雨が降り出した昼。法廷を前日に終え、当面暇になった。にも係わらずの渋面は、古傷が引き攣れるように痛みを訴えていたからだ。
何をする気も起きないが、退屈しのぎにパイプの掃除でもしようかと思った所で、お喋りな男が法律事務所を訪れた。彼が訪れるタイミングは大抵、宇野が暇になりかかった時だ。見張られているようで、少々居心地が悪い。
「勤勉だな、キドニー」
「世の中の大半は、表面上は勤勉なんだ」
おまえと違って。
宇野の嫌味はいつものことだ。素直に歓迎されたことは一度もない。軽く聞き流すと机を挟み、彼の前で微笑んだ。
「昨日法廷が終わったなら、今日は暇だろう」
「勝手に決めつけるな」
「あんたが暇だってことを知ってるだけさ。じゃあ、行こうか」
大きな机を回り込み、宇野の腕を取る。
「待て、俺はどこにも行かんぞ」
「まあそう言うな。気分転換は必要だろう?」
夕方になればレナのコーヒーを飲ませてやるからと強引に(半ば引きずるように)宇野を連れ出す。受付嬢はいつものことだと無表情に見送った。慌て騒がれるよりよほど良いには違いないが、困っているのを助けようともしないのは困りものだ。フォローは、何も言わずともやってくれるに違いないのだが。
フェラーリの助手席に無理矢理押し込められ、車が動き出した時には逃亡を諦めた。
「で? 無理矢理俺を拉致して、どこに連れて行く気だ?」
雨粒に歪んだ車窓に視線を固定したまま尋ねると、やけに嬉しそうな声が返される。
「太陽を探しに」
「……馬鹿か」
溜息で窓ガラスが曇る。けなされても、叶は上機嫌だった。もっとも、この男が不機嫌な様をあまり見た覚えはない。
「たまにはドライブもいいだろう?」
「相手がおまえでなければな」
ひどいな、と寄越しながらも叶は笑う。
憂欝極まりない雨の日に、この男は何故こんなに上機嫌なのか。理由があろうとなかろうと、宇野にはまったく関係ないに違いない。宇野自身に関することであろうとも、知ったことではない。
思ったより揺れの少ない車内で、叶は沈黙を沈黙と認識させないくらいの間を挟みながら喋っていた。新しい金魚を買っただとか、千ピースのジグソーパズルがようやく完成しただとか、自分が使っている若い連中が絡まれた所に坂井が通りかかっただとか。
女の井戸端会議と同じような内容だが、情報交換をするでもない会話は扱いとしてそれ以下だ。内容に意味はない。話をすること自体が目的なのだから。
叶が吸い始めたシガリロの匂いに誘われるように、懐からパイプを取り出した。葉を詰め、燐寸で火を点ける。甘い香りがフェラーリを満たす。
どれほど走っただろうか。途中から、可能がどこへ向かって車を走らせているのかなんとなく察しがついた。高速を使いはしなかったが、目の前に目標としていただろう物が見えていたのだ、わからない方がおかしい。
窓の外に緑が多くなる。明らかに山道を走っているとわかる。
「……おい」
「あとちょっとだ」
シーズン中にも関わらず、車両用の登山道は空いていた。五合目にある駐車場にフェラーリを突っ込むと、叶は車を降りた。振り返って手招きされ、渋々といった面持ちで宇野も車から降りる。
晴れていた。
先ほどまでの雨が嘘のようだ。
「キドニー、こっちだ」
手招きされ、道の方へ戻る。叶はガードレールの向こうを指差した。
手を伸ばせば届きそうな所に、雲海が広がっている。
「シーズンなのに、人がいないんだな」
「マイナーな道を選んで来たからな。渋滞で動けなくなるのは御免だ」
そのマイナーな道をどうやって知ったのか。訊こうとは思わなかった。叶のことだ、きっとそんな情報を集める労力は惜しまなかったのだろう。
妙な所だけマメな男だ。
