坂井が叶の部屋を訪れるのは、何かを考える時間を持ちたくないからだ、と叶は理解している。
店のこと、敵のこと、川中のこと、藤木のこと。
それらすべてを頭の中から追いやりたくて、この部屋のチャイムを鳴らす。そうして、「抱かれに来たのか」という自分の軽口に溜息混じりで頷いて見せるのだ(もっとも、その台詞はあの夜以降使ってはいないが)。
微かな微笑みひとつで坂井を招き入れるが、叶は内心に疑念があった。
同じセックスなら、抱かれるより抱く方がいいに決まっている。男なのだから。なのに何故、坂井は抱かれるのか? 自分のように性に対してポリシーをもっていないなら別かもしれないが、そうではないだろう。
「面倒臭いんですよ」
だから当分女は要らない。
本当にどうでも良さそうな口調と素振りだった。それが信用できないわけではない。偽りか飾りか本心かを見抜けないほど耄碌はしていないし、伊達に坂井より年を重ねているわけではない。
束縛されるのがうざったいという気持ちが理解できないわけでもない。確かに叶は坂井を束縛しないし、坂井もまた叶を束縛しようとしない。気楽といえば気楽な関係だ。坂井が良いなら、それで良い。厭であればここには来ないだろうし、用があればこうやってここへ来る。
初めは坂井の気を紛らわせるつもり、だけだった。小僧が小僧らしからぬ鬱屈を抱いているのは、傍目にも鬱陶しかっただろう。それを他の誰も解消してやれないから、仕方なかった。
抱いてしまったのは弾みだ。酒で理性が低下していた。勢いだった。言い訳は何とでもできる。思えばその時から坂井は嫌がらなかったのだ。
一度だけなら気紛れで済む。では自分からの二度目以降はどう言い訳するのか。
その答えは、とうにわかっていた。一度わかった自分の気持ちを今更否定しようとも思わないし、誤魔化すつもりもない。宇野に嫌悪されでもしたら考え直したかもしれないが、彼はそれでも叶を遠ざけようとはしない。気にされないのが物足りなくもあるが、宇野らしいと言えばそうなる。彼も結局、優しい人間なのだ。叶を思いやったわけではなく、坂井を気遣ったのだろう。
ただ、坂井の気持ちはわからないので積極的に想いを伝えようとはしない。消極的な方法として、紙に記すという方法を取った。紙は、坂井のスウェットのポケットの中だ。気が付くか、つかないか――そんなちっぽけなものに気付かなくとも、いつか叶の態度から気付いてくれればなお良いのだが。
坂井が、ロックグラスにバーボンを注ぐ。水割りでも良かったが、叶の気分はロックだった。冷えた氷の感触を掌で楽しむ。氷が溶け切らない内に飲み乾す、そのタイミングを計るのも、叶は好きだった。
グラスをひとつ受け取ると、ソファに座る。つまみは、作り置いていた野菜炒めとチーズ、缶詰の魚、小さなビターチョコレート。
坂井は勝手知ったる様子で炊いておいた米をよそい、「いただきます」と断ると野菜炒めをおかずにして食べ始める。坂井の食べっぷりは、見ていると壮観だ。その細い躯のどこに入るのかと訊きたくなる勢いで、あっという間に平らげる。奢り甲斐のある男だと叶は思う。
食事の間に喋るのは主に叶で、坂井は相槌をうちながら時々聞き返したり、質問を寄越す。金魚の空気ポンプの音が気にならない程度に、穏やかな時間。こんな空気にいながら、それでも坂井は頭の中から追い出したいことがあるというのだろうか。
坂井が叶の部屋を訪れるのも、叶が坂井の部屋を訪れるのも、根本は同じ理由のはずだと叶は考えている。
自分の分のバーボンを飲み乾すと、坂井は立ち上がった。シャワー借ります、と断るのに小さく頷き了承する。
坂井の着替えは、バスルームの手前、洗面所のバスケットチェストに一組だけ置いてある。タオルも同様だった。貸し借りは面倒だからという理由で、置かせているのだ。
