それまでも、これからも

 年末の動乱は、過ぎてしまえばあっけないことのように思える。
 動乱の最中、お喋りな殺し屋と死に蝕まれていた医者が逝った。下村が東京から追ってきた女も、医者に追従するような形で逝った。
 下村は左手首から先も、事件の最中に失くしていた。そのことで取り乱したり情緒不安定になるでもなかったのは自分自身でも驚きだった。
 ただやり切れなさが残った後、世間はそんな事件など知らぬ顔で正月を迎え、冬を越して春を迎えようとしていた。
 右手も左手も順調に快復していき、川中がくれた二種類の義手を装着できる頃にはブラディ・ドールに居ることになるだろう。客としてではなく、フロア・マネージャーとして。
 
 
 雨が早朝から降っていた。
 ベランダへ出る窓から見える景色は煙っていて、ぼやけているようでもある。雨音は窓を閉じているためほとんど聞こえないが、夕暮れ時のひんやりした空気は窓辺から忍び込み、下村の肌の熱を急速に冷ました。
 新年早々から、下村は坂井のアパートに厄介になっていた。桜内のマンションに居たままのほうが治療には何かと都合は良かったのだが、山根が戻ってくるなら野暮にはなりたくなかったのだ。新しく部屋を借りて住もうと思ったが、ひとりにさせるのは不安だと周囲の人間(特に主治医の桜内)に言われ、困ったところで坂井に「だったらうちに来いよ」と誘われ、先日までいた。
 坂井は下村の予想よりはるかに細やかにあれこれと世話を焼いてくれた。桜内の診療所にも文句を言わず送り迎えをしてくれる。体や頭を洗うのや爪を切るのは診療所に行った時、山根がまとめて「別料金よ」と言いながらやってくれたが、それ以外で下村にはどうにもできないことにはたいてい手を貸してくれる。そんなところまで天使にならなくて良いと思うのだが、一ヶ月ほど経った頃には慣れてしまった。
 他人の人生の幕を降ろすのが商売だったというお喋りな男が生きていれば、おそらくあの男の世話になったのだろうと下村は思う。
 あの男、叶の部屋には何度か行ったことがある。広いが物が少ない部屋。その部屋で何度か、あの男と寝た。とはいえ叶と寝たから叶の世話になるだろうと思ったわけではない。寝ようと思った理由そのものによって、そう思ったのだ。
 理由は幾つかある。
 最たる理由は、殺し屋と金魚がいたあの部屋の居心地が良かったということだ。東京やホテル、桜内の部屋より、物騒な男の住まうあの部屋のほうが良かった。無心で落ち着けた。
 坂井の部屋に一人でいた時にその事実に気付き愕然とし、また衝撃を受けた。しかし衝撃を受けた理由がわからず、更に困惑した。
 自分自身に納得がいかず何度も自問自答を繰り返したが、結局わからないまま諦めて、このことは考えないようにした。
 一人の部屋にはスーツケースが二つとボストンバッグがひとつ。それが今の下村の全財産で、家具はといえば、今はベッドと寝具だけだ。冷える時期には坂井の部屋ですごしたため、暖房器具すら買っていない。必要になった時に買えばいい。それだけのことだ。
 ――金魚でも飼おうか。
 赤や白、黒の尾びれや背びれがひらひらと狭い海を泳ぐ。あのあまりにも小さな海をこの部屋に置けば、少しはましになるだろうか。
 バカなことを考えている。それより今は――せめて、数十分前に帰っていった坂井のことを考えるべきだろう。
 
 
 
