岸壁沿いに一人で歩いていた。
月は丸く、やわらかく輪郭を滲ませて、坂井を頭上から照らしていた。雲は月を避けるように空を覆っている。靴底を擦る砂利の音を不快に思わず、岸壁沿いを歩いた。ジャケットのポケットに手を突っ込んでぶらぶらと歩いている様は、昼に傍から見れば手持ち無沙汰にも見えただろう。しかし今は夜であり、たいていのことは暗闇に紛れていたので、憚ることもない。
すぐ側には沖田のプレハブ診療所があったが、誰かが出てくる気配はなかった。もっとも、見咎められた所で何とでも言い訳はできるのだが。
藤木を看とった場所。あれから数ケ月経っている。今はこの場所に居ても、ジッポで煙草を吸っても、自分が壊れるとは思わない。月日の流れが癒してくれることもあるのだとわかった。が、周囲の予想より早く立ち直れたのはやはり、叶のおかげだった。
――考えたくないから。
今ではそれが免罪符かのように、叶の元を訪れる。理由もなく叶の部屋へ行くのを恐れるのは、そうしたことがなかったからだ。ただなんとなく、では叶も困るに違いない。
優しい男。それだけではないが、やはり優しい。そうでなければ頭を下げて頼んでも、誰かのために動くことはあるまい。
小僧と以前に坂井を切り捨てた男。まったくその通りだ。藤木が死んだ時も、小僧だったから声をあげて泣いた。川中が泣かなかったのは悲しみ方はそれ一つではないと知っていたからだろうが、坂井はそれを知らなかった。今も、わかったとは言い難い。
焦る必要はない。いずれ坂井にもわかると、叶は抱き締めて頭を撫でてくれた。子供扱いされたと思ったが、不快ではなかった。
岸壁から覗く海は、やはり暗い。夜明けまではまだ時間が当分ある。数時間もすれば不躾な太陽が地上を照らしてくれるだろう。
藤木が逝ったのが、白日の下でなくて良かった。何もかもを暴き、眩ませる光の中で逝かなくて良かった。光の中だったなら、隠していた想いも晒されていたかもしれない。それは嫌だった。誰かに知らしめるつもりはまったくない。己一人が抱えていれば良いだけの感情だ。何よりあの男に陽光は似合わない。
夜が似合う男だった。闇に溶ける空気と、闇を膨張させる空気を持った男。存在はさりげないのに、忘れがたい。決して表に出てこようとせず、常に陰に徹した。まるで頭上に在る月のような人。
川中に害なす者を許さず、己に害なす者を川中に近付けさせず。時に猛獣の勢いで敵に対峙した、静かな男。
薄気味悪い印象から尊敬へ気持ちが変わるのは時間がかからず、やがて敬愛を越えた感情を持て余している自分に気付いたのも、遅くはなかった。戸惑ったが、否定するたびに肥大する感情を誤魔化さなければならないのは面倒で。諦念混じりに己の気持ちを認めたのは、一体いつのことだったか。
想いを告げる気はなかった。告げた所で坂井の気持ちを踏みにじったり揶揄うような真似をする男ではないことくらいは承知している。告げるのが、怖かったのだ。告げて、何かが変わってしまうのが。
藤木は川中で一杯だった。坂井が割り入る隙はどこにもなかった。
告げれば疎まれるかもしれない。そうすれば遠ざけられるかもしれなかった。それは、嫌だ。叶わなくとも傍にいて、何かの役に立ちたかった。
「社長には言うな」
そう言い含められた時、どれほど嬉しかったか。
藤木が川中を不用意に危険に近付けさせたくない、川中を大事に思えばこその発言だとわかっていた。それでも、余人の――藤木が一番大切にしている人すら――知らぬ秘密を、藤木と共有しているという事実が坂井の目を眩ませ、優越と歓喜に溺れた。――そうでなければ、あの時もっと早くここへ着いたのに。
一言くらいは気持ちを告げておけば良かったかと思うのは、今だからだろう。
煙草を咥え、ジッポを取り出す。藤木から貰ったジッポ。約束通り碑文を刻み、最期に「持っててくれ」と頼まれたまま、肌身離さず持っていた。いつまでもあの時の気持ちが胸に在るように。忘れるはずはないが、今では持っていない方が具合が悪い。
