歩こう、一緒に

 振り返る。
 下村はいつもの、「どうしたんだよ」と言いたげな、かすかな微笑みを浮かべている。
 言葉は、無い。
 けれどそれを見ると坂井は安心する。
 目を離すと、下村はすぐにいなくなってしまいそうだ。手を離すとどこかに飛んでいってしまう風船のようだと思う。
 
 
 
 
「それなら後ろを歩けばいいのに」
 口は悪いが腕の良い外科医が、酔っ払った顔で笑う。坂井は彼に見えない角度で溜息を吐いた。
「……あいつ、歩くの遅いんですよ」
 東京者はせっかちで歩くのが早いと思っていたが、あれなら雪に埋もれながら歩く子供の方が、まだ早い。
 坂井の言葉に、桜内は喉の奥で笑い、目を細める。情景がたやすく想像できたに違いない。
「だったら、一緒に歩けばいいだろう」
 
 手を繋いで。
 
「そうすれば、離さない限りそこにいるってわかるだろ」
「……時々、可愛い事を言いますね、ドク」
「可愛いとは失礼な。あいつを子供扱いしてるおまえにいわれたくないな」
「子供扱い……」
「目を離すのが不安だ、なんて、小さい子供の親だろう。秋山だって言わないぞ。……きっと」
 ̄最後の付け足しは、秋山が娘を溺愛していることを思い出したからだろう。坂井は小さく笑った。
「秋山さんより酷いですか」
「相手が三十間近の野郎だからな」
 わからなくもないが、と呟く桜内の言葉は、坂井が黙って取り替えたグラスに沈んだ。
 
 
 
 
 自分でもどうかと思う。たしかに下村はもうじき三十の成人男性で、仕事も喧嘩もできる男だ。
 客観的に、たとえば仕事中の下村しか知らないような人間には、坂井の正体の知れない不安などわかるはずもない。だが桜内のように、プライベートを知っている人間には、何となくでもわかってもらえる。
 目を離すと、どこかへ行ってしまうのではないか。
 ブラディ・ドールが、下村にとって止まり木に――いや鎖になっていればいいと思う。あるいは、川中の存在が。
 最初はそうだと思っていた。だが――それでも、それは弱い。下村を繋ぎ留めておくには、あまりに脆弱に思える。
 多分、下村は。
 彼がそうすると決めた時には、誰が止めるのも聞かずに、簡単に行ってしまうに違いない。――あちら側に。
 坂井はそれが許せない。
 どこへも行かず、傍にいて欲しいと思っている。
(――つまり俺は、)
 駄々っ子と変わりが無いのだ。「アレが欲しい」と泣き喚き、暴れる子供と大差がない。
 大人だから、そんないかにも子供じみた真似を実際にはしないだけで――本当は子供より性質が悪い。いつでも傍に居たくて、居て欲しくて、休日は用があってもなくても家に押しかける事が多い。
 初めこそ嫌な顔をされたが、今ではどうでもいいような、興味がないような顔で坂井が部屋に居座るのを許してくれている。用がないのにやってくる事をどうでもいいと思っているのか、坂井自体に興味が無いのか。
 前者はともかく、後者だとしたら――下村の口から聞いたら、しばらくは立ち直れないだろう。
 手を、繋いだら。
 そんな不安も、少しは消えるだろうか。
 
 
 
 
 振り返る。
 下村の顔は月明かりに照らされ、酒を飲んで赤らんでいるはずの頬すら青白い。ほんのり涼しさを孕んだ夜風が、シャツの裾に絡んで逃げ去る。
 振り返ったがしかし、下村は海を見ている。いつか、左手を切り落とした後と同じように、何度も岸壁を行ったり来たりしながら、切り落とした手が沈む海を眺めている。傍にある病院には見向きもしない。
 足を踏み外すのではないかと坂井が見守っていると、ふと視線が合った。
「……何、見てんだ?」
「…………別に」
 素っ気なく返すと、下村はそれ以上の追及はしてこない。それを寂しく思うのはただの我が儘だと自分に言い聞かせると、坂井は下村の姿を眺める。
 酔いに任せて岸壁を歩む足取りは、どこか危うい。気になって仕方がない。
「……あんまり端を歩くなよ。落ちるぞ」
「落ちねぇよ」
 この酔っ払いめ。舌打ちしても、きっと下村には届かない。深い所にある、そう小さく吐き捨てた理由までは、きっとこの男には届かない。
 溜息を紫煙で誤魔化した。
「…………落ちても知らねえぞ」
「そんなヘボするか」
 くるりと振り返った顔が笑う。月の蒼い光に照らされて、顔色は失せているようにしか見えないが、実際は酒精のおかげで赤らんでいるはずだ。
 その笑みを罵倒してやりたいと思う。
 できるわけがないと、坂井自身がよく知っていた。
「じゃあさ」
 下村は坂井の内心の思いなど知るはずもないが、気付けば傍に立っている。
 手が触れた。下村が掴んだのだ。躊躇うことなく指を指に絡める。
「こうしてれば、落ちないだろ」
 満足そうに言うと、また岸壁の端を歩く。
 坂井は呆然と、繋がれるがままに連れられて歩く。何をしているんだ、大の大人が。いや、酔っ払いだから言っても無駄なのか、誰もいないか確認したのか――思いはしても舌は凍り付いたまま、言葉を模ることはない。
 下村が、隣を。しかも酔っ払っているとはいえ自ら、手を、繋いで。
 今が夜中で良かったとしみじみ思う。そうでなければ酒精の効果以上に火照った頬の理由を、下村に問われていたかもしれないからだ。
 下村は珍しく、鼻歌など歌っている。こんな機嫌が良さそうな様子は、滅多に見られるものではない。無用心な言葉で、それを崩したくはなかった。
 機嫌の良い男の隣を歩きながら、坂井はひたすら願う。

 できることならこのままずっと、このままずっと。