ピタリと皮膚に当てた刃に、赤髪が満足そうに笑む。黒衣の男も非常識に大きな剣を握ったまま笑った。ふたりの荒い息が刃に斬られる。
「今日は、オレの…、勝ち…だなっ」
「…見事だ」
呼吸半分の差で、負けた。黒い男は素直にそれを認め、互いに目だけで微笑う。
「っあ―――、つっかれた!」
刀を下ろして一振るいし、鞘に収めて背伸びする。ただの今まで命を賭けていた相手に背を向け、波打ち際に歩く。声に剣呑さは微塵もない。
「ひっさしぶりに楽しかったなー。鷹の目ェ、退屈は紛れたか?」
「退屈していたのは貴様の方ではないのか」
顔だけでチラリと黒衣の男を振り返る。鷹の目という渾名の大剣豪は相変わらずの無表情で、シャンクスの後をゆっくりとした足取りでついて来る。
「何言ってんだよ。退屈してたからオレんとこに来たんだろ?」
そう言うと、ふと笑って「さあな」と言った。食えない男だが、まぁいい。楽しむのに支障はない。
波打ち際を夕陽の方へと向かって歩く。
「綺麗だなー…ココ…」
どうせならオマエみたいな厳つい野郎じゃなくて、もっと可愛い女の子といたいようなトコだなァと呟くと、背後の空気が微妙に揺れた。風による揺れではない。振り返ると、その男にしては珍しいことに肩を震わせて笑っていた。
「…何笑ってんだよ」
「いや…」
「何だよ。気になるだろ」
「あの男と喧嘩でもしたか」
「…なんでそうなるわけ?」
「なんとなく、だ。船での様子も妙だったしな。何かあったのだろう?でなければわざわざ貴様がおれの船で共に来るわけがなかろう」
「……オレの船だと遅いっつったのはテメェだろうが……」
夕陽を受けて茜に輝く双眸を睨むように見つめる。嫌な奴だ。何も感心がないようでいて、結構色々見てやがる。小さく溜息を吐いて黒い眼勢から反らす。
「オマエにゃ関係ないだろが、よ」
「そうだな」
あっさり返されて力が抜ける。どうした、と聞かれてヤケクソ気味になんでもねェよ、と返して、サンダルと黒のマントを適当に砂浜に脱ぎ捨てる。刀も鞘ごと浜に放り投げ、ざぶざぶと脛の半ばまで海に入る。
「オマエも入れよ。気持ちいいぜ。汗流しちまえば?」
「いや…おれはいい」
「オレはオマエに付き合ってやったんだぜ?だから、」
バシャバシャと飛沫を上げながらミホークに近寄り、がしっとその広い肩を掴み、
「オマエもオレに、」
素早く足をひっかけてバランスを失わせ素肌の上に着ているコートの襟の合わせを掴んで、
「付き合えよ!」
波打ち際に引き倒し、倒した体に馬乗りになる。
飾りのついた黒の帽子が飛ばされたのが切れ長の目の端に写った。
穏やかな波が体を濡らす。息が出来ないほどではない。打ち寄せ、引いてわずかに白砂を攫う波は、ミホークの耳の下あたりを浸すばかりだ。強い黒髪が波に合わせて揺れる。
「…な?冷たくて気持ちイイだろ?」
「……………」
目を細めて笑う赤髪と同じように目を細める。ただしその意味合いは多分にかけ離れていたが。
視線の含む意味に気付いてシャンクスが顔を寄せる。
「何だよ?」
「…あの男の苦労を思った」
鷹の目の言いように、赤髪は「ハッ!」と吐き捨てるように短く笑った。
「思ってやるのは結構なことだけどなァ、アイツの苦労はアイツにしかわかんねェよ。オマエが苦労だと思ってることをアイツが同じように苦労だと思うかなんて、わかりゃしねェさ」
「貴様と同じ船に乗っていて苦労しない人間を探す方が困難だろう」
「それでもオレについて来てるんだ。それでもいいって思ってんだろうさ」
「あるいはよほど物好きか、だな」
「…オマエ、オレに喧嘩売ってねェか?」
「事実を述べただけだ」
「…そーゆートコだけ似てて、ムカツク…」
心の底から嫌そうに、吐き捨てるように呟いた。誰と似ているかなどと、聞くだけ野暮というものだろう。
「そういう所というのは、」
どういう所だ?