水槽の酸素ポンプの音に紛れて、シャワーの水音が聞こえてくる。カーテンで閉ざされた窓の外と同じ、雨音のようだ。不意に、沢村のピアノを思い出した。雨だれのような赤とんぼ。あれを聴いた時と同じ気持ちになっている。
ぼんやり、その時の気持ちをなぞる。懐かしさが苦く、切なさが甘いような。何という感情なのかはわかりたくない。そのまま心の奥に置いていいものだから、そっとしておく。
いつの間にか坂井がバスルームから出ていた。灯りも坂井が消したらしい。部屋が暗くなっているのに、叶は気付かなかった。
Tシャツに、スウェットのパンツ。ソファに座った叶の脚を背もたれか枕のようにして床に座っている。濡れた髪が膝のあたりに当たっていた。借りてきた猫のように大人しい。
コーヒーテーブルへグラスを置くために上体を曲げると、見上げてきた坂井と目が合った。じっと見つめてくる瞳は澄んでいるが、どうしようもない影が落ちている。見つめ返しても、視線は逸らさない。意味を汲み取り、あるかなきかの儚い微笑を口の端に薄く刷く。
「眠いのか?」
頬を掌で撫でてやると、目蓋を伏せた。目を閉じ、掌に擦り寄るように頬を押し付けてくる。本当に猫のようだ。
「わかってるでしょう」
吐息ばかりの返事。まぁなと返し、撫でたのとは反対側の頬に軽く口付けると、同じ所へ口付けを返される。腰を抱きあげ、脚の間へ座らせる。いっそう密着し、熱が伝わり合う。
「暖かいな」
「シャワー、浴びたばかりですから」
二人きりなのに内緒話をするような密やかな声音。小さな笑いを交えた会話は、互いの熱を探りながら進んでゆく。叶は坂井のTシャツの中へ手を差し入れ、坂井は叶のブロード生地で仕立てられた柔らかなシャツのボタンを外す。
スーツを着れば細身に見える叶の躯だったが、南アやアメリカでそれなりに訓練を積んだので、特に胸と上腕の筋肉がしっかりしていた。叶が愛用しているのは二十二口径だが、大きな銃の反動にも負けない体だ。腕に歯を立てられても大して痛くはない。「食いたいのか?」と苦笑しながら脇腹から胸を撫でてやる。
「叶さんて」
Tシャツを脱ぎながら不明瞭に坂井が言った。気のせいかと思ったが、彼は振り向いた。体を横向け、叶の肌に触れる。
「なんだ?」
「優しいですね」
坂井の言葉は叶の虚を突いた。とはいえ小僧にしてやられたとあからさまにするのは憚りたい。
「なんだ、突然」
「前から思ってましたよ。口にしなかっただけで」
だからここへ来るのかもしれない。呟くように吐露すると叶の右手を取り、まるで神聖な儀式のように、指先に口付けた。叶は口付けを受けた指先で、坂井の頬をそろりと撫でてやる。
牧師などという聖職者に比されるのは、あまりにおこがましい。今坂井が唇を寄せたその指、この躯には、他人の血が染みついているのに。
言葉には自然、自嘲が滲む。
「……優しいと思えば優しいし、優しくないと思っていれば優しくない。俺が優しいかどうかなんて、受け取り側の自由さ」
「照れてるんですか?」
「何を照れるんだ」
苦笑したが、まったく照れがないと言えば嘘になる。面と向かって優しいなどと言われたことはなかった。何より、言って寄越したのが予想外の相手だった。
意趣返しのように胸元に触れ、項を噛む。坂井の躯がわずかに震えた。背に回された指が、爪を立てて抗議する。本気の抗議ではない。じゃれ合いのようなものだ。
愛撫は微温湯のごとく緩やかに続けられた。互いの体温にまどろみ、肌に触れているのが心地好い。
仕事では奪うばかりの熱。与え、与えられる悦び。官能にすり替えられるとしても、終わりを先延ばしたいと願うのは何故か。
