微笑みに落ちる影

 しくじった、とは思わない。ただ少しばかり驚いた。その程度には不意を突かれた自覚はある。
 とはいえそのままやられてやる義理などはなく、叶は自分を傷付けた相手を綺麗に沈め、今度こそ後始末をした。
 死については運命を嘯くこともできるが、今はその時ではない。
 大儀そうに腕を動かすと、シガリロを銜えて燐寸を擦る。指はいささかも顫えない。紙巻とは違う甘さを肺に吸い込み、体を動かす。いつも乗っているのとは違う黒塗りの車へ乗り込むと、無意識に安堵の息をついた。シガリロ一本を灰にした後で車を動かす。
 傷は自分でなんとかできる範囲を越えていた。とするなら医者の世話になるしかない。表沙汰にはできない怪我の面倒を看てくれる医者ならば、幸いひとり知っている。やくざな医者だが法外な料金を吹っかけられるわけではないし友人と言っていい程度の親交もある。まして彼が開業しているN市も遠くはない。
 帰り着くまでの時間を素早く計算すると、アクセルを深く踏み込む。途中、どこかで電話を入れたほうがいいだろう。診療所にいるか、マンションにいるかはわからない。思いながら闇を縫うように車を走らせた。
 
 
 
 桜内の診療所は、昼より夜に患者が来ることが多い。表面的な開業時間は夕方までだが、それを無視するように医者を求める患者はいる。
 人目を憚るような怪我を負った患者がほとんどで、どこから聞き付けてくるのか電話もかかってくるし、出張して診療することも少なくない。そんな患者の応対すら厭わず、桜内はよく往診していた。
 その夜の患者は、電話で予約があった。電話自体も一般家庭では就寝する時刻だったが、人目を気にする連中ならそんな時間に電話がかかるのは珍しくない。彼らの電話を待つために診療所にいたわけではないが、電話を取ったのは不自然ではない。ただ、相手は珍しかった。普段は電話など寄越しもせず、診療所かマンションを直接訪問してくることが多い男だったからだ。
 診察室の椅子にだらしなく腰掛けたまま、腕時計をちらりと見る。電話で叶が予告した時刻が迫りつつあった。計算に誤りがなければ、もうじきやってくるだろう。
 刃物による腹部の裂傷。単純に切り付けられたとは言っていたが、どの程度の傷なのか。たいしたことはないと言っていたが、まさかかすり傷で連絡を寄越しはしないだろう。
 苛々と落ち着かない気を紛らわすのに、煙草を立て続けに吸った。診療所内の禁煙は医者自らがやぶっている。とはいえ煙草の煙が篭ったままにしておくと唯一の看護婦である山根がいい顔をしないので、窓は開けていた。
 電話を受けて五本目の煙草を忙しなく吸う。きついはずのニコチンが堪える気配もない。
 往診したほうがよほど気が楽だ。待つ間の時間がもどかしくて仕方ない。
 これが係わり合いにはなりたくない人種の話なら、桜内はもっと無関心になれたかもしれない。あるいは落ち着いていられただろう。しかしそれが知っている人間とあっては。
 医者ゆえの気質か桜内の元々の性質か、口や態度はは悪いが本当は面倒見がよい。相手があの男だから気にかかっているわけではないと内心で言い訳していたが、半分くらいは当たっている。その程度には親しい自覚はあった。
 何度目かわからない溜息を吐きかけた時、階段を上る足音を聞いた気がした。急ぐわけでもない、ひどく落ち着いた足音。来たか、と思うとドアが開かれた。衝立の陰から叶が姿を現す。顔色は思ったほど悪くない。
 よお、と常と変わらぬ気楽さで叶は手を上げる。
「待たせたな」
「まったくだ」
 憎まれ口を叩きながら狭い診察台へ寝かせてやると問うた。
「どっちだ?」
「右。ナイフでざっくりさ」
「珍しいじゃないか」
 叶の裏稼業における手並みの一端は、桜内も少しだけ知っている。たいていの相手ならどうというほどのことはないはずだ。この街ですでにちょっかいを出す相手がほとんどいなくなっているらしい坂井ですら、叶相手だと尻込むらしいのに。いや、相手が叶と同程度の人間なら、完全に五分なのだろうか。世の中にどれほどの殺しのプロがいるのかは知らないが、真っ向勝負で叶とやり合えるような相手は――身贔屓とも思うが――あまりいないのではないか。だが何かの試合ではないのだから真っ正面からやり合うことは考えられず、そこにある生死を分けるのは畢竟、運でしかなくなるのか。
 だとするなら、今日はまだツキに見放されなかったのだろう。叶は死を纏ってはいない。傷がどの程度のものであろうと、この男は生きるだろう。
 薄いコートを脱がせるとメスで遠慮なく脇腹のあたりを裂いていく。服は大きな赤黒い染みが背中や腹のほうまで広がり、ズボンの腿のあたりまで濡らしていた。出血は多かったらしい。よくこれで貧血も起こさなかったものだ。桜内はわずかに眉を顰めた。叶はそれに気付かぬ様子で笑う。
「たまにはそういうこともあるさ」
 腰骨に当たったせいか、傷は見た目ほど酷いものではない。
 死ぬはずがないとわかっていながらも無意識にほっと息をつくと、手を休めず傷口を縫っていく。内臓まで傷が達した様子はないから、これで充分だろう。あとは止血をして輸血しなければならないが、それはこの小さな診療所の施設でも充分間に合った。
