「…うわっ、やば…! 遅れるっ」
壁にかけたスチールの時計が指す時間を見て、支度する速度を二倍に速める。とっくに着ていたチャコールグレイのダッフルのポケットに、きちんとアイロンの掛けられたハンカチとティッシュを探し出して突っ込み、タイトストレートのブルージーンズの後ろポケットに財布と携帯電話をそれぞれねじ込んで、長めの真っ黒いカシミアのマフラーをぐるぐる巻きにしたら、履き古してずいぶんくたびれたスニーカーを履く。
大きな靴箱の横に置いた両手サイズの籐籠の中から、シンプルなデザインのスウォッチを選んで右の手首に巻きつけると、家には自分しかいないのに元気よく「行ってきます!」と玄関を文字通り飛び出た。勿論ドアに鍵はかけて。
店になっている二階の脇の階段を転がる勢いで駆け下りると、後は駅へ向かって全力疾走あるのみ。
ベンとの待ち合わせは「いつもの本屋で十六時」。
「…普段アイツと待ち合わせなんかしねェからなァ…」
なんて、言い訳か。
でも本当の事。
高校生だった頃はともかく、大学に入ってからは今の家で二人暮しになったので、暇な時はどこへでも二人で行くし、出かける時には二人一緒という事が多いから、こんなふうに「外で待ち合わせて会う」なんて(それも「デート」として)、数ヶ月に一度あるかどうかだ。
(…デート、なんだよな…)
走りながら、再確認してしまう。――そう、デートなのだ。
「……やっべェ…」
意識したら恥かしくなってきた。
走って熱を発散させている以上に、体が熱くなってくる。せっかくはめたダッフルのボタンを外しながら、照れのごまかしに、息が切れるのも構わず走るスピードをあげた。
大きな本屋では、人一人を探すのも一苦労だ。
階案内を横目で流し見て、ベンのいそうな売り場を探す。携帯で連絡すれば早いのだが、妙に照れくさくて出来なかった。
多分ここかなとシャンクスが見当をつけたのは五階、文庫ノベルスのフロア。前夜にベンがぽつりと「そういえばそろそろ新刊が出るか…」と呟いていたのを聞いた。それがたしか愛読している文庫本だったはず。
エレベーターを待つのももどかしく、エスカレーターを五月蝿くならない程度に駆け上がる。
ウロウロと探し回る必要もなく、探し人はすぐに見つかった。規格外に背の高い人間は、こういう時に目印になるので重宝する。とはいえ一般の感覚で言うとシャンクスも一応、長身の部類に入るのだが、シャンクスにとってはベンが基準になっているので、本人にその自覚はない。
ベンはどうやら新刊コーナーを物色しているらしい。表紙を眺めながら、時折気になる本でもあるのか手にとってみてはパラパラとページを捲り、元の場所に戻している。
着ているコートは黒のロング、マフラーはディープオレンジ。そのどちらにも見覚えがあった。足早に近付いて、コートの裾を引っ張る。
「おま…、まだ……」
ベンは引かれた袖の方を顧みると、苦笑して持っていた本を元の場所へ返した。
「…時間ギリギリだな。走ってきたんだろ。喋る前に落ち着いて、呼吸を整えろ」
「わ、わりぃ…」
ベンのコートの合わせを掴んだまま、腰を曲げて肩で息をする。大きく何度も深呼吸を繰り返して、ようやく落ち着くと、ガバッと顔を上げた。
「…このコート、まだ持ってたんだ?」
「捨てられるわけがないからな」
ベンははにかんだように微笑って、シャンクスの頭を撫でた。
着ている黒のコートは、アンゴラ百%で軽くて暖かい。ふくらはぎ丈のスタンドカラー。ディープオレンジのマフラーはカシミア百%。そのどちらも、高校時代にシャンクスがベンにプレゼントしたものだった。
ただ、マフラーはともかく、そのコートを着ているのを見るのは、長いこと一緒にいるが、初めてであるような気がした。着てくれない理由は聞かなくてもわかっていたが、やはり着ている姿を見るのは嬉しい。そのために贈った物だから。
「へへ…似合ってるよ、それ」
「ご機嫌だな」
「そりゃあね。オマエのために見立てて選んで買ったモノが、本人が着た時に似合ってるんだから、嬉しくないわけないだろ? オマエだって、オレがオマエから貰った物つけてたら嬉しいだろ?」
ほら、と右の袖を捲ると、黒を基調にした時計をベンの目の前に差し出して見せた。思わず顔が緩むベンの頬をそのまま撫でて「だろ?」ともう一度問うと、無言の肯定が返される。ちらちらと他の客が寄越す視線は、気付かなかった事にした。
その後、本を二・三冊選ぶのに付き合ってから会計を済ませて本屋を出た。
駐車場に停めていたベンの愛車である真っ赤なミニクーパーに乗り込むと、二人してコートを脱ぎ、後部座席にたたんでおいた。
