やわらかな温度

 フローリングの床は、素足にはひどく冷たい。
 ひたひたと歩き、マグカップを持ったまま窓辺へ寄る。小さく吐いた息が白く見えたのは、気のせいではないだろう。
 素肌の上に、下着の他はネル地のパジャマを着ただけだ。冷気は体のあちこちを撫でるが、決して不快なものではない。
 お湯で溶かしただけのポタージュスープをすすりながら、カーテンをめくる。
「………………雪か……」
 随分冷えると思ったら。
 この街に雪は滅多に降らないと、昨日坂井が言っていたことを思い出す。温暖な気候だから、冬でも暖かいのだと言っていた。そのため、N市はそうでもないが、近くの温泉があるような土地は避寒地になっているのだと。だが――滅多にないことが起こったらしい。
 生まれ故郷の長野のように、脚が埋もれてしまうほど積もっているわけではない。たかだか数センチ、というところだろう。それでも雪の白は、家々の屋根や車に覆い被さっている。
 ベランダの手すりにも積もっているのを発見すると、下村はマグカップを床に置き、鍵を開けて素足のままベランダに出た。ひんやりを通り越して痛いほどに冷たいコンクリートの床すら気にせず両足で立つ。手を伸ばして、手すりに積もった雪を集め、左手に載せた。
 左手は、今は木製の義手を嵌めている。神経が通っていない手では、雪の冷たさを感じることはない。体温がないだけ、雪の解ける速度が遅い。雪が解けてできた水が、少しずつ出来物の掌の上に溜まっていく。
 雪がすっかり小さな小さな水溜りになるのを見てから、部屋へ戻る。外気よりマシという程度の室温だが、ほっと吐いた息はやはり白い。
 リビングから続いた部屋に置かれたパイプベッドに視線をやる。盛り上がった布団の中には、坂井がいる。――坂井の部屋なのだから、いて当然だ。下村が坂井の部屋にいるのは、昨晩この部屋に泊まったからだ。年明け早々、川中の声がかりで行われた初日の出クルージングに二人も参加し、その後当然のようになだれ込んだ宴会の後、二人でまただらだらと飲み食いしていたからだ。
 そっと近寄り、寝顔を見下ろす。横を向いた寝顔は無防備で、起きている時より幼いようにも思える。穏やかな眠りを貪っているのだろう。
 触れたらきっと目を覚ます。外気と雪に冷やされた指先や体は、温かな眠りを妨げてしまう。そう思うと髪に触れることすら躊躇われてしまった。結果として、じっと寝顔を見下ろすだけになる。
 男の顔を好んで眺める趣味はない。ないのだが、坂井の顔だと思うと好奇心が勝る。起きている時にはまず見られない表情を見られることも、理由のひとつだ。
 どれくらいそうしていたのか。テレビの上の置時計を見ると、昼近くを指している。秋山の女房が持たせてくれた御節をつまもうかと立ち上がりかけ、再び坂井へ視線を落とす。何か言った気がしたが、目覚める気配はない。寝言だったのだろう。
 口元を小さく綻ばせると、今度こそ立ち上がった。
「……今年もよろしく」
 声になるかならないかのかすかな声で告げ、髪をひと撫ですると、ベッドからそっと離れた。
 軽く握った掌は、もう温んでいた。