 輸血と並行して傷口を縫いつけている間、叶はわずかに眉間に皺を寄せただけの表情を崩さなかった。傷に関心があるそぶりも見せない。
 縫い付けた痕に止血剤と化膿止めをふりかけ、ガーゼを当てて固定する。包帯は大仰だから要らないと言うが、テープで留めただけのガーゼでは心許なかった。
「腹になるべく力を入れないようにしろよ。同じ傷を二度も縫うのは、俺は好かん」
「なるべくあんたの意向に沿いたいがね。難しいな」
 起き上がるにも腹筋は使うし、日常の細々とした動きにも腹筋や横腹は使うだろう。桜内とてそんなことがわかっていないわけではない。起き上がる時には手を突けばいいし意識的に気を付けていれば問題ない。一番いいのは横になったまま動かないでいることだが、そこまで強制しようとは思わなかったしできるはずもない。
 諦観の篭った溜息と一緒に憎まれ口も吐いてやった。
「縫った痕が裂けると汚いんだ。縫い直すのも苦労する」
「気を付けるよ」
 口元で笑うと、コートから細葉巻を取り出す。今更喫煙を咎めるのも馬鹿馬鹿しく、桜内は自分も紙巻を銜えると灰皿を叶の横に置いた。
 仕事を終えたばかりの叶と会う機会は、あまりない。もっとも本人が「仕事が終わった」と宣言してやってくるはずもなく、そのあたりは桜内の勘だ。おそらく叶は意図して仕事明けすぐには誰とも会わない。どういう理由なのか興味がないわけでもないが、おいそれと足を踏み入れていい領域なのかどうかもわからないので結局尋ねてみたことはなかった。
 金魚を眺めているよと、いつか飲んだ時に聞いた気もする。それが本当ならずいぶんシュールな光景だなと苦笑したことはあった。叶はただ静かに口元に薄らと微笑を浮かべていたように思う。酔った時の記憶なので定かではないが。
 ただ、そうして他人を遠ざけている時のこの男はどういう表情をして、何を思っているのか。興味はあった。その何某かを探ろうと叶を窺うが、無表情にシガリロを吹かしている姿からは想像しにくい。無機質で冷ややかな白色灯は、感情すらも殺ぎ落として照らすのだろうか。そんな馬鹿な考えまで頭を過ぎった。
 殺し屋を道具だと言い切るくらいだから、ある程度には割り切っているのだろう。しかし産まれた時から殺し屋になると決まっていたはずはなく、どこかで道を外したにしてもそこに至るまでは危険とは縁のない人生を歩んでいたのではないか。心の中で問い掛けても、伏せられた睫毛が落とす影は何も教えてはくれない。
「……俺の顔に何か付いているか?」
 叶の声にはっと我にかえる。窺っていただけのつもりが、思考に没頭するあまり凝視していたらしい。俯いた表情は窺いづらいが、唇は相変わらず笑みを象っていた。
「……別に、深い意味は……」
 うまい言い訳も見付からずもごもごと口の中で呟くが、叶がそれを気にしている様子はない。それにいっそうばつが悪くなった。
 頭を掻きながら、すっかり灰ばかりになった煙草を灰皿に捨てようと体を前に乗り出す。灰皿に煙草を押し付けたところで、腕を掴まれた。力は篭っておらず、振り払おうと思えばたやすくできるその手と叶を交互に見遣ると、桜内はひそかに首を傾げた。
「叶?」
「あんたのところで寝てもいいか?」
「は?」
 両方の眉が跳ね上がる。その表情を何と受け取ったのか、叶は穏やかに微笑んで見せた。
「何もしない。動かしたら傷が裂けるんだろう? スプラッタやホラーは趣味じゃない。眠るだけさ」
 口調の軽さを、眼差しの真剣さが裏切っている。思わず息を飲んだ。二十歳どころか三十路を越えた大の男がふたり、枕を並べて眠るとはどういうことか。どのような意味で言ったのか。頭はそれを考えるのに目まぐるしく働いていたが、回路に異常を生じたように咀嚼できない。
 その反応をどう理解したのか、叶は掴んでいた手を放すと微苦笑する。わずかばかり自嘲が混じっていたのは、咄嗟に返事をしそこねた罪悪感がそう見せただけだろうか。
 どうしてこの男は。
 思わず離れた手を掴み返したのは、常では見られぬ叶の表情が胸に刺さったからだ。
 桜内は内心で舌打ちした。意図がどうあれ、そんな様を見せられておいそれと放っておけるほど冷淡でも豪胆でもない。計算ずくかもしれなかったが、もうどうでも良かった。
 ――まったく、相手を見てやがる。
「ドク……?」
 戸惑った表情の叶と目が合う。息を吸い込んで腹に力を入れた。
「……一泊くらい許してやる」
 起きた時に傷が裂けられても面倒だし、と言い訳がましく付け加えると立ち上がった。同じタイミングで腕を引かれ、危うく倒れ込みかけるのをなんとか堪える。
「叶っ」
 腹のあたりに額を擦り付けるようにして、両腕を腰に回してくる。解くのは用意だったに違いないが、雰囲気がそれを許さない。叶は無言のまま、縋るように白衣を掴んでいた。
 桜内の両手は行き場もなく泳いでいたが、結局は叶の背に回してやり、躊躇いがちにではあったが頭を撫でてやった。この男に、こんな子供にするような応対はなんとも似合わない。普段なら苦笑のひとつ、揶揄のひとつでも寄越されるところが、お喋りなこの男らしくもなくまったくの無言だ。居心地の悪さを感じるのもそのせいに違いない。
 まったく調子が狂う。

 しかし嫌だとも思わないあたり、桜内も叶にあてられてどうかしていたのだろう。――とは、後で思ったことだった。