Spring:get confused

 駅から徒歩十分の赤髪ビルディング。一階は美人店主の営むカフェ、その二階はビル主が「道楽」と陰口を叩かれながら営んでいる「Grandline」というバー。男二人で切り盛りしているだけで雑誌にとりあげられたりすることはないが、うまい酒とフードを出してそこそこ繁盛している。
 開店時間は午後六時。だがこの日はどうしたことか、一向に開店される様子がなかった。
「どーすんだよ、これ」
 不機嫌声でベンが胸に抱いている布の塊を指す。ベンの方はと言えば、シャンクスの記憶に間違いがなければ、人生で五指に入る困った表情をしていた。
「一応、スモーカーには連絡を入れた。届けがあれば……」
「迎えが来るまでどーすんのかって訊いてんの!」
 声を荒らげたシャンクスの口を塞ぐ。幸い、腕の中のものはそれでも静かだった。
 ひそめた声で気遣わしい視線を腕に落とす。
「親が見つかるまでウチで預かるか、スモーカーに任せるかだな」
「…………」
 警察に任せればいい。
 出かかった言葉は寸前で留めた。ソレに対する義理などシャンクスもベンもないに違いなかったが、ベンの眼差しを見ると何も言えなかった。
 溜息をつき、ベンの腕を見下ろす。ソレは、憎らしいほど平和な顔で眠っていた。
 ふとソレは小さく身動くと、猫に似た声で泣いた。あまり見ていたからだろうかとたじろいだが、ベンは冷静だった。
「……ミルクだな」
 断定すると革張りのソファから立ち上がり、ヤカンを火にかける。水が沸く間、ベンは泣き続ける赤ん坊を揺らしながらあやしていた。


 そもそもの事の起こりは昼だった。
 週明けで格段に忙しいわけでもなかったので、一時には店を閉め、三階の自宅へと引き上げたのは二時前。四時前には就寝し、シャンクスが起きたのが十二時。
 シャワーでも浴びようかと四階から三階のリビングへ下りた所で、ドアの外から泣き声が聞こえるのに気付いた。春先でもあることだし、てっきり猫かと思ってスコープを見て――内臓が口から出るかと思ったほど、驚いた。
 赤ん坊がいた。
 大きな篭のような物に入れられた赤ん坊が、顔を真っ赤に染めて泣いている。放心しかけたが我に返り、慌ててドアを開け存在を確かめる。夢でも幻でもなく、彼(後で男の子とわかった)はいた。
 何かの悪い冗談か、家を間違えたのではないかと思ったのだが、どうやらそれはない。
 赤ん坊が収まっていたバスケットの中に、若い女性らしい少し丸まった字で「ベン・ベックマン様」と書かれた封筒が入っていたのだ。
 仰天したシャンクスがベンを叩き起こしたのは言うまでもない。
 哺乳瓶でミルクを飲ませている男に激しい違和感を覚えながら「なあ」と呼びかける。
「何だ」
「本当に心当りない?」
「疑ってるのか?」
「いや……」
 もごもごと言葉を濁すが、まったく疑っていないかと尋かれると嘘になる。
 足の短いテーブルに放ったままの手紙に、救いを求めるように視線を落とした。

 ――あなたの子です

 簡潔な手紙は、他に赤ん坊の名前しか記していない。母親が誰なのか、まったく手がかりはなかった。
 バスケットに赤ん坊、ミルクと哺乳瓶にオムツ、手紙。
 せめて幼児だったなら何か手がかりが得られたかもしれないが、仮定の話は建設的ではない。一心に哺乳瓶へ吸いつく赤ん坊の頭をなでた。
「しっかし……乳児置いてくなんて、どんな親だよ」
 とりあえず今日は臨時休業だなと溜息をつき、ベンの隣に座った。
 ミルクを飲ませ終わった赤ん坊にげっぷをさせたベンの頬にキスをする。意地悪く笑って言う言葉は揶揄。
「手慣れてるねえ、パパ」
「……まぁな」
 赤ん坊に苦笑を落としたベンの顔を両手で挟むと、無理矢理自分の方へ向かせる。
「オレがなんで怒ってんのか、わかってるか?」
「…………」
 戸惑いの目は、わかっていないということだろう。シャンクスは微笑み、額と額を重ねた。
「妬いてんだよ。気付け!」
 音を立てて口付けると、赤ん坊と一緒にベンを抱きしめた。


