この前作ってもらった分が切れそうじゃという人の良さそうな老婦人の頼みを、ウォルフと呼ばれた長身の男は二つ返事で引き受けた。
その港町は温泉宿場保養地として有名で、標高のある休火山を観光名所に、そこそこ栄えていた。男がいるのは町の一角、俗に温泉街と呼ばれるあたりに居を構えた鄙びた宿屋だ。男はその宿の従業員でも観光目的の旅人でも静養目的の病人でもなかったが、町からどこかへ行くあてもないので、逗留しがてら宿の手伝いをしているという具合だ。
小さな宿は老婦人が営んでおり、他に従業員はいない。ふたりで充分やっていけるのだと老いた女将は笑ったが、主人が体調を崩したのはウォルフが宿を取って三日目の朝の事。丁度この日のように薪を切らして困っていた女将にウォルフが声をかけたのが最初だった。
ウォルフは、元の名をベン・ベックマンといった。
つい二週間ほど前まで赤髪海賊団という大海賊団の、副船長を務めていた。その事実を、町の人は誰も知らない。
筒状の薪に軽く斧の歯を食い込ませ、大人ふたりの腕を回してようやく抱えられるほどの切り株へと振り下ろし、割る。
船長からの下船命令を宣告された時のことは、二週間たった今でも鮮明に思い出すことができる。船長の表情、唇の動き、言い方―――夢に見るほど克明に。
何度問うても理由を教えてはくれなかった。ただ下りろ、と厳しい瞳に射抜かれ。反発すら撥ね付ける強い意志がそこに見て取れた。
船員たちは表立っては何も言わなかった。船長命令は周知のことだし、あるいは何か船長に意見する事によって自分まで船から下ろされるのではないかと危惧したのかもしれない。彼らが自分のことで何もしようとしないことについて、ベンは何も思わなかった。口うるさい副船長がいなくなったと清々されていたら、少しやりきれないけれど。ただ、船を下りる時に向けられた、あの何か言いたげな視線の意味だけは聞いてみたかった。―――そんな機会は、永久に来ないけれど。
終わりなど案外あっけないものだ。
知っていたが、こんな終わり方は想像も予測もしていなかった。きっと海の上で、シャンクスの前で死ぬだろうという漠然とした未来だけを思い描いていた。
永遠に叶わなくなった未来を胸の中で弔いながらも、港に着く瞬間までベンは仕事を片付けていた。船員は多いが、正確に読み書きできるものは多くない。ましてその中で計算ができる者など、本当に数えるほどだ。下船する前に彼らの負担―――ことに読み書きも計算もできる(が、普段はしない)シャンクスにかかるだろう負担を、少しでも減らしておきたかった。本来の目的である港まであと4日だった。温泉町へはその途中、ベンを下ろすためだけに寄られた。
ガコン、と乾いた音と共に薪が割れる。
この薪のように、過去を割り切ることができたら。―――女々しい思いを切り捨てるように、更に薪を割り続けた。
悠に十日分ほどの薪を作り終えた頃には日も暮れかけ、夕食に呼びに来た老女将について部屋へ引き上げる。
心を尽くした料理は海と山の幸を贅沢に使ったその地方の家庭料理で、舌の肥えたベンの味覚ですらも充分に満足させるものだった。
出された料理を残さず平らげ一息つくと、温泉町ご自慢の温泉へと向かった。
宿の東側の渡り廊下をまっすぐ進むと、小さな小屋につき当たる。向かって左側が男性用入り口、右側が女性用入り口で、要するに脱衣所となっており、中はベンより一回り以上背の高い仕切りで区切られていて、覗きなどという無粋な真似を阻止している。
衣服をすべて脱いで、「温泉」と古びた看板が掲げられた方のドアを開けると露天となっている温泉の前に出る。
天然岩で囲まれた湯船の周りは、川と森と空。手付かずの自然に囲まれた世界を照らすのは、薄い明かりを落とすカンテラだけだ。宿の母屋にも大浴場があったが、ベンは露天風呂の方を好んだ。
一ヶ月前の戦闘で負った足の怪我は、深くはなかったが浅くもなかった。そして治りがいつもより遅かった。船医には「体を休めねェと治るモンも治らねェんだよ」と言われたが、生憎あの時は休んでいる暇などなかったのだ。