 
「おまえ、もう少し何とかしろよ」
 部屋に入って開口一番に坂井はそうのたまった。たしか前回来た時も同じことを言っていたなと下村は思う。「いいだろ、別に」
「俺は困らねぇんだから」気にするなら来るなと言わんばかりの言葉に、坂井は苦笑した。
「そりゃおまえの家だから、おまえの好きなようにすればいいけど。――せめて冷蔵庫とレンジくらい買えよ。もうじきナマモノもすぐ腐るようになっちまうぞ」
 ビールも冷やせないしと言うが、むしろそちらが本命ではないか。今度は下村が苦笑する。
「考えとく。そこまで考えてなかった」
「考えとけよ」
 互いに床へ座り込む。カーテンを取り付けていない窓からは容易く冷気が侵入する。カーテンも買わないとなと呟く坂井に口先だけで同意を示しながら、窓の外へ目をやった。昼過ぎだというのに気温はちっとも上がっていないようだ。裸足の爪先は白っぽくなっていたが、下村は寒いとも思わない。以前は感じていたことは、今では気にならないし、しない。左手と共にそういったものも落ちてしまったのだろうか。
 
「以前と違うことがあると思ったら、何でも左手と一緒に落としたことにすればいい」
 ほんの一時、左手を切り落とした下村を夜中に叩き起こしてまで見舞ってくれた叶は、簡単なことだろうと言い切ってくれた。
「なるほど。いい手ですね」
「時にはそれで巧くいかない時もあるだろうけどな」
「そういう時はどうすればいいんですか」
「切り落としたと思い込んでるだけで、まだ残ってるのさ。ちゃんと落とし前つけてやれよ」
「落とし前?」
「納得してやればいいんだ。落ちてない理由を考えろ」
 なるほどと頷いた頭を、あの手は優しく撫でてくれた。
 
 付き合いのあった期間は短いのに、不思議と心に残っている。初めてまともに顔を合わせた時に向けられたぞっとする目。家に招き入れてくれた時の穏やかな表情と眼差し。思ったより暖かかった大きな手。傷だらけの体。――低い、声。
 今でも覚えている。
「……下村?」
「――ん?」
 坂井の声に、追憶から現実へ引き戻される。苦笑していた。
「ほんっとに、しょっちゅうぼんやりしてるな。こっちに来た頃と大違いだ」
 もっとも、何を考えているのかわからないのは今でも同じ。
 揶揄されていささか気分を害したのは、大人気なかっただろうか。
「今のはぼんやりしてたんじゃねえよ」
「じゃあ何だ?」
「考え事してたんだ」
「そうか? どう見てもぼんやりにしか見えなかったぞ。何考えてたんだよ」
「別に。――叶さんのこと」
「叶さん?」
 坂井の表情が怪訝へと変わる。
「そういえばおまえがリンチにあった時も、叶さんはおまえを救おうとしたんだっけ」
「坂井と社長もだろ」
 坂井は営業中の店を飛び出して、叶とともに玉井をつけ回し、最終的には下村を助けてくれた。あのとき持ち上げられた感覚は、今でも薄ら覚えている。
「俺と社長におまえの居所を教えてくれたのは叶さんだよ。――仲、良かったのか?」
 問うてくる坂井は不機嫌そのものだ。問い詰められているようで居心地が悪くなる。
 下村は坂井の不機嫌の理由を知らぬまま、正直に答えた。
「仲が良いってのとは違うと思う」
「そうか? でも叶さんの家に出入りしてたんだろう」
「よく知ってるな」
「ドクが言ってたんだよ」
「ああ、なるほど」
 桜内が話したのなら納得ができる。叶とのことを話したことがあるのは、桜内だけだからだ。あの男も案外口が軽い。もっとも、誰に知られても下村自身は困らないので構わないのだが。
「何度か家には行ったし、寝たりもしたけどさ。別に仲がいいからってわけじゃないし」
「――寝た?」
 坂井の眦がぴくりと釣りあがる。表情が曇った。
「寝たって何だよ? どういうことだ? セックスしたってことか、叶さんと?」
 桜内のことだからそこまで言っただろうと思ったが、肝心なことは言わなかったのか。嫌悪されているのだろうかと下村は思った。それは真っ当な感情の流れだろう。だがそれにしては険のこもった口調だ。
 坂井についていけず、下村は戸惑った。
「そうだけど。何でおまえが怒ってるんだ」
 わけわかんねえ。
 呟きに、坂井はいよいよ表情を険しくする。言葉にはいよいよ鋭い棘が増す。
「何で叶さんと寝てたんだ?」
「……なんとなく」
 叶ならいいかと思ったのは事実だが、どうしてそう思ったのかと問われてもわかるはずがない。下村にしてみれば正直な気持ちを答えたのだが、坂井には伝わらなかったようだ。深く吐息し、低く唸って睨む視線は、肉食獣のような危険を孕んでいる。
「……なんとなくでおまえは男と寝れんのか」
「理由はどうでもいいだろ。坂井には関係ないし」
「関係ない? あるから言ってんだよ!」
 坂井が腕を伸ばしたのは殴るからだと思っていた。だから身構えようとしたのだが――実際は床に肩を押し付けられるようにして倒された。体にも乗り上げられる。
 あっけなく身動きを封じられたが、下村は抵抗しなかった。大人しく組み敷かれている下村を、坂井は苦々しい表情で見下ろしている。
「そんないい加減な奴だとは思わなかった」
「坂井、なんでそんな怒ってんだ? わけわかんねえよ。……あ、もしかして」
 思いつきを口にしたのは茶化そうとしたわけではなく、下村なりに考えた結論だったのだ。ただ、大いに的外れではあったが。
「叶さんのこと、好きだったのか?」
 だとしたら謝らなければならないような気もするし、坂井の激昂の理由も理解できる。
 しかし下村の突拍子もない的を外しまくった推論は、坂井の気を静めるどころか火に油を注いでしまったようだった。
「違う!」
「坂井?」
「何で俺が叶さんを好きってことになるんだよ?! 違うだろ! 俺が好きなのはおまえだ!」
「あ?」
「俺はおまえのことが好きなんだ……ッ」
 下村としては予想外の告白に、頭の中が真っ白になる。本当に、考えもしなかった言葉だ。
 その後はもう坂井の言うことも、しようとしていることも、止められなかった。
 