はっきり言って平均身長以上の男二人が乗る車として、これほど不適当な車もない。ベンなど縦も横も規格外のため、傍から見る分には窮屈そうに見えて仕方がない。シャンクスにしてみれば、鍵が三つも必要な車など面倒なだけなのだが、どうやらベンはそのあたりを不便とも感じていないらしい。几帳面な彼のことだ、鍵を無くす心配も無いだろう。
対するシャンクス自身の愛車は二台。黒のロードスターとシルバーのパジェロだ。
ロードスターの方は学生時代に株で儲けた時に購入したものだが、パジェロは貯金で買ったらしい。パジェロを買った後、納入された車を見てベンは呆れたものだ。
「…三台あっても使わないだろう?」
「いいの! 欲しかったんだよ!」
オマエの体格に見合う車が一台くらいないとね、という本音は心の中にしまっておいた。そんなシャンクスの気遣いに気付く事もなく、相変わらずベンはミニクーパーに乗ったし、たまに二人で遠出をする時には、パジェロを使う事もあった。
ミニクーパーが走り出してお気に入りの曲が流れ出すと、シャンクスは流れる車窓を見るフリをして、窓に映るベンの横顔を盗み見る。
「で? バーサンは相変わらずだった?」
「ああ。元気だったぞ。孫のアンタが顔を見せに来ないとはどういうことだ、とか怒ってた」
「便りがないのは元気な証拠、ってね」
それはちょっと違う。と思ったが、あえてツッコミは入れなかった。
「それにバーサンに掴まると話が長くなるんだよな…お気に入りのオマエがご機嫌伺いしてれば、ダイジョーブだよ」
「……それでも、春までには顔を出すようにしておけよ」
はぁい、と神妙に小さく答えるシャンクスの頭を、彼の方は向かずに大きな手で撫でてやる。猫のように目を細めて満足げに笑う表情を見るのが好きで、頭を撫でるのはすっかりクセになってしまった。それが高じてエースやルフィの頭を撫でるのも、最早クセの一つ。
映画を観て、食事をして、ビリヤードをして、気に入りのバーで飲んでから、ようやく帰宅する。時計の針は、今日が終わり、明日になったことを告げていた。
些細なデートではあったが、シャンクスは充分に満足していた。帰りに助手席からチラリとハンドルを握る男を見たが、静かに微笑む男を見てコイツも満足したみたいだ、とほろ酔い気分も手伝って嬉しくなった。
二人きりの家に戻ると、手を洗ってから部屋に戻り、コートを脱ぎかけたベンの背に、シャンクスが抱きついた。「おい?」と脱ぎかけた姿勢のままシャンクスを振り返るが、シャンクスの方に離れるつもりは無いらしい。
「どうした?」
逆手で頭を撫でられるのに、シャンクスは目を細めた。
「…このコート、まだ捨ててなかったんだなって思ってさ。嬉しい」
「…本屋でも言ってたな」
「うん、そうなんだけど。…あげてから二年くらい、着てなかっただろ?」
「………」
苦笑するベンを振り返らせ、首に両腕を回し、引き寄せてキスをする。すぐに離れる唇を追いかけるように、ベンがキスを返す。見つめてくる濃紫紺の瞳を深海色が見返して、吐息のかかる距離で首を傾げた。
「もう、ふっきった?」
「……全部じゃないけどな」
若かったと言ってしまえばそうなるが、もう少し考えていれば…と当時の自分に思うのは、今の自分に余裕が出来たせいだろう。その余裕はシャンクスが与えてくれたものだ。あの日を思い出すと今でも胸が痛むが、あの日があるからこそ今の自分達がある。
「不器用なのは幼稚園児の頃からだもんなァ?」
笑うシャンクスの頬にキスを落としながら、コートを脱ぐ。唇を離すとすぐにコートをハンガーにかけ、シャンクスのコートと一緒にクロゼットにしまう。振り返ると、今度は口付けられた。
「…風呂に入るんじゃあなかったのか?」
色が篭りつつあるキスの合間に問うと、シャンクスは少しだけ考える素振りを見せてからニコリと笑い「一緒に入るか?」と聞き返してくる。苦笑をしながら「髪と背中くらいなら洗ってやる」と答えると、じゃあ行こうと腕をとられてバスルームへ向かった。
二人の家のバスルームは広い。何度か泊まったことがあるエースに言わせるなら「無駄に広い」。
ベンが規格外の図体だというのも関係があるが、ビルの設計段階で「風呂とトイレとリビングは広い方がいい」とシャンクスが主張したのが理由だ。なんでも「風呂とトイレは広くないと入った気がしない」のが理由らしいが、狭い風呂とトイレに慣れないだけだろう、とは一人暮らしで狭い風呂とトイレに慣れているベンの推測だ。
脱ぎ散らかしながらバスルームに入ったシャンクスの後から、溜息をついて続けて入る。湯になりきらない水をかけてくるシャンクスに、
「子供みたいなことをするな」
風邪を引くだろう、と笑いながらシャワーノズルを奪い取る。湯量の半分は、浴槽を満たすのに使われているので、湯に勢いはなかった。