「……で、マキノに迷惑かけてんのかよ」
 溜息をついてマキノが抱いた赤ん坊の頭を撫でたのは、エースだった。授業がないので散歩がてらマキノの経営するカフェで昼食を摂ろうと目論見、シャンクスと赤ん坊に遭遇した次第だ。
「別に迷惑かけたくてかけてんじゃねェよっ!」
 そもそもその赤ん坊はベン宛に置き去りにされたのだ。嫌味を言われるのは自分ではなくベンの方にこそだろう。しかしシャンクスの主張はエースの鼻息に飛ばされた。
「日頃の行いだな」
 口調は誰かにそっくりで、いっそうシャンクスの苛々を逆撫でた。
「オレは浮気したことなんざねェよ!」
 ぎゃあぎゃあと騒ぎかけた所でマキノに「シー!」と割られ、慌てて口を閉ざす。エースはシャンクスのシャツの袖を引っ張り、マキノと赤ん坊から少しはなれた所で声を落とした。
「で、副店長はどうしたんだよ」
「スモーカーんトコだよ。なんか書類作るんだってさ。そんでついでに仕入れ」
「……で、赤ん坊の世話を任されたはいいけど、飽きたってとこか?」
「違ェよ。ミルクやろうと思ったんだけど、温度とかわかんなかったんだよ」
「……早くほんとの親が見つかるといいな」
「まったくだ」
 溜息して、すやすやと眠る邪気のない赤ん坊の寝顔を見遣った。


 シャンクスやベンの祈りも虚しく、木曜日になった。スモーカーに連絡をとっても進展はなく、シャンクスの苛立ちはつのっていた。
「サボッてんじゃねェだろうなあ?」
 23時に店を訪れたスモーカーとガープに愚痴を零したくなるのも、シャンクスにとっては無理のない話だ。とはいえ心外な言葉に違いないので、スモーカーは厳つい顔を顰めた。
「手がかりが少なすぎる」
 赤ん坊が包まっていた毛布、哺乳瓶やミルク・オムツの類は皆、どこででも手に入れられる「市販品」だ。
「バスケットがちょっと変わってるみたいだから、今はそっちの線から探してる。こっちだってなあ、他にも事件追ってるんだから、仕方ねえだろうが」
 スモーカーの現状報告にも、つんと澄まして給仕に行ってしまう。舌打ちしてソルティドッグを舐めるように飲んだが、隣のガープは助け舟どころか肩を揺らして笑っただけだった。
「でもさ、マジでなんとかしてやってよ」
 シャンクスがそっぽを向いた隙にスモーカーに囁いたのはエースだった。店主の様子を窺いながら耳打ちをする。
「夜泣きとかして、あんま眠れてないみたいだしさ」
 カリカリしているのはそのせいだと告げると、スモーカーは大袈裟に溜息をついた。
「それで、当の赤ん坊はどこにおるんじゃい?」
 ハーパーをロックで飲んでいたガープが、思いついたように問う。
「今はマキノさんの所で見てもらってます」
 サラダを彼らの前に置いたベンが答えた。
「俺たちが店をやってる間は見ててくれると言うので、好意に甘えたんですよ」
「……おまえも変わった男だなぁ……」
 ガープは苦笑した。
 覚えのない子供なら、警察に保護を任せれば良いではないか。そうすればシャンクスが不機嫌になることもないだろうに。
 ベンは微笑しただけで答えず、再び狭い厨房へ引っ込んだ。
「……思うに、副店長がああだから店長が苛々しておるんだろうな。赤ん坊の夜泣き以前の問題で」
「おっさん、やっぱそう思う?」
 ああ、とガープが同意し、エースと固い握手を交わしたが、その横でスモーカーは首をひねっていた。
「……なんでそうなるんだ?」
「鈍い男には苦労するってことさ」
「?」
 スモーカーが眉間に皺を寄せるのと、シャンクスの「エース! サボってねェで働け!」の声が同時で、エースは小さく肩を竦めると、テーブル席へオーダーを取りに行った。