戦いで得た財宝類を売りさばくための古買屋を探すのと、換金レートのチェック、換金する宝の仕分け、武器商人から弾薬刀剣類を買い入れするための物価チェックと弾薬の残数、折れた刀剣類の数、買い入れるそれらの数と予算の突き合わせ、仕入れる食糧や水に関すること、船の保守点検エトセトラエトセトラ、仕事はとにかく多かった。
だがやはり、船医の言葉は正しかったのだ。
船に乗っている時には取らなかった休息をとるようになってようやく怪我が癒えたというのは、ある意味皮肉な結果ではあるのだが。
爪先からゆっくり入り、膝を曲げて腰を下ろすと足を伸ばす。右腿の大きな怪我はようやく、湯につかっても染みなくなった。
広々とした天然岩たちで出来た浴槽は、大人が十人入っても余裕があるほどの造りだったが、今はベンがひとりで独占している。温泉のすぐ脇を流れる川のせせらぎと、川を渡るひんやりした風が長い黒髪を揺らし、湯あたりしないようにしてくれており、リラクゼーション効果を高めてくれる。
背後の滑らかな岩にもたれてふぅと息をつく。右手で左肩に湯をかけた。すべての煩雑な思いから、このひとときだけは解放される。頭の中も心もカラになる時間。船から下ろされたという現実を受け止めるのに、二週間という時間では足りないらしい。
女々しいったらありゃしねェとひとりごちて、鼻の下まで湯につかった。
**********
ベンの朝は早い。それは船での生活習慣が抜けていないせいなのだが、同じく朝早い宿の主人達の手伝いをするには都合が良かった。午前中の早い時間は食材などの仕入れなどを手伝い、その後早い朝食をとり終えると川の向こうに広がる森へ散歩に行く。
いつも一時間あれば一回りできるであろう小道を選んで一時間半かけてゆっくり歩いていたが、今日は雲ひとつない快晴なのでその道は止め、見晴らしの良い高台へ抜ける道を行ってみようと足を向けた。
鳥のさえずりや木々を抜ける風の音、小動物の鳴き声。穏やかにそれらを感じる時間は十年も前に手放したものだったが、懐かしんだことはあっても悔やんだことは一度もない。そういえば、シャンクスたちと宝を探しに入った森も同じような森だったのに、感じる思いはまったく違っている。―――今感じているのも、おそらく十年前、まだ海賊になっていなかった頃とも違う思いなのだろうけれど。小さな痛みをそのままに、ズボンのポケットから煙草を取り出して咥えた。
こんな感傷にひたるのは、船を下りたせいだ。船長命令だったとはいえ、唯々諾々と従ったからだ。
かといって、もう一度海へ帰る気にはならなかった。どうしても赤髪以外の船に乗る気は起きないのだ。そして、海へ出れば赤髪海賊団の―――シャンクスたちの噂を聞くことになるだろう。それらの噂が、もう自分には無縁のことだ、関係ないのだと思い知らされるのが嫌だった。自分がいなくても船は進む。その事実を突きつけられて目の当たりにされるのは…堪えられない。
けれども海は確実に彼へ、シャンクスへ繋がっている。
だから身動きが取れないで、こんな平和な温泉町にいるのだ。こんな町でも、彼の影を求めているのだと思うと、自分がこの世の誰よりも愚かであると思えてならない。まったく、いい笑い話にしかならない。
髪を短くしたところで捨てきれる思いではないと、つくづく思い知らされる。
長い黒髪は十年前も同じように長かったが、海賊になった時に短くした。それは決意と決別と誓いの証だったが、再び伸ばし始めたのはたしかシャンクスの言葉のためだった。
「…いつまで過去の影に捕われて…すがってるんだろうな、俺は…」
高台からは海が見渡せた。水平線ははるか彼方。
今も、この海のどこかにあの人がいる。
(………シャンクス…)
何がいけなかったのか。
何が足らなかったのか。
叶うなら時を戻して今度こそ聞きたい。
時間が経とうと、どれだけ離れようと、髪を切ろうと、思いは変わらない。
傍にいたい。
ともに在りたい。
どこまででも行きたい。どこへでも行きたい。
―――あなたと。
(…シャンクス…)
頬を伝う涙が、風に運ばれて彼のもとへ届けばいい。それでも…彼の気持ちは、変わらないだろうか…?
