そういえば、と叶が思い出したように何かを呟いたのは、坂井が靴を脱いだ所だった。どうかしましたかと声をかけると、リビングの中で叶は振り向いた。
「昨日おまえが言ってた、おかしな男ってのはあいつだろう?」
「おかしな男?」
「店に岡本まりこを尋ねてきて、その後チンピラ二人を伸したとかいう男さ」
「ああ……」
坂井は頷き、リビングへは来ず、そのままキッチンへと入った。勝手知ったる、というもので、グラスを取り出すとターキーのロックを二つ作る。
叶の言う男は昨日――日付的には一昨日――ふらりとブラディ・ドールへやってきた男のことだ。昨日だけではない。今日もやってきた。開店前と開店後の二回だ。違いな男がやってきたものだと思ったから、覚えている。もっとも、印象が強いのはチンピラを伸した時の方だが。
坂井の手際を眺めながら、叶は喋り続ける。
「おまえの言う通り、おかしな男だ。面識もない俺に、いきなり話しかけてくるんだからな」
向こうはレナで川中といる所を見かけたらしいが、と付け加えると、叶はロックを呷った。口元には楽しそうな笑み。
「キドニーがあいつを沖田の所へ連れて行ったのは、吉と出るか凶と出るか……」
好んで諍いに首を突っ込む宇野ではないが、沖田のことではムキになるきらいのある宇野のことだ。沖田を試すつもりだろう。
わずかに険しい表情をした坂井の額を、叶はグラスを持った指で突付いた。
「なんでおまえが難しい顔をするかな」
「……社長が快く思ってないかもしれないって思っただけですよ」
「川中ね。そうだろうな」
肩を竦めた叶の顔を、坂井はじっと見つめた。どうした、と問う代わりに首を傾げてやる。
「叶さんだって、あんまり良く思ってないでしょう」
二度目にやってきた下村との会話ではよくわからなかったが、沖田のことを引っ掻き回す男の存在を見過ごせるほど、叶が大らかではないだろう。夏の事件が後を引いている人間なら、誰でもそうに違いないが。
坂井の言葉に叶は苦笑する。大らかでないのは自覚があったが、指摘されるとは思わなかった。
「おまえもな。まあおまえの場合は、川中が快く思わないからだろうが」
「社長だけが理由じゃないですよ」
「じゃあ他にどんな理由が?」
「…………」
返事を返さない坂井を小さく笑う。厭な笑い方ではないが、なんとなく坂井のシャクに障る。
下村という男の姿が頭に浮かぶ。店で飲んでいる姿ではない。一昨日の夜、店を出た後の姿だ。
チンピラ相手に、容赦ない蹴りをくれていた。少し前までサラリーマンをしていたと宇野に言っていたが、あの時の空気は堅気のものには思えなかった。かといってこちら側かと訊かれれば、綱一本ほどの差で違う。境界線に立っているような男。
「危ないヤツだって思ったんです」
危なっかしい、の方が近かったかもしれない。それは境界線にいる男だと感じたからだろうか。
叶は肩を竦めた。
「絡まれれば相応の報いをくれてやるのも優しさだが、どうもその男は飛んでるな」
「はじめてこの街で面白い男に会ったって言われましたよ」
「お前も俺に仕掛けてきた時はそんなことを言ってたな」
「……そうでしたっけ」
痛い過去を突かれ、とぼけたが叶は追い討ちを寄越す。
「お前の場合は藤木に止められたから余計に気になって興味を持った、だったな」
忘れてないだろう、とターキーを飲み乾して微笑む。勿論忘れていない。忘れられるわけがない。
「俺の話はいいんです」
空になったグラスにターキーを注ぐ。ついでに自分のグラスにも注いだ。
誤魔化すような所作に、叶は苦笑した。あの頃より少しは大人になったかと思ったが、実際はまだまだ子供のようだ。
「得体の知れない奴ではあるが……まあ、その内に見えるようになるだろう。この街にいれば、嫌でも顔を付き合わす機会があるさ」