互いに、本当に触れたい人へは触れていない。だからこれは代償行為だ。同じ傷を舐め合っている。それだけの行為に意味付けを施して、何になるというのか。
言い訳をしたいだけだ。坂井の肌が、体温が心地好くなってしまったから、言い訳をしたいだけ。他の誰にでもない、自分自身に。
その証拠に、叶は坂井に口付けたい衝動を押さえこんでいた。本来ならばただ一人にしか触れない唇。そうしろと言われたわけではなく、己に対する誓いのつもりだった。たかが一度口付けただけで、箍が緩んだのか。
胸の先を吐息が乱れるまで嬲り、筋肉のラインを辿ってスウェットの中へと指を忍ばせる。立ち上がりかけたものへ長い指を絡め、ゆるりと擦りあげる。焦る必要はない。今夜は穏やかな夜。綿のようなまぐわいが似合いだろう。
緩やかに、それでも指は確実に坂井を追い上げた。一人乱されるのが耐えられなくなったのか、坂井はスウェットを脱ぐと叶に跨った。ソファの背もたれに叶の顔を挟むように両手をつく。正面にきた顔、間近に見える目元は、アルコールのためではなく赤らんでいる。
自分ばかり気持ち良くされるのは不公平だと、よくわからぬ悪態をついたのは坂井だった。気持ち良ければそれに越したことはないだろうに、何を言うかと思った。
「どうせするなら、二人とも気持ち良くなった方がいいでしょう」
あんたの言葉を借りるなら俺は抱かれに来ているが、何もかもをされるがままでいようとは思ってない。
言いながらも、少し照れたように見えたのは錯覚だっただろうか。
ともあれ、叶に坂井の意思を反対するつもりはなかったので、以降はそのようにしていたし、だからこの夜も同じだった。傷を舐め合うというのはつまりそういうことかもしれないと、叶は納得している。
叶が坂井に触れ、坂井が叶に触れる。互いの獣が顔を出す瞬間でもある。
堪えられなくなってくると、坂井は叶の首にすがりつくような格好になった。すがりついた男の余裕を間近で見ながら、それでも「待て」とは言ってこない。
坂井の吐く息は熱く、目元は朱に染まり、瞳は潤んでいる。互いに情欲の熾火を瞳の奥に見た。思うと、不意に坂井が首を傾げて微笑した。欲に塗れながら、言葉で言い表しがたい、綺麗な微笑。暫し見蕩れると、不意打ちを食らった。喧嘩を仕掛けるような口付けを受けたのだ。
戸惑った叶の唇を舐め、歯列を割る舌。
口付けに戸惑ったのは、唐突だったからだけではない。
明らかな意思をもって、口付けられたからだ。
誰かの影は見えない。だが――何故。
鼻梁を重ねたまま唇だけは離し、坂井が吐息する。
「叶さんが、宇野さん以外とキスしないって話は覚えてますよ」
では、何故。
問うより先に、言葉は続けられた。
「叶さんからするのがナシなら、俺からするのはアリでもいいでしょう? 叶さんの意思でするわけじゃないから」
一度言葉を区切ると、深く呼吸した。「だから、」坂井は目を伏せる。叶は目を放せないでいる。
「キスは、いつも俺からします」
「坂井、」
「それくらいは許してください」
また、綺麗な微笑。そんな表情をしてくれるなと言いたかったが、できなかった。
「……何故?」
今日の自分は「何故?」ばかりで、まるで子供だ。自覚はあったが、考えてもわからないなら訊くしかないのだ。
「口寂しいから、じゃ駄目ですか」
ということは、他に理由があるが、言いたくないということか。
叶は静かに溜息し、次いで苦笑した。坂井の好きなようにさせてやる。自分はそれに付き合ってやる。そう決めたのだ。今更否やはない。宇野に坂井の理論が通じるとは思わなかったが――こればかりは黙っている他はないだろう。
わかった、と言う代わりに頷くと、もう一度口付けられる。
思ったより坂井に許している部分が大きい自分に、驚いていた。