涙は自分のために流すものだと知りながら、止める術を知らずに立ち尽くす。景色があまりに穏やかで平和だから余計に泣けた。船どころか、世界は自分とは無関係に回るのだ。こんなにも、美しく。
――― 一体、どれほどそうしていただろう?
「ベン・ベックマン」
その真名は決して、町の人間は知らないもの。
振り返って身構えたのは反射だが、目を眇めて手で日を遮ったのは逆光に目を焼かれそうになったからだけではない。
その人物の姿を誰であるのかと認識した時、これは幻なのだと思った。彼に会いたい思いが作り出した幻影なのだと。
幻影が口を開いた。
「…なんて顔してるんだよ、ベン」
言葉とは裏腹に、口調はひどく優しい。
顔の左側を走る派手な三本傷。黒のマントで隠された左腕。そして―――朝日を受けて燃えるが如く輝く、鮮血色の…赤髪。
シャンクス以外の人であるわけがない。彼を見間違えるわけはないのだから。
だが彼がここにいるはずがない。彼は自分を下船させて、仲間とともに今はあの広い海のどこかにいるはずなのだから。
「どうした?たった二週間ぽっちで、オレの顔を見忘れたのか?髪切っちまいやがって。…でもまあ、その方が男前があがってるかもな。似合うよ」
一歩一歩近付く赤髪を、ベンはただ呆けたように見つめていた。頭の中は混乱の極みにあった。
「……シャンクス…?」
ようやく言えた言葉は、下船以来けして口には出さなかった彼の名。その声は掠れていたが、赤髪の耳には届いた。満足そうに頷いて、剣を自在に操る右手でベンの頬に触れた。
「なんで泣いてんだよ。誰かに泣かされたか?」
誰かって言ってもオレしかいねェか、と苦笑混じりに呟く。
涙の跡を拭う指に触れられて初めて、彼が生身の人間だとわかった。そして、距離の近さを。
何か言いたかったが、言葉は渇いた喉にひっかかって何も出そうになかった。
「何呆けた顔してんだよ。…オレがここにいるの、信じられねェか?」
ほら、と男の左手を取って、自分の頬に当ててやる。
「夢や幻じゃねェって、わかったか?」
夢ならばいつもそこで覚めた。だが、目の前の彼は消えもしなければ逃げもしない。
「……シャンクス…」
自分しか写していない深海色の瞳は、凪いだ海のように穏やかに澄んでいた。
ベンの右手がシャンクスの頬に恐る恐る触れると、彼は片方しかない腕を男の背中に回して緩く抱きしめた。
そうして間近で発せられたシャンクスの言葉は、彼が今そこにいる以上にベンを驚かせた。困惑させた、と言った方が近いだろうか。
「迎えに来たぜ」
「…迎えに?」
誰を?と呟くと、赤髪は困ったように笑う。
「オマエ以外の誰をオレが迎えにくるっていうんだよ?オレはオマエを迎えに来たんだよ」
待たせちまって悪かったよと言われても、にわかに信じられない。影を落とした瞳が、シャンクスから目をそらした。
「…俺は…船から下ろされた人間だろう…?」
ベンの、その傷ついた瞳が愛しくてたまらない。
背に回した手を今度は頬に当て、宥めるように撫でてやる。
「バァカ。こういうことでもしねェと、オマエゆっくり休まねェだろ?ちょっと荒っぽかったのは認めるけどさ…」
