凍えた指の求める先

 また、冬が近付いていた。
 空は鈍色にどんよりと重く、今にも銀糸と紛う雨を降らせそうな天候である。風はすっかり冬の色をまとい、潮の香りを含んで吹き付けていた。
 海辺をゆっくり、風やいちいち足を取ろうとする砂を気にしない様子で、下村は歩いていた。少し前には坂井がやや背を丸めて歩いている。珍しくコートを着ているその裾が風を孕んではためくのを、下村は珍しいものでも見るように眺めていた。
 下村がN市に腰を落ち着けて、じきに一年が経つ。それが長いのか短いのか――。義手にも慣れてしまったから、短くはないのだろう。
 益体もないことを考えていると、こちらを振り返らないまま坂井が言った。
「雨、降りそうだな」
「……降るかもな」
 互いに怪我の多い体は湿度の変化に応じて疼き、雨が降る時には報せてくれる。便利といえば便利だが、不快に変わりはない。
 下村はそっと左手首を撫でた。そこから先は人工の手が取り付けられている。フロアマネージャーが片手では不穏だと、川中がくれたものだ。木製とブロンズのうち、今日はブロンズをつけている。この手の扱いにも慣れたもので、喧嘩においてはその威力を充分発揮できるほどになっている。
 坂井が煙草に火を点けた。煙はすぐ後ろの下村のほうへ流れてくる。また無言で、しかし突っ立ったまま、二人は浜辺にいた。
 坂井はきっと怒っているのだろう。本人に直接聞いて確かめたわけではないが、下村はほとんど確信していた。だが何に対して怒っているのかとなると、お手上げだ。
 坂井はいつも多くのことを考え、思っている。下村も考えるし思うことはあるが、自分が割合薄情な性質であることを自覚しているので、坂井のほうがもっと多く深く物事を捉えていることはわかっていた。ふたりの関係にしても同様である。
 坂井が何を考え、思っているのか。興味がないわけではない。むしろ興味がある。
 ふたりで過ごす時間が増え、体の関係を持つようになり、自分とは違うことを考えている人間の傍にいることは不愉快ではないし、いつか叶と過ごしっていた時にも近い安息を感じることもしばしばだ。その理由にも興味はあった。
 そうして安らぐたび、坂井は自分などの傍にいていいのかと自問する。
 彼にはもっと、他の場所が似合うのではないか。坂井の好きなようにすればいいと思っているが「おまえの傍に居たいんだ」と言われてしまうと、下村は途端に落ち着かなくなる。それでも押し切られてしまうと、自分に気を遣わないようにして欲しくてそう振る舞うのが精一杯だが、その意味がどうにも通じないことのほうが多かった。
 迷ったが、結局声をかけることにした。膠着していても気持ち悪いだけだ。
「坂井」
「なんだ」
「何、怒ってんだ」
 坂井はちょっと肩を竦め、紫煙を吐いた。
「別に」
「気になるだろう」
「なんで。気にしなけりゃいいだろ。おまえ、得意だろうが」
「おまえなあ」
 いくら下村とはいえ、一緒にいて気にしないほうがどうかしている。坂井の言いようはやはり、怒っている時のそれだ。
「俺のことで怒ってるのを気にするなってほうが無理な話だろ。何に怒ってるんだ?」
 坂井は短くなった煙草を指で弾き、靴底で申し訳程度に踏みつける。こちらを見ない。
「おまえに言っても仕方がない」
 そんなに怒らせることをしただろうか。下村はそれ以上は何も言えず、黙って潰れた煙草を見つめた。心当たりはないが、坂井がこんな風に怒るのは珍しかった。どう対処していいかわからず、下村はまた指先で手首をなぞる。まったく、人の心に疎いと誰かに訊きたくもなる。だが適当な人物に心当たりがない。
 叶に聞けば、わかるだろうか。
 下村は、今はいないお喋りな殺し屋の顔を記憶の箱から引っ張り出した。顔はもうぼんやりとしか思い出せないが、不思議と彼の声や手、体の暖かさは思い出せる。そんなに親しかったわけでもないのに、下村にしては珍しいことだった。この街へ追いかけてきた女のことは、もう笑った時の白い歯や長かった頃の髪もおぼろげにも思い出せないというのに。
 他人の人生に幕を降ろすのが商売だった男。鋭い洞察を時に披露してくれた彼は、下村に様々なものをもたらしてくれた。それには今も感謝しているし、下村の中の特別な位置に、今も在る。
 体温の熱さ、心地好さ。穏やかな低い声と大きな手が頭や体を撫でてくれる感触。今でも時折、夢に見るほどには良いものだった。特に、引き金を引くというあの手に撫でられるのは気に入っていた。いい年をしてとも思うが、そんなことはあの頃は思わなかったし、叶にも言われたことがない。
