微笑う薄月、香る風。空気は冷え冴え、寒が少し戻った夜。
「お――、いーい眺めだなァ」
酒瓶を担いだまま背伸びする。
崖の上、眼前は海原。背後には桜の大木が一本と、それに従うように白木蓮の木々。風に運ばれる香りはほんのり甘い。
「呑気だな、アンタは」
元気のいい子供を見守る親のような表情で微笑んだ背の高い男は、桜の枝の高い位置にランプを取り付け、マッチで明かりをつけた。ついでとばかりに咥えた長い煙草にも火をつける。
「まァまァ、いいじゃねェか。せっかくこんなキレーに咲いてんのを見つけちまったんだからよ♪花はやっぱ見てこそ、だろ。おまけにこんな辺鄙な所で咲いてる花、オレ達が見てやらねェと誰もこないんじゃねェの?もったいねェじゃん」
「アンタはどっちかっていうと"花より団子"のタイプだと思ったが」
木の根元に腰を下ろした麦わら帽子の隣に腰を下ろし、彼が苦闘していた酒瓶を取り上げて栓を抜いてやる。
布袋の中から自分の分の酒とチーズ、そしてクラッカーをだして麦わらに渡す。
「違うね。"花も団子も"だ」
「欲張りだな」
「まァね…って、ンなこたァどうでもいいんだよ。早く飲もうぜ♪」
肩をくっつけあって、にししと笑う麦わらと酒瓶をぶつけ乾杯をする。そのままラッパ飲みをし、大きく息をつく。
「こう、気分がいいと、なんか歌いたくなるなー」
「…やめとけ」
木に迷惑だとまで言う男に、麦わらはあからさまに不満顔をした。
楽しければ歌う。それも海賊だというのに、この男はまだ理解していないらしい。
「いいじゃねェかよー。…今浮かんだのはアレだなあ」
「なんだ」
「んと…はァるゥ高楼のォ、はァなァのォ宴〜〜♪ってやつ。知ってる?」
「知ってる…が、花見にはそぐわん歌だな…」
「やっぱり?」
今麦わらが口ずさんだのは一城の、あるいは人間の栄枯盛衰を歌った唄。「昔の光、今いづこ」というが、過去を懐かしむほどふたりとも年老いてはいないし、海賊に不似合いな辛気臭い曲調が不吉にも聞こえる。
「いっそ不吉な方が似合いだろ」
「好んで不吉を呼び寄せなくてもよさそうなものだが?」
「そうか?そっちのが楽しいかと思ったんだけど」
「楽しいね…」
やや大仰に溜息をつき、酒瓶を脇に置いた。風が出てきたので肩につくほどの黒髪を首元で結わえる。
男は隣に座る麦わらが争いを好むタチではないというのは知っているが、騒動は好むということも知っている。そして深刻な騒動でも、彼が絡む事によって何が深刻だったのか不思議なほど「楽しい」ことになる。
自分が彼についていくことになった経緯も、そうだった。
隣で相棒が数週間前のことに思いをはせているとも知らず、麦わらはチーズとクラッカーをまとめて頬張りながら呑気に言った。
「んじゃ、あっちにしよ」
「………」
まだ歌うのか…といささか苦笑している連れのことなど気にも止めず、
「今度はピッタリな歌だぞ」
前置きして笑い、木を…花を見上げて口ずさむ。
さくら さくら
やよいの空は 見わたすかぎり
霞か雲か 匂いぞいづる
いざや いざや 見に行かん…
風が、周りの梢の間をさああっと走り抜け、やがて桜の花弁を散らす。音もなくはらはらと翻る花弁はやがて、ふたりが座る場所をも覆い尽くすだろう。
「すっげ…花弁の雨みたいだ」
うっとりと呟く彼の、天に向けた掌に何枚かの花弁が積もった、かと思うと風に攫われる。
―――人は不吉なものにこそ心奪われるのかもしれない。
わけもなく、麦わらの邪気のない笑顔を見て思った。
「こんな綺麗なの…また来年も見れるかなあ」
「見ればいいじゃねェか、いくらでも」
仲間が増えて、船がどれだけ大きくなっても。花など咲かない極寒の地にいても。
何度でも、いくらでも。
望むだけ、望む景色を見ればいいのだ。
「アンタならできるだろ?」
微笑して問うと、全開の笑みが返ってくる。
「勿論!」
誓いの杯代わりだと、互いの瓶をもう一度ぶつけ合う。
俺はそのために、アンタのそんな顔を見るために、なんだってするさと、心の中で誓いを付け加えた。