 
 
 
 事が全部終わった後、坂井は苦しそうに告白してくれた。
「ずっと、おまえのことが好きだったんだ」と。
 一緒に暮らしていた時はかなり苦しかったけどすごい嬉しかった、あれこれ世話を焼いたのは好きだったからで下心だったわけじゃない――。
 言葉は真実だったのだろうと思う。少なくとも下村には信じられた。
 しかし坂井は下村が返す言葉を捜しているうちに、逃げるように帰っていった。実際、逃げたのだろう。けれど責める気にはなれなかった。あんな表情を見てしまっては言葉も失せる。それに、居心地が良くなりかけていた坂井の部屋から逃げるように出てきた自分には、何を言う権利もないと心底思った。
 責める言葉の代わりに浮かんだのは「羨ましい」という気持ち。
 契機はどうあれ、思いを相手にぶつけられる正直さは下村にはない。あの正直さがあれば、何か変わっただろうか。叶とは、何かもっと別な形に収まっただろうか。
 ――何故そこに叶さんが出てくる?
 この街まで追いかけた女ではなく、この街で出遭った殺し屋が出てくるのだ。あの男とはただ、一時のぬくもりを分かち合った、それだけだろう。坂井が変に叶のことにこだわったからか。
 
『切り落としたと思い込んでるだけで、まだ残ってるのさ』
 
 ――ああ。
 下村は深く、深く嘆息した。義手の外れた左手首を緩く掴む。俯き、唇を噛んだ。体の奥からせり上がってくる熱く切ないものに飲まれないように、裸のままの膝を抱えた。
 裸の体を抱きしめて、胸の内とは逆に下村の体は冷えていった。
 心ほど体を温めてくれる相手は、その部屋にはもういない。
 誰もいない。
 
 坂井を傷付けてしまったことだけは、胸の奥が軋み割れるほど、後悔した。