何しろ下村の目的が、今この街の嵐の中心になろうとしている沖田の診療所に居る女だ。何も起こらないと考えるのは無理な話というものだろう。
そうしてまた、坂井は下村のことを思い出していた。正確にはあの男とのやり取りを。
「また会うぜ。この街ではじめて面白いやつと会ったよ」
「俺は、あまり会いたくない」
「だけど、会うさ」
「だろうな」
会いたくないと思ったのは、厄介な男だと認識したから、だけだろうか。多分そうだと自分の気持ちにケリをつけ、ターキーを呷る。できれば川中が巻き込まれるような事態にならなければ良い。
昨日の下村の言葉が現実になったのは、今日のことだ。開店前の店にふらりと現れ、川中と会話をし、出て行った(おそらくその後、叶と宇野にたまたま遭ったのだろう)。
会社を辞めて女を追いかけて来た男。
客観的事実ではあるが、あの男のすべてを表しているわけではない。中身の見えないはこの中身を外側を見ただけであれこれ推理しているようなものだ。本当の下村という男がどういう男かなんて、彼自身もわかっているはずはないだろう。川中と会話している口ぶりを聞けば、わかっていない様子だった。
沖田のことで揺れているこの街に、あの男はどのように波紋を投げかけるか。興味を持っている自分に気付き、坂井は苦笑した。気付いたはずだが、叶は何も言ってこなかった。叶の適度な無関心が、坂井には心地好かった。
数日が経った。
あの後、下村とは二度会った。一度はホテル・キーラーゴのレストラン、もう一度は先ほど、ブラディ・ドールにやってきた。開店前にやってきて、川中と沖田や宇野の話をして、開店前に出て行った。
川中は、下村が沖田のことに関わるのをあまり良く思っていないはずだった。それでも下村をトローリングに誘った。叶は楽しんでいるのだろうか、沖田の病院のこともあれこれ訊いていた。
どういう男かわからないから、話をするのは有効手段だろう。そもそも坂井の周りの人間は、厄介事さえ運んでこなければ面白そうな人間には興味を示す傾向が強い。たとえ厄介事を運んできた所で、その人間に興味を持てばその限りではないのだが。
ボーイが電話の子機を持ってきたのは、閉店まであとわずかの時だった。
「誰だ?」
「下村と名乗っていました」
「下村?」
「ご存じない方ですか?」
無論知っている。しかし、電話をかけてくるような仲ではないことは確かだ。
何かあったのかと訝りながらボーイから電話を受け取った。
二言三言遣り取りしただけで切ると、すぐさま別の番号にかける。数コール待ち、ようやくオウヨウな応答が返ってきた。酔っているらしいのは声を聴けばわかる。
「坂井です。十分後に、患者を連れて行きますから、準備お願いします」
「撃たれたのか刺されたのかくらい言えよ」
「刺されたそうです。脇腹をね」
「わかった」
電話を切るとボーイに返し、
「ちょっと出てくる。いつも通り片付けたら、店は閉めておいてくれ」
言い置くとスカイラインの鍵を掴み、すぐさま出て行った。赤いベストも脱がなかった。刺されて少し時間が経っている。血がどれほど流れたか知れないが、急ぐに越したことはない。
「ったく……!」
厄介な男と知り合ったものだ。嘆息し、スカイラインを発進させた。
桜内の診療所からシティホテルまで下村を送り届けて、坂井は一人、車内で紫煙を吐いた。手の中にある銀のジッポを握り締める。
「……若いくせに説教が好きなタイプか、か……」
だとするなら、それは周りの影響だ。川中、宇野、叶、桜内、秋山、遠山、そして藤木。皆、自分より随分年上の、尊敬できる男達。彼等に囲まれていれば、自然とそうなってしまう。
ふと、あることに気が付いた。今まで知り合った男達で、下村が初めての同年だ。
川中や藤木によく若さをからかわれて「突っ走るな」と言われたものだが、
「……あいつほどじゃねぇな」
小さく笑った。