ぬくもりの温度

 早朝の訪問を、叶は厭わなかった。それがわかった時、下村は安堵した。叶に疎まれるのは何となく嫌だったからだ。
 部屋はエアコンのおかげで暖まろうとしている。外気に冷えた体も徐々に温まりつつあった。毛並みの良いラグにじかに腰掛け、足の低いソファへもたれる。目を上げると、切り取られた水の中をひらひらと泳ぐ金魚が見えた。尾びれや背びれがふわふわと、まるで重力を感じさせない軽さで水を掻いている。端のほうで頭を逆さにしているのは、まるで逆立ちをしているようだった。
 しばらく金魚に見とれた後で、ようやく部屋の主人はどこへ行ったのかと気付く。彼は視界のどこにも見当たらないのだ。注意していると台所で何やら物音がする。水でも飲んでいるのだろう、あるいはコーヒーを淹れているのかもしれないと勝手に納得していると、両手にそれぞれトレイを携えた叶が現われた。どうやら食事の準備をしていたらしい。
「食べてないだろう?」
「いいんですか」
「いいも悪いも、作っちまったからな。どうせ俺も起きようと思ってたし。安ホテルのモーニング並しか用意できなかったが、構わないな」
 いきなり早朝から押し掛けてしまった下村に否があるはずもない。トーストに卵はスクランブルエッグ、かりかりに焼いたベーコンにマスタードを添えたボイルドソーセージ、熱いコーヒー。これで文句を言うほうがおかしい。短時間でこれだけを用意できたという事実に驚いた。
 いただきますと行儀よく手を合わせて頭を下げ、トーストにバターとマーマレードを塗ってかぶりつく。甘味控えめで苦みのあるマーマレードは、まるで叶そのものだと思った。ふわふわに焼かれたスクランブルエッグは、そこらのホテルで出されるものより数段おいしかった。中に溶けるチーズが入っているのが新鮮で、他にも隠し味があるようだった。それがまた美味い。コーヒーを飲みながら言うと、叶は「それはなにより」と優しい眼差しと微笑をくれた。
「叶さんって器用ですね」
「一人暮らしが長けりゃ、誰だってあの程度はできるだろう。誉めても何も出ないぞ」
 食器を台所へ片してしまうと、叶はソファに体を沈めた。足はちょうど下村の横にくる。
「そんなんじゃないですよ」
「そうか」
 笑いながら叶は下村の左手に触れてくる。掬うように手を取ると、何かを確かめるように指先で触れてゆく。
 叶の言葉に頷くと、ソファにもたれた。頭のすぐ横にある叶の足にもわずかに触れた。叶の手が、今度は頭に移る。殺し屋が生業だという割に、触れ方はひどく優しい。まともに初めて話しかけた時の、あのぞっとする眼差しを思い出した。それを知っているからこそ違和感はあったが、元々はこういう男なのかもしれないと思ったら、平気になった。
「眠いんだろう下村。寝て構わないぞ」
 叶の言葉は下村の虚を突いた。振り返る形で叶を見上げる。
「……何でわかるんですか」
「何でと言われても。わかるんだから仕方ないだろう。まぁ睡眠不足だろうってことは、俺じゃなくてもわかるだろうな。あんな時間に玄関にいたんだから」
 昨夜何時に下村が眠ったのかは知らないが、朝の五時過ぎに玄関先にいたのでは、ほとんど眠っていないに等しい。叶に指摘されて下村は頷いた。会社勤めの頃、つい先月まではこの時間に起きて支度をしているのが普通だった。不眠はその頃の生活時間を容易く壊してしまう。
「床では寝るなよ?」
 喉の奥で笑いながら、長い指が下村の頭を撫でる。もう片方の手はシガリロを取り出していた。下村は叶の足の膝あたりに頭をもたれさせ、目を瞑る。髪を梳り、頭皮を撫でる感触だけを感じる。心地よかった。わけもなく落ち着く。
 今こうして触れてくる叶がどういうつもりなのか、下村にはわかっていない。桜内が冗談混じりに触れてくるのとも、まったく違う触れ方。ただ心地よい。まるで自分が犬か猫にでもなったような錯覚すら覚える。厭ではない。
「……放っておくと、そのまま寝そうだな」
 苦笑の滲んだ声で言うと、叶は下村の腕を取った。そのまま引っ張り上げてソファに体を上げてやったかと思うと、頭を横に押し付ける。
「叶さん?」
 腿を頭に敷いているのだが、これもいわゆる膝枕の状態だろうか。下村の当惑を他所に、叶は緩く頭を撫でてくれる。
「床で寝るよりはいいだろう」
 それはそうだが。このまま眠ってしまうのにも、抵抗を感じてしまう。しかしこのまま頭を撫で続けられていれば、そのうち眠ってしまうのはわかっていた。
 眠りたくなかったわけでもないが、叶の手を取った。
「どうした?」
「別に……」
 心地好さをもたらしてくれる、その秘密はこの手にあるのだろうか。そう思っただけだ。手を裏返し表返し、指で輪郭をなぞり、間近に引き寄せてじっと観察した。指は太くも細くもないが、長い。ちょっと節くれていて、爪は短めに揃えてある。形は良い。思ったよりも暖かい。自分の手と重ねてみたら、一cm以上、指も長かった。下村の手や指は平均的だから、やはり叶の手が大きく指が長いのだろう。
 額や、頬に当てて触れてみた。やはり心地好いと思う。唇で触れても同様だろうか。掌を唇へ押し当てる。思ったよりは硬い。噛むと、さほどではない。親指の付け根、人差し指の第二間接、中指の先、小指の付け根の骨を噛んだり唇で挟んだ。心地好さの正体は、それでも知れなかった。
 別の手が下村の頬をくすぐるように撫でてくれる。見上げると叶は微笑していた。心なしか、楽しそうに。
「犬か猫に戯れられてる気分だな。――女だったら誘ってると思うところだ」
「俺だと思わないんですか?」
「男だろ、おまえは。それとも、誘ってたのか?」
「いえ、別に」
 ただ叶ならいいか、と下村が思ったのも事実ではある。二人の間の空気がそのような色合いを孕んだのも否定しがたかったし、ことに及ぶにあたり、叶が相手なら抵抗しようとは思わなかったからだ。
 下村が告白すると、叶はやや大げさな溜息を吐いて肩を竦めた。手のかかる子供を持ったと言いたげな親のような仕草だ。
「おまえのその、いいかと思った基準はどこにあるんだ?」
 相変わらず腿に預けたままの頭を、やや乱暴に撫でてくれた。
「叶さんに撫でられたり触られるのは好きなので、やろうと思えばできるんじゃないかなと思っただけです」
「こっちの都合も考えろよ?」
 言われて初めて気が付いた。そういえば叶の意思というものを無視している。彼が下村と同じように思わなければ、そもそもできるはずがない。下村が無理矢理にでも襲わない限り。とはいえ殺しのプロを相手に、それはなかなか難しい問題だと言えるのだが。
 だが、下村が思い込んだのは思い込んだなりの理由はある。色を孕んだ空気。あれを感じたのが自分だけだとは考えにくい。他に男の経験があるわけでもないので、確かなことだと断定はできないのだが。
 とはいえ宗旨の問題もあることだし、不愉快にさせたなら謝るべきだろう。判断して下村はすいません、と目を反らす。叶はまた溜息を吐いたらしい。そうしてもういいというように手を振ると、思いがけないことを言う。
「謝らなくてもいい」
「え?」
 発言内容の意味がわからず、目を上げて視線を叶に戻した。叶は悪童のように口の端をつり上げている。
「手を出してみようかと思ったのは俺だ」
「……喜んでいいんですか」
「俺に聞くな」
 肩を竦める叶はおどけているのか真面目なのか、判じがたい。下村の目をじっと見つめると、叶はふっと微笑した。警戒を削ぐ微笑だった。
「試してみるか」
 何をとは、訊かずとも知れた。
 
