桜内が自宅マンションに戻ったのはクリスマスを過ぎ、大晦日を翌日に控えた日だった。その間マンションの留守を預かっていたのは愛人の山根ではなく、居候の下村。
「おかえり」
叶の葬儀以来、久しぶりに顔を合わせた桜内は、隠しきれなかった疲労をベージュのコートから滲ませている。ライトの当り具合のせいかと思ったが、顔色も良くない。ただいまと返す言葉に力はなかった。
年末を控え、ハーバー脇の診療所が忙しくなった、ということは考えられない。主だった沖田も、既に死んでいるからだ。診療所はすぐに閉めたわけではないが、患者はもう来ないから出勤する意味はない。その割に十日は行方不明だったわけなのだが、ただの居候にしかすぎない下村は不明中の所在を問おうとは思わなかった。桜内は子供ではないし下村は女ではない。余計な詮索はしないが良い。訊いたところで野暮だろう。
「下村、もう眠るのか?」
「もう少し起きてますよ」
本が途中なんです、とソファにだらしなく転がったまま腹に乗せたハードカバーを示してみせる。本は桜内の蔵書だったが、読んでいいと言われていたので勝手に失敬したのだ。こ難しい文字の羅列も、暇潰しにはなる。
桜内は頷くと、手に持っていたビニル袋をちょっと持ち上げた。袋の中で何かがぶつかる音がする。おそらく瓶だ。
「なら、先にシャワー浴びてくるから付き合え」
家主の横柄な言に「了解」と短く返すと、下村はまた本へ視線を戻した。飲みが始まってしまえば朝まで飲むのが決まりごとのようになっている。続きは、明日の昼か夕方までは続きは読めない。だからキリのいいところまで読んでおきたかった。
そのまましばらく桜内の視線を感じた。シャワーを浴びるのではなかったのか。
「ドク?」
「……シャワー、浴びてくる」
心の内を量りかねる声音で言うと、桜内はダイニングテーブルにビニル袋を無造作に置いて、リビングから姿を消した。
放心、とはまた違うように思えた。どちらかといえば思い詰めているような。なぜか下村がこの部屋にいるのが場違いな気にさえなるような視線で。
「……なんかあったのかな」
口出しして良いのかどうか。
酔えばなにか話すかもしれない。愚痴くらいなら部屋代の代わりに聴こうか。
殊勝なことを思いながら、ページをめくった。
沈黙が下りがちな酒宴に、下村はいささか気まずい気持ちを抱いていた。今まで何度も桜内とは飲んだが、こんな雰囲気は初めてだ。
こっそりと隣に座っている桜内の顔をうかがう。無表情にグラスを傾けていて、何を考えているのかさっぱりわからない。そんな表情をされるとどうにも気になり、酒の味を感じられない。
「桜内さん、なんかあったんじゃないんですか?」
ジンを二本とウオッカを一本空にしたところで下村が口を開いた。手酌でモルトウィスキーを注ぎながら、桜内は胡乱な視線を返す。目の奥は完全に醒めていた。深酔いしているわけではなさそうだ。いつもよりペースが早い癖に、酔っているようには見えない。
「なにかって、なんだ。下村」
「それを訊いてるのは俺のほうなんですがね」
苦笑して肩を竦める。桜内はつられて笑ったようだったが、笑顔は失敗している。昏い瞳が、琥珀の酒精を見つめた。
なにかあったわけじゃない。
呟きに、それならどうしてそんな表情をしているのかと、ストレートに問い質したくなる。
「愚痴なら、聞きますけど」
「おまえは、惚れてた女に愛してるって言ったことがあったか?」
唐突かつ予想外な質問に、下村は面食らった。まじまじと桜内の顔を見返すが、からかっている様子はない。むしろ真剣そのものだ。
手の中のグラスに視線を落とし、氷が音を立てるのを聴きながらまりこと暮らした月日を思い返す。長かったようで、過ぎてしまえばあっという間だった一年半。思い出せることは、そう多くはない。
「……ないってことは、ないと思いますが」
「あるってことか」
「多分。あんまり思い出せないですけど」
過ぎてしまった過去を、しみじみと思いかえすような真似はしない。思い出してもたいして意味はないからだ。
「言えて、良かったと思うか?」
真摯な眼差しに、にわかにたじろがされる。問いは、桜内の鬱屈となにか関係あるだろうか。
時と場合と相手によると思いますけどと前置き、下村は言葉を選んでしばし沈黙した。
「俺は、言えて良かったと思いますよ」
「……そうか」
頷くと、グラスに残っていたモルトを呷る。
不意に手招きされた。怪訝に思いながら顔を寄せると、顎を掴まれてキスされた。咄嗟のことに、避ける間もなかった。
「っ、いきなりなんなんですか」
身を離したが、腕を捕らわれた。本気で振り払えば逃げられただろうが、下村を見据える桜内の眼が、それを許さない。
下村、と呼ぶ声は闇にまみれてひどく暗い。
「なんですか」
「俺は、今、かつてないほど、落ち込んでいる」
「だから?」
「慰めろ」
「……そういうのは女に言ってください」
頭を撫でて抱きしめるだけ、ではないことくらい、どんなに鈍くてもわかる。しかし桜内の要望は、言った相手が男であるがゆえに悪趣味だ。
その気になればどんな女でも押し倒すくせに、こんなときにそんなことを訴える相手がなぜ自分なのか。下村は内心で首をひねった。
「女になんか言えるかよ。笑われるのが落ちだ」
詮索されるのも好きじゃない。
自嘲混じりの言葉は、いつも鷹揚なこの医者らしくない。付き合いは短く浅いが、こういう暗さは似合わないし彼らしくないことはわかる。
下村は小さく溜息をついた。若干、諦念が混ざっているのは否めない。
「それ、本気で言ってます?」
「冗談にしては気が利かなすぎるってわかってるだろう」
「……わかりましたよ」
ただし、と続ける。どうせするなら、交換条件のひとつくらい、提示したい。
「明日も今日みたいなままだったら、二度とごめんですから」
「ああ」
真顔で頷く桜内を見つめながら、引かれる腕に逆らわなかった。