不意に、風が強くなる。月を隠したのは厚い雲だ。風には雨の匂いも混じる。
一雨くるかもしれない。その前に、行かねばならない場所がある。
踵を返し、放置していたバイクへ向かった。ヘルメットを被り、なるべく静かにヨットハーバー跡を出る。
抱かれに行くのに、覚悟が要ったわけではない。昇華したい想いを確認したかったのだ。それはこの場所でなければならなかった。
叶の手管はあの夜以前と変わりない。あの夜が特別だった。
藤木の名を呼び、泣いてすがりついた。別の男の名を呼ぶことを赦してくれた胸。
そして、奪うような――けれども優しい口付け。
あんな口付けをする人だとは思わなかった。
躯は重ねても、宇野以外と重ねるつもりはないと言って寄越した薄い唇。礼代わりだと叶は言ったが、宇野への気持ちを知っているからこそ理解できない行動だった。
藤木ならどうだっただろう。いや、彼はそもそも川中以外の人間は同列だったはずだから、わざわざしょっちゅう顔を突き合わせる人間と戯れでも寝ないか。まして坂井は男だ。川中と藤木の間に躯の関係があったかどうかなど知る所ではないが、坂井など対象外も良い所だ。
緩やかなカーブを幾つか曲がり、市街地へと向かう。今、名を呼んでも風と疾走するバイクの音で己の耳にすら届くまい。
叶に感じるもどかしさの正体は、未だに知れない。かつて藤木に感じたものと同じようでもあったし、違うようでもあった。
そこを覗く勇気は、まだない。
深更。
普通ならば寝入っている時間だろうに厭な顔すらされず、坂井は微笑み一つで迎え入れられ、幾度も訪れたリビングへ通る。
叶の部屋は物が少ない。金魚の入った水槽とジグソーパズル以外は、ベッドとソファに小さなコーヒーテーブル、クロゼット、冷蔵庫にレンジ。あとは最低限の台所用品と食器が数えられる程度だ。テレビやステレオはない。坂井も自分では物が少ない方だと思っていたが、それでも叶よりはまだ細々とした物を持っている。
「飯は?」
「まだです」
こんな時間までご苦労さんと軽い調子で寄越す労いに、坂井は曖昧に微笑んだ。
「ちょっと、寄り道していたので」
「へえ? 珍しいじゃないか」
それ以上余計な追及もせず、叶はキッチンから酒を用意していた。食事は坂井が自分で用意した。
簡単な夕食をとる間も、叶の口は閉じることを知らないかのようだ。
話題はいつの間にか、下村の話になっていた。いつからその話題になっていたのか、坂井にはわからなかった。
「あの男には驚かされた」
唇の端だけを少しつりあげ、皮肉気に笑う。よく似合う笑い方。
「無茶だな、あの男も大概」
誘拐された女を助けに、単身乗り込もうとした男。叶がその場にいたのは偶然だが、そうでなければ本当に誰の手も借りようともせず、突っ走っていたに違いない。
「よくわからん男だよ。俺が殺し屋だと言っても、納得した風だったし」
初めての反応だ、と叶は楽しそうにバーボンを呷る。
「結局下村も一緒に?」
「ああ。奴の女だったんだ。そうさせてやる方が良いだろう? あいつに合わせて俺は動いたよ。今頃はドクの所だろう」
下村が無事に女を連れ帰ったのを見届け、帰ってきたのだのだと叶は言う。
叶も下村も怪我を負わなかったことにほっとした。
「奴は、おまえより危ない所があるな」
「え?」
「自分の命をなんとも思ってない。いつでも投げ出せる準備があるみたいに生きてる。今日だってそうさ。多人数を相手にすることはわかっていたみたいだが、まるで度胸試しするみたいにやって来た。生きて帰ることにこだわりはなさそうだった」
「でも、それじゃあ」
救出にはならない。
坂井の呟きに叶は頷く。
「それもどうでも良かったのかもしれん。どこか壊れちまってる、と思った方がいいんだろうな。体じゃなくて心が」
死にたがっているわけではなさそうだが。