 赤ん坊がいる間だけ閉店時間を早めようということで、日付が変わるか変わらないかの時刻には店を閉め、マキノ宅へ赤ん坊を引き取りに行った。店から片道三分ほどの距離にあるマキノ宅まで、今日はベンが引き取りに行っている。その間、シャンクスは店の片付けをしていた。
 最後の皿を洗い終えると、シンクに腰を預ける。目の前にある棚から、ベンが置いている煙草とライターを取り出し、咥えて点けてみる。すぐに唇が痺れ、慣れているけれども知っているのとは微妙に異なる苦味が口内へ広がる。
 ライトを落とした店内に、紫煙が渦を巻くように踊りながら溶ける。くるくると回る煙を眺め、あの赤ん坊がやってきて以来、ベンが家では煙草を控えていることに気付いた。――控えているのは煙草だけではないのだが。
「……キスもナシってのは、どうよ……」
 赤ん坊がいるから、という理由では納得がいかない。
 セックスがナシなのはわかる。最中に夜泣きでもされた日には萎えること請け合いだし、いつ泣くかと気をとられながらするくらいなら、いっそしない方がいい。
 だが、やっぱりどうしてもキスまで駄目なのは納得いかない。 今日は是が非でも訊いてやらなければ、気が収まらない。
 咥えた煙草が半分以上灰になった頃、ようやくベンが帰ってきた。
「片付けはまだか?」
「や、終わったよ」
「……珍しいな。煙草吸うなんて」
「別に……気分だったんだよ」
「気分?」
 どんな? と訊くベンを、ちらりと横目で一瞥すると、小さな灰皿へ煙草を押し付けた。
「グレたい気分」
「……なんだ、そりゃ」
 カウンター席に腰掛けたベンの隣に座り、顔を掴んで引き寄せた。
「なんで、キスもダメなんだよ」
「…………」
「顔と目ェ逸らすな! 答えろよ!」
「……大きい声出すと赤ん坊が起きるだろ」
「構うもんか。言えよ。なんでだよ」
 真正面の至近距離からシャンクスに見つめられて、勝った例は少ししかない。ベンは息を詰まらせ、視線を泳がせた。照れくさいから言いたくないのだが、このまま黙っていてはシャンクスが家出しかねない。
 我慢比べをするような時間が流れ、諦めたのはやはりベンだった。大袈裟なほど大きく溜息をつき、赤ん坊を抱えなおす。
「……我慢できなくなるから」
「は?」
「キスなんかしたら我慢できなくなるだろう」
 憮然とした表情に「何を?」と訊きかけて、気付いた。その途端、首まで真っ赤に染まる。
「おっまえ……!」
 どもって罵倒すら言葉にならないシャンクスとは対照的に、告白したらスッキリしたのか、ベンは平然としていた。
「言えって言ったのはおまえだ」
「そうだけど……っ」
 だっておまえそんな、と喚くシャンクスの頭を一撫ですると、ベンは「上に戻るぞ」と苦笑しながら立ち上がった。


