「ベックマンせんせー!」
左目の下に手術の痕がある子供が、彼の大きな背にジャンプして飛びついた。勿論それくらいで怯んだりグラついたり怒ったりするベンではない。怒ったのはむしろ、その子供の兄の方だった。
「ルフィ!大人しくしろよ」
「何言ってんだよ。エースだって先生と遊びたいくせに」
べー!と舌を見せる弟のお尻をぺしっと叩く。
「手術した後なんだから、大人しくしろって言ってんだよ!」
「えー!だって遊びたいもんっ」
「…エースの言う通りだぞ、ルフィ」
背中に張り付いたままのルフィを、器用にはがして片手でダッコする。そうして空いた手で軽々とエースも抱えあげ、子供たちと目線を合わせて優しい顔で語る。
「先生は、今までずっと仕事をし続けてきたから、今から家に帰って休むんだ。ルフィは手術したばかりで、無理をしたらまた傷口が開く。…看護婦さん達にナイショで部屋から抜け出したことは黙っててやるから、暫く大人しくしておくんだ。何日かたったら、遊んであげよう」
子供だからといって邪険にするでもなく、侮るでもなく見下すでもなく、ベンは彼らにも大人と同じように対等に接した。そのあたりが、顔は怖いのにも関わらず子供に人気のある所以だろう。
ルフィが真っ黒い目を輝かせた。
「ホント?!」
「ああ。エースも一緒にな」
「ホント?」
「先生が嘘を言った事があったか?」
「なーい!」
「おんなじ先生でも、ベックマン先生はシャンクスとは違うもんな!」
「なー!」
顔を見合わせて笑う兄弟につられて笑いながら、ゆっくりおろしてやる。
シャンクスも別の意味で子供たちに人気がある。こき下ろしながらも、この二人の兄弟はシャンクスを嫌っているわけではない。むしろ好いているだろう。そしてシャンクスもまた子供が大好きな男だった。
とはいえシャンクスの方は子供をオモチャのように思っている節もなきにしもあらず、だが。ようするに同レベルで遊んでいるのだと、ベンは思っている。
「じゃあ、またな」
「ベックマンせんせーバイバーイ!」
「またねー!」
手を振る子供たちに手を振り返し、正面玄関に抜けるために小児病棟に入ったところで、白衣に入れていたポケベルが震えた。
これから明後日まで休日になった事は、すでに外科の他の医師にも看護婦にも伝達してあるはずだが…と不審に思いながらメッセージを見て、深い溜息をついた。
休暇に入るには、まだしばらく時間がかかりそうだ。
正面玄関に向かいかけていた脚をエレベーターに方向転換する。目指すは4階の小児科部長室。
シャンクスがいる部屋だ。
**********
「……バカだろう、アンタ。…いや、だろうじゃねェな。バカだな、アンタ」多忙な自分をわざわざポケットベルで呼びつけた相手を一目見た開口一番のベンの、罵倒ともとれる呆れた言葉にもシャンクスは楽しそうだった。
「どォ?似合う?」
薄いピンクの膝丈ワンピースはシンプルに、かつ清潔感があるもの。+頭の上にはピンでとめた小さな帽子。
……服だけ見れば、立派なナースだ。あくまで、「服だけを見れば」であるが。
ベンは疲れたように溜息した。ここが個室で本当によかった。こんなふざけた姿を患者や他のナースに見られた日には、今日中に病院内すべての人間に知られて…院長の雷が落ちていたに違いない。そしてその後始末までキッチリ自分がやらされるのだ。
長年の付き合いでパターン化したことではあるが、結末まで容易に想像できるのもどうかと思う。
「…何考えてんだ…」
「だァって、罰ゲームだし?いやあ、オレ今までこんなに自分の毛が薄くてよかったと思ったこと、ねェなー」
たしかに、スカートから伸びる脚に脛毛が山盛り状態であったなら、いっそう目が腐れていたかもしれない。…だが、問題はそんな所ではなく。
問題児はスカートの裾をつまんで「スースーするー」と言いながらくるりと回る。
「…ホントに実行するバカがいるか。そしてそんな問題じゃねェだろう」
「バカバカ言うなっつーの。大体、実行しなきゃ罰ゲームにならねェだろうがよ」
「ああ、そうかい…」
今まで感じなかったここ数日の疲れが一気に全身を襲う。…ここが個室でよかったのか悪かったのか…。
「んじゃ、コレをデジカメで撮ったら終わりだから♪」
ポケットから取り出したデジカメを出して、ベンの隣にぴたりとくっついてくる。
「…何やってんだあんた…」
「だってさー"ナースのカッコで病院で誰かと2ショット写真を撮る"が罰ゲームの内容なんだもんよ」
「………」
「疲れた顔すんな!」
「誰のせいだ、誰の…」
ただでさえ7日連勤+8時間にもわたる大手術を終えた後だというのに。肉体的にも精神的にも疲れた後でとどめをさすような真似は勘弁して欲しい。
だがそんな事を知っているのか知らないのか…いや知っていたとしても、彼が傍若無人にふるまうのに変わりはあるまい。楽しそうに笑いながらカメラを示す。
「ほらっ、笑えー」
「…………」
「もぉッ!つまんねーヤツだなー!いいよ、勝手に撮るから!」
膨れながら言って、それでもカメラには上機嫌でベンと手を繋いだところを(勿論無理矢理)収める。
「よっしゃ!これでオッケー♪ちゃっちゃと着替えっかな♪」
言っている間にも、さっさとナース服を脱いでいく。ベンはなるべくそれを見ないように、顔をあらぬ方に向け、煙草に火をつけた。
「…これだけのために俺を呼び出したのか?」
「そうだけど?」
「…………」
「何」
「…帰らせてもらう」
「ちょっと待てよ!」
「待たない」
「待てって!」
慌てて羽織ったシャツのボタンも留めないまま、ベンの腕を掴んで引き止める。
くるりとシャンクスの方に向き直り、
「…あのなあ。俺は今まで昨日の夜緊急に入った手術のせいで寝てねェんだ。その前にも面倒な手術を終わらせて、疲れてる。今日はもうオフなんだ。帰って寝る。これ以上あんたに付き合いきれん」
「カップルの別れ間際のセリフみてェなこと言ってんじゃねェよ。昼飯一緒に食おうぜ」
「昼飯?」
「そ。弁当作ってきてるからさー。喰お?」
「…………」
はぁ、と白い天井に向かって溜息ひとつ。
コレはアレか。泣く子と地頭には勝てぬ、というアレだろうか。
頭の回転が鈍っている事を自覚しながら、早く家に帰って眠りたい。切実に。ということは、ここは大人しく昼飯を相伴してからサッサと帰るのが得策だろう。どうせこの人は人の話を聞かないから、今は何を言ってもムダだ。
諦めて小さく溜息をついて、
「…喰ったら俺は帰るからな」
「おっけーv」
にこりと笑って、デスクの真中に置いていた風呂敷包みをソファに囲まれた低いテーブルの方に移した。
やれやれ、と思いながら、ベンは最後の仕事に取り掛かったのだった。