叶は言葉を区切り、グラスに小さな微笑を落とした。
「……まあ、気になる男だということになるか」
「叶さんが気にするんですか?」
「俺だけじゃない。キドニーも川中もドクも、沖田だって気にしてるさ。おまえだって気にしてないわけじゃないだろう?」
「そりゃあ……」
「他に関心ができるのは良いことさ。心に余裕がなけりゃ、他人のことなんか気にならないからな」
テーブル越しに頭を撫でられてしまった。どうも叶には子供扱いされているように思う。――頭を撫でられるのは、決して嫌いではないけれども。
それでも大人しく撫でられねばならない謂われはない。さりげなく手が坂井の頭からバーボンへ移ったのを合図にするように「シャワー借ります」と素っ気無く断ると、食べ終わった皿を綺麗に洗ってからバスルームへ入った。
シャワーコックを捻って暫く待ち、湯が出たのを確かめて頭から浴びる。微温湯。そんな暖かさのような接触が、今は欲しい。今抱いている様々な感情を、ゆっくり反芻できるような抱擁。長く続く暖かさが欲しかった。
簡単に体と頭を洗ってしまうと、すぐに出た。長湯は好きではない。どうせ溺れるなら水より人肌の方が良い。
穏やかな吐息。闇の中で感じる己以外の人の気配。心地好いと感じるようになったのはあの夜からか。
彼を起こさぬようそっと寝返りをうち、寝顔を盗み見る。暗さに慣れた目でも、叶の顔はぼんやりとしか見えない。
薄い頬、意外に長い睫毛、薄い唇。見慣れたはずの顔だが、じっくり見る機会などほとんどない。閉ざされた目蓋の下には、鳶色の双眸がある。
自分を見つめる叶の眼差しはやわらかい。ともすればひどい勘違いをしそうなほど。
同情かと問えれば良かった。無論それ以外の情であるはずもない。彼の坂井に対する優しさは、きっとそこに由来している。路頭に迷った犬か猫を保護している。叶にしてみればその程度だろう。思うたびに、心の靄は広がった。
叶にはただ、感謝すればいい。それ以外の想いを抱く必要はない。抱いてはいけない。互いに想う相手は別にいる。なのに、この靄がかった気持ちは何だ。何に引っ掛かっている?
叶の気持ちを勝手に決めつけ、勝手に一人で腹立たしさを胸に抱えている。それでいいと納得したのは自分なのに、一体どうした心変わりか。
坂井は深く息を吸い、静かに吐いた。叶に自ら口付けた、あの時の衝動を思う。
叶は少し、驚いていたようだ。いや、戸惑ったと言うべきか。それはそうだ。彼の、宇野への操立てを知っていて口付けたのだから。先に口付けたのが叶だからこちらから仕掛けても相子だというのは言い訳だろう。口付けるべきではなかったし、叶の誓いを破らせてしまうともわかっていた。
叶のせいだ。口付けられたから、彼の唇の感触、甘さと優しさを覚えてしまった。一度知ってしまえば、まるで麻薬の中毒のように渇望する自分がいた。
拒否されるかもしれない、と考えなかったわけではない。
それでも結局、叶は許してくれた。口寂しいからなどという坂井の稚拙な嘘を見抜いただろうに、問い詰めもせずに許してくれた。その優しさが不安になるといえば、笑われるだろうか。
どこまで許されるのか。
どこで拒まれるのか。
計っていると知れば、叶は怒るだろうか。
駄目だ。彼の心は他所にある。
戒めると同時に、ふと気付いた。知らず、同じことを繰り返そうとしている。
愚かだ。あまりにも。
それでもあのぬくもりは換えがたい。安らぎと安堵をもたらしてくれる。せめてあのぬくもりだけは、放したくなかった。
寝顔は穏やかで、寝息はほとんど聞かれない。静寂。先ほどの戯れが幻のようにすら思える空気。
宇野は、この顔を知っているのだろうか。叶の唇が、指が、あんなにも優しいことを、有能な弁護士は知っているのだろうか。疑問は永遠に宇野へ投げられることはあるまい。
せめてこんな夜ばかりは、触れさせて欲しい。
静かな寝顔に、そっと唇を寄せた。