酒場が開店するのは黄昏時。それだけに日は高くなってもいまだ開店準備中。にもかかわらずこの酒場にいるのは、美人の店主のほかに長い黒髪をひとつに結わえた偉丈夫。酒場の用心棒ではないが、腰布にさした長銃と半袖のシャツから伸びた逞しい腕の古傷が、彼がただの村人でない事を物語っていた。今は待ち人ありの風情で紫煙をくゆらせている。
「副船長さん、どうぞ」
酒場にはいささか不似合いな美人が、カウンター越しに黒のマグカップを出してくれるのに礼を言って口を付ける。熱いコーヒーが口中の煙草の名残を打ち消してくれた。
「今日は、おひとりなんですか?」
「ああ…船長は二日酔いでベッドでうなされてるし、他の連中は隣街に行ったり買い出ししたりしてるんだ。開店時間前に邪魔して悪かったな、マキノさん」
「いいんですよ。いつも皆さん、たくさん飲んだり食べたりしてくださってますから」
「酒癖の悪い連中ばかりで申し訳ない」
いつ出入り禁止を言い渡されるか気掛かりで仕方ないんだこれでも、と苦笑交じりに言うと、マキノはあら、そんな事しませんよ、いつも面白い話を聞かせてくださるのを楽しみにしてるんです、と野辺に咲く花のように笑った。
癒し系の女性とは、いるだけで心が安らぐ。旨い食事と酒、コーヒーと煙草があるから言うことナシだ。
そういえば、とマキノが何か言いかけた所で、ひとりでも賑かな子供が店に入ってくる。
「あっ、副船長!」
すっかり馴染みになったコワモテの男を見つけて駆け寄って来るのは、先頃7歳になったばかりの子供。大きな目を輝かせて、ベンの腰に飛びついてくる。腰に飛びついたのには他意はなく、単にベンの背が高すぎるため例えベンが座っていてもルフィではそこまでしか届かないというだけの話だ。
子犬のようにじゃれかかってくるルフィの頭を撫でる。
「いつも元気だな、ルフィ」
「おう!なあなあ、シャンクスは?まだ寝てるのか?またフツカヨイでダラダラしてるのか?」
二日酔いなんて、言葉は知っていても意味はよくわかっていないだろうに、いっちょ前の口をきく。ルフィの兄が年の割に大人びているから、そのせいかもしれない。あるいは、大人に囲まれて育っているせいか。
ルフィにつられて笑顔を返しながら、小さな頭をすっぽりとグローブのように大きな手でわしわしと撫でる。シャンクスに撫でられると「子供扱いすんなー!」と怒るくせに、ベンに撫でられると怒るどころか、えへへ、と嬉しそうに笑う。勿論ルフィの態度の温度差は、日頃の行いによる所が大きいのは言うまでもない。
「お頭なら、昼を回れば起きてくると思うが…ルフィ、お前、昼飯はどうする?エースと食ってきたのか?」
「ううん。食べてない。エースはもう少し後で来るってさ。副船長にそう言っといてって」
「そうか。…腹は減ってるか?」
「空いてるー!」
「そうか。それじゃ、おごってやるから何でも好きなもん頼みな」
シャンクスが見れば「オマエが子供に弱いなんて知らなかったな」とでも言われそうなほど甘い顔をしているが、本人にその自覚はまったくない。
「ありがとう副船長!マキノ、おれ、オムライス!あとアップルジュース!」
「はいはい。ちょっと待っててね」
マキノは笑いながら奥のキッチンへと姿を消す。
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どたどたと賑かにやってきたのは子供ではなく、大の大人。目にも鮮やかな赤い髪を麦わら帽子に隠した童顔の海賊は、目にも見苦しい顔をさらしてやってきた。「アッ、シャンクス!」
「…子供にそんな見苦しい顔さらすなよ、お頭…」
「マキノさん…水…」
ため息交じりの小言にも意を介さず、バケツに入れた泥が落ちるようにイスとカウンターに体を預けた。
「あー…生き返る……」
冷たい水を飲み干し、酒臭さの残る息を吐く。
「シャンクスッ、ルフィの教育上有害だからどっかいけッ」
ベンの言葉ではない。いつの間にかやってきたルフィの三つ年上の兄・エースだった。口が達者なのは大人に囲まれて育ったせいなのか、時にベンすら驚かされる程のボキャブラリーと、ベンたちには思いもよらぬ考え方をする。
「るっせェ…ベンみたいな事言うんじゃねェよエース…オマエだってなあ、あと十年もしないうちに、この苦しみがわかるよーになるんだからな…」
