夜中

「よう、お疲れ」
 助手席に乗り込んだ坂井にねぎらいを寄越すと、滑らかにフェラーリを走らせる。低い排気音は空腹に響いた。
 約束をした覚えはないが、この男はさも当り前のように坂井を待ち、坂井も自然に叶の車に乗り込んだ。拒否した覚えはほとんどない。
 思ったより車内に葉巻の匂いが篭もっていないのは、窓を開けていたからか。
 ちらりと窺った叶の細い顔からは、一人でいる時の様子などわからない。
「どこかで食っていくか?」
「そうですね……あ、いや」
「ん?」
「昼にカレー、作ったままなんですよ」
 外食ばかりでなく、たまには料理でもするかと思いついたのは目覚めて顔を洗った後。家の中にあるわずかな買い置きを総動員して、作れそうなものがカレーだった。自分の食欲は承知しているので大鍋に大量に作ったが、まだ半分近くは残っている。
 凝った作り方はしていないが、半日充分に寝かしたから味はそこそこのものになっているはずだ。
「カレーか」
 まさか王子様がついたカレーじゃないよなと笑う叶の肩を、思いきり張り飛ばした。




「おまえ……滅茶苦茶なカレーだな……」
 コップの水を一息に飲み干しても、叶は顔を顰めていた。横に座った坂井は涼しい顔をしている。
「辛くないとカレーじゃないでしょう」
「やり過ぎだ。……くそ、舌の感覚がおかしい」
 忌々しそうに舌打ちすると立ち上がって水道から水を汲み、その場で一杯飲んだ。「おい」と坂井を振り返ると、
「一杯作れ」
 投げやりに寄越す。
 坂井は笑いを堪えた。わざとなのか本当なのかはともかく、拗ねていると思った。まるで子供だ。そんな叶の姿を見るのは珍しい。
「何がおかしい?」
「いえ、叶さんも人の子なんだなと思っただけです」
「商売と生まれは関係ないさ」
「そういう意味じゃあないんですけどね」
 苦笑し、ハーパーの水割りを叶の前へ置く。
 あの夜以来増えたのは、今のような他合いのないやり取りをする時間。喋り、酒で分かつこの時間を、坂井はいつの間にか気にいっていた。
 坂井の作った水割りを冷たい内に飲み終えると交替でシャワーを浴び、布団を一枚敷いたきりの床に転がった。坂井のセミダブルのベッドはあるが、大の男が二人で眠るには手狭で、それなら床とベッドで分かれれば良さそうなものだが、そうはしなかった。
 もっともらしい理由を幾つかあげることはできたが、どうせ互いにそんなものを求めたりしないので忘れてしまった。
 セックスをせずに朝を迎えることも、少なくない。そんな時は大抵、互いを緩く抱き締めて眠るのだ。男同士で何をしているのかとも思うが、傍らに誰かの温度が感じられるのは悪いものではない。
 安心しているのだ。物騒な男の胸で。
 『安心』など、殺し屋という人生の幕引きを生業にしている男にはいかにも相応しくなかったが、永遠の安らぎを与えている男だと思えば、似つかわしい気もする。
「叶さん」
 小声で呼ばわると、叶の胸で音が篭もった。何だ、と返された言葉は坂井の黒髪をわずかに揺らした。
「宇野さんが愚痴ってましたよ。今日――もう昨日か。昨日一日、叶さんに引っ掻き回されたって」
「引っ掻き……誤解を招く言い方をするな、キドニーの奴」
 心外だと言わんばかりの声音に、坂井は喉と肩を震わせた。
「……言いたいことがあるなら言え」
「すいません。でも宇野さん、別に嫌そうじゃなかったんですよ」
 だから叶さんが何をしたのか気になって。
 ちらりと上目で叶を窺うと、口元は笑みを象っていた。滅多に見られない、優しい微笑。 「仕事が煮詰まってたみたいだから、ちょっと強制的に気分転換をさせただけさ。……キドニーが喜んでくれたならそれでいい」
 言葉に滲んだ優しさは、ただ一人へ向けられるもの。知っているからこそ、羨ましい。
「……その割に、宇野さんの喜び方ってヒネくれてますよね」
「素直に喜ぶキドニーなんざ想像力の限界に挑むようなもんだ。キドニーは、あれくらいが可愛いのさ」
 一瞬だけ正直な感情が見られるなら、そのためにどんな道化だって演じてやるさ。
 言い切る叶の言葉に暗い所などない。
「叶さんて、」
 思わず口に出しかけた言葉を歯の裏で止める。訝られ、咄嗟に違うことを口走った。
「本当に宇野さんが好きなんですね」
「何だ。嫉妬か?」
「違いますよ!」
「……ま、好きなのは事実だから否定する気はないが」
「叶さんのそういう所、宇野さんは苦手なんでしょうね……」
「こればかりは性分だから、キドニーに諦めてもらうしかないな」
 どうやら、自分の性分を直すつもりはまったくないらしい。確かにしおらしい叶など想像はできない。坂井は小さく笑った。
 その優しさを分けてもらいたいなどと言えば、このお喋りな男は黙るだろうか。
 今更口付けの本当の意味を問うのは無為だろうか。
 そんなことを考えている間に、いつしか眠りに身体を掬われた。