それも、宇野に抱いている感情故の行動なのだろうか。機嫌を取るとか点数を稼ぐだとか、打算のある行動には思えないのだけれど。
ちらりと隣に目をやった。満足そうな顔で細巻きの葉巻を吹かしている。ここへ宇野を引っ張って来たのは、自分が来たかったついでなのだとばかり、媚びは見えない。
気分転換になったかと問われ、宇野にしては珍しく素直に頷いたのはそんな所が気に入っているからだ。
「それは何より」
地上よりは幾らか気温が低いとはいえ、夏には違いない。叶は木陰に宇野を手招いた。
「賭けをしないか、キドニー」
ガードレールに凭れるように腰かけると、叶が微笑んだ。
「賭け?」
薮から棒に何だ、と首を傾げ、やはりただでは済まないのかと身構えると、気配を察したらしく、苦笑される。
「そう警戒されることじゃあないんだがな……」
「……言うだけ言ってみろ」
乗るかどうかは別の話だ。
叶は小さく頷いた。
「俺は昨晩、うちに置いてある坂井のスウェットに紙切れを入れた。尻のポケットに四つ折りだ。折った大きさは二センチ×三センチくらい」
空に指で言った程度の大きさを書いてみせる。
坂井のスウェットが叶の家に置いてあるとは、随分前に聞いた気がする。その理由も叶が一方的に喋ったので、そこに突っ込みを入れるつもりはない。
「その紙が何だ」
「いつ気付くと思う?」
悪戯の成功を心待ちにしている悪童の顔で笑う。楽しんでいるのは明白だ。
「……ただの紙切れなのか?」
「いい質問だ」
新しいシガリロに火を点け、口の端だけで笑う。勿体ぶって答えないかと思ったが、気が抜けるほどあっさり、回答を寄越してくれた。
「坂井には一度も言っていない言葉。あんたにしか言ってない言葉を、婉曲な表現で一言だけ書いた」
「…………直接言えばいいだろう」
叶が微笑んだのは、宇野の言葉と表情のどちらだっただろう。
「言うのはキドニーにだけで充分さ」
「紙に書いても同じことだろう」
「気持ちの問題さ」
「おまえの気持ちなんぞさっぱりわからん」
「つれないな。いつも言ってるのに」
大して傷付いた様子も見せないのは、宇野の答えが予想の範疇だったからか。
「いつだと思う?」
「……ちょっと待て。坂井がその紙を見たと、どうやってわかるんだ」
「挙動不審になれば見たってことだろう」
事もなげに言い放つと、叶は宇野に微笑んだ。やはり悪童の顔である。
宇野は内心で大きく嘆息した。この男がどういうつもりであれ、坂井にとっては生殺しに違いない。叶への想いを持て余していると知っているだけに、坂井への同情は大きい。
宇野にそう思わせるためだけにやっていて、わざわざ知らせているのだとしたら、大した策士だ。
「俺が女だったら、おまえを刺していたかもしれん」
「刺すほど俺を好きってことか?」
「気に食わん」
唾棄するように言い放つと、パイプに火を入れた。叶は隣でやはり、笑っている。終局的にこの男を憎めないことがいっそう腹立たしい。
己の想いが明確だからといって、人の気持ちを試すようなことを平気でやるなど、到底許しがたい。いつもこちら側の気持ちを疑っていることに他ならない。
叶と同じ気持ちではないが、宇野は宇野なりに叶を特別視している。宇野にとって「友人」とは、それだけで特別なのだ。
多いとは言いがたい友人達の中でも、この男は気が付けば傍にいた。生業ゆえか気配を殺すに長けている男だが、宇野の傍にいる時はそうでなく、強引さもなくごく自然に、当り前の顔で入り込んでいる。空間にも心の中にもだ。
それらすべてひっくるめれば「気に食わない」。
「……帰るぞ」
レナのコーヒーはおまえが奢れ。
傲慢に一言投げると、踵を返してイタリア嬢へ向かう。背後で小さく笑う気配を感じたが、振り向かずに捨て置いた。