海賊大横行時代のこのご時世、人の生死があっけないものだとは知りながら、どこか自分には無縁のものだという感が拭えないのもまた人情。
ましてそれが人でないものなら、尚更に。
赤髪海賊団の副船長が後甲板で佇む船長を見つけたのは夜半、十八夜の月が天頂から西へ傾いた頃。空き樽に座って、海を見下ろしているようだ。欠けた月光に照らされる船長の後姿はいつになく取り残された子供のように頼りない。
手に持ったラムの瓶で自分の肩を軽くたたきながら、さてどうしたものかとかける言葉を探したが、気の利いた言葉は浮かばず、浮かんでも白々しいものになりそうだったので諦めた。
短くなった煙草を海へと投げ捨て、新しいものを取り出して咥える。風は今の所穏やかで、ジッポではなくマッチを使って火をつけた。マッチの方が炎らしくて好きだからだ。そして独特の香りも。
船長―――シャンクスは相変わらずこちらを向かない。ベンの存在に気付いていないかのようだが、そんなわけはない。最初の一吸いを大きく吐き出し、大股でゆっくり、傍へ寄る。
「風邪引くぞ」
月明かりにも紅く見える髪を撫でようと手を伸ばしたが、止めた。全身が触れられるのを拒んでいるように見えたからだ。そして一向にこちらを省みる様子はない。
仕方ないかと溜息をシャンクスにわからないように吐いて、彼が右腕に抱いている一抱えの布包みにチラリと目をやると何も言わずに背中合わせに樽に腰掛けた。持ってきたラムは足元に置いた。
触れてはいないが、背中から伝わる彼の体温は暫く冷えたままで、くっついたとしても温まるには時間がかかるだろう。一体この人はどれだけここにいたのか。人払いをして、たったひとりで。
それから煙草4本ほどを吸いきる時間が過ぎた。
5本目を半分ほど吸ったあたりで、不意に背が寒くなった。シャンクスが立ち上がった気配を察し、瓶を手に持って栓を抜く。
布包みに口付け、何かを言っている。何を言っているのかは聞こえない事にしておく。そうしてシャンクスが包みをまだ名残惜しげに撫でた後に海へ落としたのを見守ると、ベンは口をあけたラムを海へと注いだ。沈んでいく包みの行き着く先まで見届けるように海面を見つめ続けるうつむいたシャンクスの表情は、隣にいても髪が顔を隠し、窺い知る事は出来ない。吸いきった5本目を消し、吸殻はシガーケースにしまった。
「…ありがとな」
やっぱり片腕だと不便だな、体と酒を一緒に持ってやることが出来ないから。
細い声は普段なら冗談の声音だったに違いない。だが今は震えていた。泣いてはいない。ベンは吐息だけで微笑し、大きな手でブラッドレッドの髪を胸元へと引き寄せた。
「……誰も見てないから」
船員も。
月も。
星も。
太陽も。
空も。
雲も。
―――海でさえも。
だから思い切り泣くといい。
「…あんま…甘やかすな…ッ」
「泣きたい時に泣けないのは体に悪い。…誰にも、何にも見られたくねェっていうんなら、俺が隠してやるから。誰にも見せないから…」
裏のない優しい言葉に、とうとうシャンクスは右腕だけでベンの背中にしがみついた。
「いつか…死ぬんだって、わかってた…!でも…っ」
まさか本当に死ぬなんて。
声にならない叫びが、不意の風に攫われる。
―――ああ、そうだ。生き物はすべていつかは死ぬ。けれどアンタは仲間が死ぬなんて欠片も思っちゃいないんだ。いつも。いつでも。
こうして死を目の当たりにしている今ですら。
「オレ…大好き、だった…」
くだらない愚痴でも、酔っ払いの戯言でも。いつも傍に佇んで、黙って真っ黒い目で全身で、どんな話でも聞いてくれた。艶やかな黒い毛並みが誰かを連想させる―――聡い猫、だった。
「…俺も、好きだったよ」
「嘘だッ」
間をおかずの否定に、少しだけ苦笑を漏らす。たしかにそう思われても仕方ないほど、ベンは黒猫に嫌われていた。それは事実なのだけれど。
「本当さ。俺も、あの猫は好きだった」
「オマエ…嫌われてた、じゃ…ねェか…」
「たしかに向こうには嫌われてたけどな…でも俺は別に嫌いじゃなかった」
何しろアンタを好きで集まった仲間、だからな。
囁いて背と頭を撫でると、言葉らしい言葉は返ってこない。
嗚咽と慟哭だけが、音泣き夜を裂いていく。
ベンは猫が沈んだあたりを見やりながら、唇だけで言葉を綴った。それは、10年をともに過ごした仲間へのいたわりの言葉ではなく、
―――おまえが、羨ましいよ。
弔い、そして嫉妬の言葉。