すっかり湯になった頃合を見計らって、赤い頭にシャワーをかけてやる。充分に濡らすとバスチェアに座らせ、シャンプーを手に取って泡立てると、背中側から頭皮をマッサージするように洗ってやる。
「う―――…気持ちイイ…」
頭洗ってもらうの好きなんだよね、と上機嫌で落ちてくる泡を掌に乗せ、ふっと吹いて遊ぶ。
「どこか痒い所は?」
「ん――…耳の後ろ」
「了解」
がしがしと洗い、シャワーで一気に流す。まるで犬か猫を洗っているみたいだ。満足そうに目を細めている様を見て、シャンクスに気付かれないように笑った。浴槽に入れていた湯をすっかりシャワーに切り替え、手早く自分の体と頭を洗うと、大人しく待っていたシャンクスの体も洗ってやる。
「やっぱ、洗ってもらうのはイイなァ…」
今度おまえも洗ってやるから、と殊勝なことを言ってくるのに曖昧な笑顔で返し、背中側から足を抱えて膝の裏をタオルで擦って洗ってやった。くすぐったいと笑うのを、我慢しろと頭を撫でて宥める。どうせ一人で風呂に入っている時にはきっちり体を洗ったりしていないはずなのだ。せっかくだからこの際、徹底的に洗ってやろう。
体の隅々(足の指の間まで)をベンが洗うのを、シャンクスはくすぐったそうな顔をしながらそれでも大人しく洗われていた。相当機嫌はいいらしい。
すっかり洗い終え、シャワーで体を流してやると、向かい合わせに浴槽につかる。浴槽から湯が溢れ、床を一流しした。その時ベンが顔を顰めたのは恐らく、流れ出る湯が勿体無いと思ったのだろう。そんなこまかいこと気にしなくていいのに、とシャンクスは思うが、一人暮らしの時に身に付いた倹約精神が、そうそう容易く変化するものではないとわかっているので、黙って手を伸ばして機嫌をとるようにベンの頬を撫でた。その手を取り、掌から手首へと口付けると、シャンクスは「くすぐったい」と、反対の手を伸ばしてベンの頬をつねろうとした。笑いながらベンはその手も取り、引き寄せて自分へ抱きつかせた。
互いの鼓動が、裸の皮膚を伝って鼓膜へと響く。それは何よりも落ち着く音。
「…どうした?」
甘えるなんて珍しい。濡れ髪を優しく梳いたが、答えは返ってこない。代わりに胸元に歯を立てて吸い付き、追及される前にシャンクスの体を抱えて湯船からあがった。
バスローブをシャンクスに羽織らせると自分も羽織り、髪を乾かしてから自室へと戻る。途中キッチンへ寄り道して冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを持ってきた。飲むとシャンクスがローブの袖を引っ張って催促するので、口移しで飲ませてやる。そのまま深いキスへ移行し、腰を抱いたままシャンクスを抱えるようにベッドへと運ぶ。
熱が冷めるのを防ぐように首筋や鎖骨、胸に口付けるベンの短い黒髪を、シャンクスは優しく撫でた。
「なァ」
「ん?」
「聞いていいか?」
「何を?」
「コート……」
何故、今日になって袖を通したのか。
言いたくなければ言わなくていいよ、と覆い被さってくるベンの頭を引き寄せ、額に口付けて抱きしめる。ベンの方もシャンクスを強く抱きしめ、肩口にキスした。
わずかの沈黙の後、ベンはシャンクスの頭を撫でる。
「五年経って……あんたがまだ俺の隣で笑ってたら、着ようって、決めてたんだ」
「……なんで五年?」
「キリがいいから」
「なんだそりゃ」
「あんたが気にしなくても、俺が気にするってことさ」
「……ったく、ほんっとに厄介な性格してるよ、おまえ」
今が楽しいんだから問題ねェだろ、と肉の薄い頬を慈しむように目を細めて撫でる。
「ガキの頃から基本はほんっとに変わってねェなァ」
「幼稚園児と一緒にするな」
「一緒だよ。もっとオレに甘えていいよ? ベック」
誘うようにほとんど吐息で囁いて顔を引き寄せ、口付ける。ベンは口の中で「参ったな」と呟き、角度を変えて口付けを深いものにする。
素の肌を、大きな手が腹筋から胸を撫で上げ、親指で緩く突起の周りをなぞる。肌の内側を粟立つ感覚が走りぬけ、シャンクスは口付けの合間に吐息を震わせる。ベンの肩に置いた手に、力がこもった。
いつでも、救われるのは自分だ。
いつもシャンクスの言葉の暖かさに救われている。彼の懐に癒される。
自分の方こそ、彼を包みたいのに。
「ベン、お前は充分あの馬鹿孫の支えになってるよ。ああ見えて案外、寂しがりやだからね」
まぁ要するに甘ったれなんだけどねと言って、シャンクスの祖母――くれはが別れ際にベンの肩を叩いた。
少しでも、自分が彼に与えられるものがあるといい。
こうして肌を重ねる行為も、彼にとって何某かの意味を成していればいいのだけれど。
五年目のアニバーサリーは、緩やかに過ぎていった。