 さらに数日が過ぎ、赤ん坊が二人の部屋の前へ置き去りにされてから十日が経った。
 相変わらずシャンクスの機嫌はナナメであり、赤ん坊の親が見つかる気配すらなかった。店へ顔を出せば嫌味を言われるとわかっているので、スモーカーも来ない。
「……文句言う割に、赤ん坊を構ってるよな」
「構わなきゃ死んじまうだろうが」
 赤ん坊なのだから、自力で食事はできないし排泄の処理もできない。構ってやらねば泣き出すし、泣き止ませるには一苦労だ。それなら初めから適度に構ってやった方がいい。
 シャンクスはそう主張するが、ベンにはシャンクスが好んで赤ん坊を構っているように見えた。もともと子供が嫌いではない性質だからだろうか。
 拙い傾向だ、と思う。
 このままシャンクスがこの赤ん坊を可愛がり、情が移りきってしまった後で母親が見つかって返す時に、面倒なことになるのではなかろうか。勿論親権など持ち合わせていないのだから(覚えがないのだから当然だ)、シャンクスが何を言おうと赤ん坊は母許へと返すには違いないのだが、ごねられると説得が厄介だ。
 二十歳もとうに越したはずの男の言動をそこまで心配する必要があるのか、という当り前すぎる疑問は、ベンの頭をチラリとも掠めなかった。
 けたたましいチャイムが慣らされたのは、午後のティタイムの準備を部屋でしていた時だった。嫌がらせのようにチャイムを三度鳴らすのは、シャンクスの姉・アルビダの癖だ。
「一度鳴らせばわかるんだよ!」
「寝てたら気付かないだろ」
「こんな時間まで寝てねぇよ。……何の用だよ?」
「いい匂いだねぇ。お茶に呼ばれようかしら」
「呼んでねぇよ。用件を早く言えって」
 せっかちだね、とアルビダは苦笑したが、もともと上がりこむ気はなかったらしい。玄関の壁に凭れ、頬の下を指先で撫でた。
「……あんた、赤ん坊預かってるだろう?」
「姉貴まで知ってるのか」
 この分では、あの祖母の耳にも入っているのだろう。一つや二つの雷は覚悟しておくべきだろうか。――とはいえ自分が引き起こした不祥事ではないことで叱られるのは理不尽だが。
「今いるかい?」
「赤ん坊? 今ベックが見てるけど……それが?」
「引き取りに来たから、返して頂戴」
「ああ、そう。引き取りに……はぁ?!」
 仰天したシャンクスに、アルビダは麗しい顔を顰めた。
「大きな声を出すんじゃないよ」
「驚きもするだろ! なんだよあの赤ん坊、姉貴の子なのか?!」
 いつの間に、とは殴られたので言えなかった。「何するんだよ!」と殴られた所をさすり涙目で睨んでも、アルビダは冷ややかな視線で弟を見下ろすばかりだ。
「アタシの子のわけないだろう、バカ弟」
「今の話の流れだとそう思うだろ!」
 アタシが誰の子を産むのさ、一人しかいねぇだろ、など聞き苦しい言い争いを聞きつけたらしいベンが、赤ん坊を抱いたままやってきた。
「何の騒ぎだ?」
「ベン! 元凶はこの女だ!」
「姉に向かってこの女とはなんだい!」
「……落ち着いて、事の次第を最初から話してくれ」
 寝付いた赤ん坊が起きるから静かにしろよと忠告を忘れずにくれて、アルビダをリビングへ案内する。
 整然と片付けられたリビングは、ベンの努力の賜物だ。何しろ片付けた端からシャンクスが物を散らかしていくのだから。それでも最近は口やかましくした甲斐もあり、出した物を片付けるようにまで成長したのだった。
 そんな隠れた事実を知らないアルビダはソファに腰掛けると、出された茶をすすった。
「結論から言うと、赤ん坊の母親はアタシの友達さ。ま、軽く育児ノイローゼにかかってね」
 だから気分転換のため、夫婦だけで旅行をさせたのだという。
「それでなんでウチの玄関に赤ん坊を置き去りにしてるんだよ!」
「アタシが仕事で忙しいの知ってるだろう? 暇な人間が面倒をみてしかるべきじゃないか」
「どこのガキ大将の理屈だ!」
「シャンクスのくせに生意気だよ。アタシに逆らおうっていうの?」
 不毛な姉弟喧嘩に陥りかけた時、ベンが「そういえば」と口を挟んだ。
「なんで置手紙に俺の子供だと?」
「ああ、それは」
 より真実味がある嘘にしただけだから。
 簡潔な答えに、ベンは脱力して肩を落とした。
 なんとなく、なんとなくではあるが、そんな気はしていた。が、推測と実際に訊くのとでは少々ダメージが違った。隣でシャンクスも苦笑している。
「そういうわけで、赤ん坊、連れて行くから」
 世話になったねと爽やかに微笑むと、眠っている赤ん坊を抱いて帰っていった。
 来る時も嵐ならば、帰る時も嵐のようだとは、シャンクスの評だ。まったくその通りだとベンは頷く。
 アルビダと赤ん坊を玄関先まで見送ったシャンクスがリビングに戻ってくると、後ろから抱きしめた。シャンクスはベンの頭を後ろ手で撫でる。
「なァんだよ。甘えてんのか?」
「寂しそうだから」
「……オレが?」
「ああ」
「…………」
 そんなことはないよと否定しかけて止めた。赤ん坊に情が移りかけていたのは事実だったし、何より自分を抱きしめてくれている腕は心地好かった。
 体を少しずらして上向き、ベンの頭を引き寄せると顎に口付ける。
「ま、そんなトコかな」
 赤ん坊、可愛かったし。
 吐息で笑うと、つられるようにベンも笑った。
「初め、疑ってたくせに」
「あれは……疑うだろ、誰だって」
 風向きの危うさを感じ、逃げようとしたが、回された腕の力の方が強かった。
「ここ一年以上、俺があんた以外の人間と寝る暇があったかどうか、知らなかったわけじゃあないだろう?」
「そうだけど……もう、過ぎたことをいつまでも気にするなよ!」
「結構傷付いたんだが」
「だったら、オレだって言わせて貰うけどなぁっ」
 腕の中、苦労しながら振り返る。
「赤ん坊いる間、全然触らなかったくせに!」
 いなくなった途端に触ってくるのは卑怯だ!
 責めると、首にしっかり抱きついた。ベンは笑い、壁に掛けた時計を流し見、シャンクスの体をしっかり抱きしめてやった。
>> go back

13000hitは天沢退子さんでした。
リクは「パラレルで、シャンクスとベックマンのある日の開店前の風景。
何かが原因でちょっとスネ気味(でも強気)なシャンクスと、それをなだめすかしつつ、なんとか開店準備するベックマン」デシタ。
……開店してないですね。
喧嘩にもなってないですね。
「開店前」しかあってませんね。
しかも開店前よりその後の方が、話が長いですね。長すぎですね。
ラブコメのお約束ってことで……。