聞こうとした言葉は紡がれること無く歯の裏で堰き止められた。
暫くの沈黙の後、シャンクスが上体を起こすのを冷ややかに眺める。
耳元では波がさざめく。思考が波の音に塗り潰される。今胸の上に乗る男が何をしてきたのか、自分が何を返したのか、すべて曖昧なことになる。
「…結構ウマイじゃねェかよ」
意外だな、新しい発見だ、とどこか楽しそうに言う。
「貴様がどういうつもりでおれに口付けようと知ったことではないし、別にどうでもいいことだが」
「……うわっ?!」
足首を逆手でつかまれたかと思うと、一気にひっくり返されて頭から海に突っ込まされた。
「てめっ…何すんだッ!」
海水を飲んだのだろうか、ゲホゴホとむせながら立ち上がる。
最後の夕陽を背後に浴び、闇に飲まれる最後の空より燃える色の髪から滴り褐色の肌を伝う海の欠片は、髪に染められたように同じ色をしている。そういえばどこかの国では炎は破壊と同時に再生の象徴でもあり、神を象徴する神聖なものだった、と赤髪を見つめながら古い知識を思い出す。
波に打ち上げられた剣と帽子を背をかがめて拾う。帽子は軽く振ると飛沫が飛んだ。しばらくかぶることは出来ないだろう。
「…意趣返しだ」
「水飲んじまったじゃねーか!」
「貴様があの男にやったのと同じ事だ」
帽子を左手に持って、赤髪を振り返る。なーんだ、とその唇は動いた。つまらないと言いたげに。
「バレてた?」
「当然。あの木々の向こうに気配があることくらい、貴様とて気付いていたのだろう。だからこそおれに口付けた」
「…アタリ」
ぺろりと舌を出してクスクス笑うシャンクスを、鷹の目はやはり無表情に見た。
「悪魔のような男だな。やはりあの男を憐れに思う。あるいは物好きと言うべきか、悪魔に魅入られた不幸と言おうか」
「何言ってるんだ」
赤より赫い髪の男は、悪魔と形容されるに相応しい婉然たる微笑をうっすら口許に刷いた。海水が滴る髪をかきあげる。
「オレについてくるのが嫌ならサッサと船を下りるなり、逃げるなり、オレを殺して自分が船長の座につくなりなんなり出来るだろう?それをしないってのはつまり、オレについて行きたいってことだろ。つまり、オレといる方がアイツにとっては幸せってことさ」
「物は言いようという言葉がある」
「何が言いたい?」
「案外、そうあの男がそうしたいと思っておるのを、貴様がそうさせていないのではないかと思っただけだ」
「へェ?オレがアイツのこと、縛ってるように見えるか?」
「目に見える状態だけが真実ではあるまい。目に見えぬことにこそ表れる真実というのもある。目に見えぬ蜘蛛のような網で、あの男の心や思考を絡めているのは貴様ではないのか」
「…なるほど?詩人みてェなタトエをするんだな、オマエでも」
楽しそうに微笑し、ザバザバと大股に近寄って、自分より少し位置の高い肩をポンと叩き、
「飲んでいけよ。どうせ暇だろ?」
「…ああ」
「いい酒があるんだ。オマエにも飲ませてやるよ」
離れて、脱ぎ散らかしたシャツやサンダルを拾う。そうして木々の方へ歩いていく、と思ったが、数歩行った所でくるりとまた振り返った。
「イイ勘してるよ、オマエ」
無邪気に笑っているようなのに、空気はあくまで不穏だった。剣呑という程ではない。一触即発というのも違う。それでも空気は何処までも不穏、と表現する他ない温度でふたりを取り巻いていた。やはり、と鷹の目は心中で嘆息する。手に持った黒刀を背に収め、帽子を被った。まだ濡れてはいたが、どうせ頭も濡れている。大差はないだろう。
でもさ、という声に顔をあげれば、悪魔はそのままの笑顔で言葉を紡いだ。
「そういうオマエも、きっとオレに囚われてるんだ。…気付いてるか?」
今度は振り返らず、木々の中へと消えていった。
ああ、と今度は本当に溜息を吐いた。やはりそうだったかと宙を仰ぐ。だからこそ、自分は暇を持て余したといってはここを訪れるのだろう。自分もあの男と結局は同類なのだ。あの男を哀れむということはつまり、同病相憐れんでいる事に他ならない。
小さく己を笑い、赤髪を追って木々の中へと分け入る。せめて酒を飲む間くらいはそんな事を考えたくはないなと、頭の隅で思った。