「宇野さん」
呼んでも書類から目を上げない弁護士の顔は見なかった。聴いているのはわかっているので言葉を続ける。
「叶さんて、どんな人ですか」
「おまえが知ってる通りだ、坂井」
そうじゃなく、と坂井はソファから身を乗り出した。宇野を振り返れば、書類を詰まらなさそうに捲っている。
「宇野さんにはどういう意味を持った人なのかと思って」
質問に溜息をつくと、宇野はようやく顔を上げた。透析前なのだろう、顔色は悪く、むくんでいる。
「殺し屋で探偵、お喋りってだけじゃ足りないのか?」
「それは事実の羅列で、俺の質問には答えてませんね」
小さく笑うと、坂井は煙草を取り出した。銀のジッポで火を点ける。ジッポに落とした視線は暗く、優しい。
「何故そんなことを訊く?」
「……好奇心、かな」
「おまえの好奇心を満足させてやると、何か良いことでもあるのか」
「一杯サービスってのはどうです?」
安いなと皮肉っぽく笑う宇野は、嫌いではない。
たとえ川中と深い溝があろうともそれは当人同士の問題であり、坂井には関係なかった。幸いなのは、宇野も同様に考えてくれたことだ。そうでなければいつ事務所を訪れても、門前払いを食わされていたはずだ。
「ここによく叶さんが来るのは情報収集もあるでしょうけど、宇野さんの方がよくあんな喋る人の出入りを許してるなあと思ったんですよ」
笑うと、坂井は立ち上がった。「じゃ、時間なので」と短くなった煙草を揉み消し、すたすたと出て行く。時計を見れば十七時が間近。開店準備に出勤するのだろう。
本当は何のつもりだったのかは結局聞けなかった。
「叶。坂井に何かしたか」
「何かって何だ」
事務所に入るなり質問を浴びせられ、叶は首を傾げた。「何かと言えば何かだ」と弁護士はつれなく返事を寄越し、余計に叶を悩ませる。
大方、坂井が何か宇野に相談を仰ぎに来た時に何か訊いたのだろう。坂井が彼を慕って集まった連中の引き起こす問題について宇野に相談を持ちかけるのは珍しいことではないし、宇野がそれを許し、真面目に応えているのは知っている。坂井が川中側の人間であっても、宇野は坂井を認め、気に入っている証拠だ。
叶もまた、坂井のことは気に入っていた。
「そりゃあまあ、色々してはいるが……」
それは宇野も知っているはず、とソファに身体を沈める。
「そうじゃない。何か坂井が奇妙に思うようなことをしたかと訊いているんだ」
「ふーん?」
坂井が何を訊いたのかが気になったが、今尋ねても宇野はかわしてしまうに違いない。
シガリロを咥えると、叶は宇野を見上げた。思いあたることが、なくもない。そのことは、まだ宇野には言っていなかった。
「……アレかな」
「やっぱり何かしたのか」
「酷い言い様だな。ちょっと、キスしただけさ」
「…………珍しくないな」
貴様ならさもありなん、と溜息を吐かれ、叶は眉を顰めた。
「俺が前に言ったことを忘れたのか、キドニー」
「おまえの戯言をいちいち覚えていられるほど、俺の記憶力は無駄にできていない」
酷いなと叶は笑い、宇野のむくんだ手を取った。透析を済ませた後なら叶の指より骨張っている。その指先へ口付けた。
「……約束を破ったのは悪かったよ」
「別に俺は何も言ってない」
「気にしてるだろう?」
「してない。放せ」
「悪かった」
溜息をつき、視線を落として叶を見つめた。
「謝るのは俺にじゃないだろう」
「キドニー以外の誰に謝るんだ?」
「今更だ」
坂井と寝ているた告白を受けた時点で、そんなことは許容の範囲。
――優しすぎるのだ、この男は。
宇野は密かに吐息した。
他人の人生に幕を降ろすことを商売にしている割に、この男はどこまでも優しかった。あるいは、知らぬ者の人生を終わらせるからこそ、友人には優しいのかもしれない。
博愛ではなく友愛に違いないが、叶の存在は宇野にとって時に有り難く、時に疏ましい。叶が自分を好きだと言い続けていても、信用できないのはそのせいかもしれない。そもそも、自分のような男を真顔で好きだという神経構造を理解できるほど、宇野の頭は柔らかくない。では何故叶にキスを許したのかと問われると、返答に窮するのだが。
坂井のことも、黙っておけばわからないのに、わざわざこの男は言ってきた。妬いて欲しいのかと思ったが、そうではなかった。
「躯をさいなむことで、誤魔化せる想いがあると思うか、キドニー」
そう問うてきた叶の表情はいつになく真剣だった。
「だとしたら、その程度の気持ちだったってことだろう」
答えはいつものように皮肉っぽくなってしまったが、間違ったことを返したとは思わない。それにその時叶が言ったのは、彼自身のことだと思った。
そうだな、と真顔で考え込んだ後、「そんな理由で坂井と寝たよ」と告白されたのには驚かされたが。
見ていられなかった。叶はそう言うが、宇野はそれが信じられない。この男の方にも何か打算があったはずだ。自分が応じないのも理由だろう、と宇野は読んでいる。理由の何割を占めているのかまでは、知ったことではないが。
叶が、くれてやったパイプをいつでも持っているのを知っている。そして、不意に仕掛けてくる口付けがひどく優しいことも知っている。
もしかしたら坂井を抱いているのは本当に彼を慮っているのかもしれない。
だがそれも宇野自身には関係のないことだ。したいようにすればいい。子供ではないのだから、己の行動に責任くらいは持てるだろう。
「叶。おまえが坂井にキスしたことで俺を裏切ったと思うのは勝手だが、俺は別にそんなこと思っちゃいない」
不意にパイプが吸いたいと思った。
叶は敬虔な信者のように宇野を見上げている。漆黒の瞳には、暗い影が落ちていた。
「おまえが他の誰と何をしようと、俺の関与する話じゃない。ただ、坂井を傷付けるような真似はするな。あいつは川中の下にいるが、俺はあいつを気に入っている」
言い切ると、叶の手から手を取り返した。
「……ああ、それは勿論」
俺もあいつは気に入ってるよと返してきた言葉も、表情も、常になく頼りない。
宇野は内心で舌打ちした。日頃陽気で口数の多いこの男の、こんな姿はあまり見たくない。
パイプを取り出す手を止め、暗い眼差しに溜息する。手を伸ばし、その目を隠した。
「キドニー?」
戸惑っているようだが、手を外そうとはしない。
「鬱陶しい」
腰を屈めながら言い捨てると、ごく軽く唇を掠めてやった。
叶が坂井に口付けてやったのもこんな理由かもしれないと思ったことは、墓場まで秘めておく。