「俺はシャンクスみたいなバカな飲み方は絶対にしないもんねー!だいたい、そんななるまで飲むなんて、海賊の頭としちゃヤバいんじゃねェの?副船長にいっつもおぶわれてってさー。ルフィが眠がってる時と一緒じゃん。オトナのくせにレベルはコドモかよ。カッコわりー」
ハッ!と鼻でせせら笑うエースを睨んで指をさし、ベンを見上げる。
「………副。何か言い返せ」
「エースは間違った事は言ってないと思うが?」
「…仮にもお頭がガキにああもあしざまに言われてるッていうのに…なんて冷たい副船長なんだ…。マキノさん、慰めてください…」
空泣きをしてみせるシャンクスに、マキノはにこりと微笑む。
「船長さん」
「ハイ」
二日酔いによく効くという苦い薬と水をもう一杯、カウンターに出しながらあくまでもにこやかに。
「もう少し、オトナの飲み方ができるように頑張りましょうね?」
一同爆笑の中、撃沈する赤髪がひとり。
ひとしきり笑いが収まった後、エースがベンの腰布を引っ張った。
「なっ、副船長。仕度出来てるからさっ!」
「ああ…飯は食ったのか?」
「うん、食べた!」
「そうか…」
じゃあ行くか、と席を立ち上がりかけたところで、ルフィがベンのサッシュの端をひっぱった。
「どこ行くんだ?」
「ああ…ちょっとな」
「どこー?」
「ナイショッ!」
しつこく問い掛けてくる弟を振り切って、早く、とベンの手を引っ張りながらエースが言う。ずるいずるい教えろ!と騒ぐルフィに、誰が教えるか、と舌を出す。
「ずるいー!エースばっか副船長と遊んで!」
「遊びじゃねェよ!だいたいおまえはいっつもシャンクスと遊んでるだろ!今日もシャンクスと遊べばいいじゃねェか」
「なんだよ、シャンクスと遊んで怒るのはエースじゃんか!だったらおれも副船長と遊ぶー!」
「今は絶対ダメッ。後でだ後でっ」
「エースずるいぞ!」
「ずるいぞエースー」
「なんでてめえまでルフィと一緒になるんだよシャンクスッ」
ルフィの口調を真似ながら乱入してきたシャンクスの脛を蹴ろうとして避けられた。シャンクスはエースを腰掛けたまま見下ろしてわざわざ偉そうにふんぞり返る。
「オレはなァ、二日酔いの朝には副のおじやを食うって決めてんだよ。まだ喰ってねェ」
「知るかそんなの。大体もう朝じゃなくて昼だろ」
「オレの体内時間じゃまだ朝だ。だからこれから喰う飯が朝飯。だから副のおじやを絶対ェ喰う。だから副置いてけ」
「理由になってねェよジジイ!ルフィみたいなワガママいうなッ」
「うっさい。副はオレのなんだからな。オレが何ワガママ言おうと自由だろ」
「残念でしたー!今日は1日、俺だけの副船長になってくれるって約束してあるもんねー!」
「何――ッ?!副ッ、オレを差し置いていつの間にッ!報告受けてねェぞ!」
「…いちいち報告しなくてもいいだろう…今日は自由行動なんだから」
「誰がオレにおじや作ってくれるんだよ?!」
「マキノさんに作ってもらえばいいじゃねェか」
「オマエのじゃないとヤダッ」
「子供みてェなワガママ言ってんな。なぁマキノさん、すまないがおじやを作ってもらえるか」
「かまいませんよ。…副船長さん」
「はい?」
「今から行ってしまわれるんですよね?」
「ええ、まあ」
「本当はお店を開ける前にお買い物、一緒にお願いしようかと思ったんですけれど…」
「………」
あなたもですか。
がくりと脱力するベンの周りで、にわかに争奪戦が繰り広げられる。
「おじやッ」
「おれも遊ぶー!」
ぎゃんぎゃんぎゃんと騒がれるのにいい加減イライラしてきて、パン!と大きく手を打ったのはベン。
「お頭はマキノさんにおじやを作ってもらって食べてくれ。食べたらマキノさんの買い物を手伝って、ルフィと遊ぶ!俺は初めに約束していたとおり、エースと行く。ルフィ、すまないな。明日はお前と遊ぶから、今日はお頭で我慢してくれ。マキノさん、面倒だろうが卵おじやをお頭にお願いする」
一気にそう言ってのけ、目をぱちぱちとしばたかせているエースの手を取って店外へと出て行った。
「ふ…副船長」
「どうした」
「いいの?」
「……お前が気にすることじゃないさ。それに、」
ようやく立ち止まってエースを省み、陽を背に受けながら微笑む。
「一番最初にした約束は守らないとな?」
「………」
目を眇めたのは太陽が眩しかったからだ。副船長が超カッコイイと思ったからではない、と思いたかった。
そうしてまたベンに手を引かれながら、いつか俺も必ずこんな風にカッコイイ男になってやるんだ、と決意を新たにしたエースだった。
余談ながらその夜、ベンはいつもの倍ほどの運動を強いられたという。