 叶との関係は坂井には知られてしまったが、あの手のことは言ったことがない。
 秘密にしておきたかったわけではない。ただ、たまたま坂井にも同じようにされて、その手のことも好きになってしまったから、言えなくなったのだ。比べているつもりはないが、似たようなものかとも思うから、言わずにおこうと心に決めた。
 また風が、坂井の吸っているタールのきつい煙草の臭いが下村のほうへ運んでくる。シガリロの独特の甘さも好きだったが、この匂いも悪くない。口元へ紙巻を運ぶ、その仕草を眺めた。
 手。
 あれから伝わるものも、あると思う。
 叶から多くのものを伝えられたから。
 下村は何も考えず、坂井の左腕を引いた。
「――何?」
 唐突のことに驚いているらしいが、それには答えずコートのポケットから手を引き出すと、躊躇わず指を絡めた。
「下村?」
 戸惑う坂井に、答えは伝わるだろうか。
 ――伝わるといいのに。
 口には出さず、代わりのようにぎゅっと握る。コートの中にずっと入れられていた掌は、下村よりもずいぶん暖かい。体温を奪うのは悪いと思ったが、伝えたいことが伝わるまではこのままでいたいと思う。幸い坂井は下村の手を振り払いもせず、そのままでいてくれる。
 手。
 突然、下村は理解した。
 今でもあの手を、あの男を特別に思っている理由。
 だから叶ならいいかと思ったのか。
 誘うような真似をしたのか。
 あの部屋が、ぬくもりが心地好かったのか。
 今でも覚えているのか――。
 ゆっくり息を吸い込み、同じようにゆっくり吐き出す。
 告げられたら良かった。
 そう思うのは後悔だろうか。
 しかしあの聡い男のことだ。一緒にいた頃からあの手を特別に思っていたことなど見通していただろうし、今気付いたこの気持ちすら本人より先に見抜いていたかもしれない。何も言わず、ただあたたかさをくれたのは、優しかったからだろう。
 坂井の手を、また少し力を入れて握った。温度がぬるまったように感じるのは、体温を奪ってしまったからだろうか。
「おまえさ」坂井が口を開いた。条件反射のように下村は顔を上げ、その顔を見つめた。「寝言で言ってたんだよ、叶さんの名前」
 早口で告げられた発言の意味がにわかに掴めず、下村は瞬間、呆けた。やがてその言葉は先ほど坂井へ向けた質問の答えだと気付く。気付いて動揺したが、それを表情に出すことはしなかった。
「そうか」
「俺と一緒にいるのに、なんで叶さんなんだって思って。寝言だけど腹立って。――でも寝言だから、おまえわかんないだろ」
 だから黙っていたのだと、坂井は憮然としたまま教えてくれる。顔を逸らしたのは決まりが悪かったからか。
 坂井が叶に対抗心に近いものを持っているらしいとは、告白された時に気が付いた。嫉妬なのかもしれない。その嫉妬はあながち的外れではないが、対称人物が既に逝ってしまったので表に出さないようにしているらしい。ぶつけるにしても下村にしかぶつけられないのは仕方がない。身から出た錆だと早々に諦めてしまっているため、下村は甘んじてそれを受け止めるようにしていた。
 ともあれ関係ないといっていたのはそのせいなんだなと納得すると、下村は坂井の腕に体をくっつけた。理由がわかれば、謝ることもできる。
「――今は、おまえだけだから」
 許してくれないか?
「……おまえ」
 坂井は下村を振り返ったが、すぐにまた顔を逸らす。わずかに頬が紅潮していたように見えたのは、気のせいだろうか。
「どうしてそういうことをさらりと言えるんだ?」
「そういうこと? ってどういうことだよ」
 首を傾げると坂井は苛立たしげに、まだだいぶ長い煙草を踏み潰す。
「タチ悪ィよ」
「だから、どういうことだ? って訊いてるだろ。わかるように言えよ」
「知るか」
 吐き捨てるように言うなり来た道をくるりと振り返ると、坂井は大股でそちらへと戻る。手は思わず緩んだが、繋いだままだった。
 ずんずん歩いていく坂井に引っ張られるようについていきながら、下村は彼の後姿を見ていた。
 坂井がそんな態度をとる理由はさっぱりわからなかったが、もう怒っていないらしいことだけはわかった。だからもう、この件はこのままでいいのだろう。
 ――伝わったのかもしれない。
 納得して、繋いだ手を握った。
 無言で握り返してくれるのが嬉しくて、車に戻るまでずっと手を繋いでいた。