もしかしてそれで泣いてたのか?と聞いてみたが、無言のままだ。勝手にそれをYESの意味で解釈する。
「…怪我人のクセに、働きすぎなんだよオマエは。皆オマエの体、心配してたんだからな」
その言葉に、下船前に見た船員達の顔が思い出された。みな一様に何か言いたそうな…それでいてどこかホッとしたような表情をしていた。自分に対してそんなにも不満があったのかと思ったが…彼らがシャンクスの出した命令の真意を前もって知っていたなら、不自然に黙っていた事も理解できる。
皆、自分の体を気遣ってくれていたのだ。
それなのに…自分はなんと被害者意識をもっていたことだろう。
「…心配…かけてたのか…」
「自覚ねェんじゃ重病だな」
「……すまねェ」
「ったく、ホントだよ。世話かけさせやがって」
笑ってキスを仕掛けてくる。
二週間ぶりの唇は、やはり柔らかかった。
軽く口付けただけで離れる自分を名残惜しそうに見つめるのをシャンクスは見逃さず、小さく微笑んだ。
「帰ってくるだろ?」
帰ってこないなど思いもしない、確信に満ちた顔で背の高い男を見上げる。だが男は蒼い眼差しを見返すことができない。視線を地に落とし、体に似合わぬ小さな声で、
「俺は…あんたを、仲間を疑った」
ぽつりと洩らす。
仕方ないさとシャンクスが笑うのにも首を横に振る。
「…ここにいる間、ずっと考えてた。何故船から下ろされたのか。…いくら考えてもさっぱりわからなくて…あんたが俺を嫌いになったのか、飽きたのか…他の船員達から不満でもあったのか…いくら考えても考えてもちっともわからなくて…落ち込むだけで…」
「突然だったんだ。仕方ねェよ。オレがオマエの立場でも、同じこと思うぜ?オマエがオレを裏切ったんじゃねェかって思うさ」
「裏切ったんだ、俺は。少しでもあんたのこと疑って…」
「あのなあ」
シャンクスは大いに苦笑した。
まったく、この男ときたらどうしてこんなにクソ真面目で面倒くさい性格をしているんだろう?―――それでも愛しさに変わりはないけれど。
仕方ねぇなと口の中で呟き、右腕をベンの体に回して幼い子供をあやすように強く、抱きしめる。そうして優しく背を撫でて。
この男に、こんな思いをさせているのは自分だ。男のためを思っての芝居だったが、それがこんな風に傷つけてしまう事になるとは思わなかった。自分は彼を癒したかったのであって、傷つけたかったわけではない。
男の体に隠れて見えない左腕、今はなくなったその先を思う。
―――あのときに決めたのにな。もうオマエを泣かさねェって。
抱きしめる腕に力をこめ、少しだけ背伸びをする。
「御託はどうでもいいんだよ。オレはオマエの意志を聞いてるんだ。帰ってきたくないっていうなら話は別だけどよ。…帰って来たいだろ?」
"赤髪"の船へ。―――オレのもとへ。
囁かれた言葉に、ベンは吐息を震わせた。
答えは初めから決まっている。
叶うことなら―――叶わなくとも。
何度も何度も思い描いた。
帰る場所はただひとつ処だけだと。
「…帰り、たい」
ただひとつの、祈りのような願い。
赦されるなら…もう一度あなたのもとへ。あなたの傍に。
「よく言った」
短くなった男の髪をくしゃくしゃとかき混ぜ、赤髪は全開に笑ってベンの願いを叶えた。