。徐々に思考力が復活していっているのが手に取るようにわかった。
「やば……帰んねーと……!」
勢いよく起きあがりかけた彼を、慌てて押しとどめる。腹の傷に響いたらしく、彼はすぐにシーツに沈んだ。タエが呆れたような溜息を吐いた。
「腹を縫ったんだ、当分寝ておきな」
「そういうわけにもいかねーんだ。ここにいるとかえって迷惑になる」
「診療所に患者がいて、迷惑も何もあるもんか。怪我人はおとなしく、医者の言うことを聞くもんだよ。うろうろされて傷口が開いたら、そっちの方が迷惑だ」
「って言っても……」
「そんなに心配なら、保護者に連絡すればいい。ただでさえ一晩連絡していないのだから、心配している可能性は充分にある」
「それがいいね。ほら、さっさとしな」
「あ、あぁ……」
連絡したらしたでうるさいんだよな、などとぶつぶつ言っていた彼は、腕にはめていたコイルで連絡を取り始めた。
見守っていると、慌てたようなやりとりはあったものの、事情の説明はできたらしい。通話を切ると深い溜息を吐く。
「ゆっくり休めって」
「当然だよ」
「ちゃんと治さないと、後々まで響く。養生するといい」
「あぁ」
「……そういえば」
改めて彼を見る。不思議そうな視線を返された。
「まだ、名前を聞いていない」
「……言われてみれば、そうだな」
「俺は蓮。こちらはタエ」
「俺は、蒼葉。……助けてくれて、ありがとな」
そう言うと、蒼葉は眩しい笑顔をこちらに向けてくれた。