 
 
 
 実際にしてみてわかったのは、相手が同性であっても思ったより嫌悪感がないということだった。それとも同性と性的交渉をもつという嫌悪感は、肉体の快楽でふっ飛ばせてしまえる程度のものなのか。自分から誘うような真似をした理由もわからないのに、そんなことがわかるはずもない。
 それよりも叶の手管に感心した。
「何? 気持ち良い? そりゃ気持ち良くなるようにしてるんだから、当たり前だろうよ」
 こともなげに言ってくれるが、しようと思ってできることではないはずだ。下村は熱のこもった息を吐き、目を伏せる。
「叶さんにはできないことは何もないんじゃないかと思いますよ」
「そんなわけないだろう」
 叶は思わずといった様子で笑み崩れると、頬に口付けをくれた。そうして抱えた下村の腰を緩やかに動かす。息をつめて後孔に受け入れている叶の性器が内部を擦るのに耐えた。同時に己の性器が叶の腹に擦られ、緩やかに上り詰めていく。
「俺にもできないことくらい、あるさ」
 それはどんなことなのか。
 興味はあったが、問えなかった。にわかに動きが激しくなり、声を上げぬよう歯を食いしばるのに精一杯になってしまったのだ。
 より深く、抉られるように根元まで入れられた次には、入り口近くまで抜かれて先端だけが小刻みに出入りを繰り返す。かと思うと、いちばん快楽を引き出されるところを何度も擦られた。腹に当たっている下村の性器にも手を添えられ、先端を指先で嬲られる。たまらず、叶の首に腕を回して縋りついた。
「ッ、ん……かのう、さ……!」
「下村……」
「ぁッ、あ……ッ!」
 激しさを増した律動と手の動きに堪えることもできず吐精する。力一杯抱きついてしまい、叶の左肩のあたりに爪を立ててしまった。
「っつ……」
 叶はかすかに眉をしかめたようだが、そのまま下村の腰を抱えると、入れていた性器を抜いてから精を吐いた。抜かれる感触に固く目を閉じ、叶のスウェットを握りしめてしがみつきそうになるのを堪える。抜かれた後は額を叶の首元に預け、全身の力を抜いた。
 タオルか何かで下半身を拭われる感触があったが、目を閉じていた間に済まされてしまった。乱されたズボンも整えてくれたようだ。
 後ろ頭を、また掌が撫でてくれる。掌が弾むような感触も心地好い。
「眠れよ、下村」
 子供を抱えるような態勢のまま言ってくれる。
「……もう少し、」
 このまま。
 吐息ばかりの声を叶は聞き遂げてくれたのか、もう何も言わなかった。それを了承と受け取り、下村は目を閉じたまま叶の胸にもたれた。