坂井の部屋に上がり込むと、下村は必ず一度は深呼吸をする。抱きしめられている時にも、していた。
鼻先を坂井の胸元に埋めると、坂井の匂いがする。日向と男っぽい匂いと煙草の香りが混ざった体臭は、下村をひどく安心させてくれる。そうして落ち着くと緩く抱きしめ返すのが常だった。
「おまえって、こういう時は大人しいよな」
抱きしめられているので、坂井の声に笑いが含まれているのがわかる。下村は瞬きで睫毛を坂井のシャツに擦らせた。
「……普段はそうじゃねえとでも言いたそうだな」
「だって、そうだろ――ああ、寝てる時は大人しいけど」
「…………」
意趣返しに噛み付いてやろうかとも思ったが、止めておいた。せっかく味わっているこの匂いに免じて、許してやることにする。
「なんだ、ほんとに大人しいな」
寝てるのかと聞かれたが、失礼な話だ。人が大人しくしている時は眠っている時くらいとしか思っていないのか。
「……って、気持ち良いんだよ……」
温かいし落ち着く。これ以上の場所はなかなか見付けられるものではない。
「おまえなあ……」
溜息と苦笑がないまぜになった言葉を吐くと、坂井は下村を抱きしめる腕の力を強めた。
「無意識も大概にして欲しいよな……」
「何の話だ?」
「なんで俺はこんなのがいいのかって話」
「……だったら離れてやろうか」
「それはダメ」
体を離しかけた下村を、坂井は腰に回した腕に力を入れて引き寄せた。
「……けなしたくせに」
「馬鹿だな、それでも一緒にいたいってことだろ」
笑顔で言うと、こめかみにひとつ、口付けを落としてくれた。