「人が優しくなる時って、どんな時なんですかね、ドク」
「はぁ?」
打撲跡に塗り薬を塗りこんでもらっていた手が止まる。何を言っているんだと、桜内の顔が呆れに変わった。包帯を巻かれながら、坂井は苦笑する。
「いつも優しい人は置いといてですね、さして優しくもない人がいきなり優しくなったら、その原因は何だと思いますか?」
「真面目な質問か?」
「一応」
「……んー……」
桜内は紙巻に手を伸ばすとすぐに咥え、ライターで火を点けた。溜息の形に紫煙が吐き出され、部屋に拡散する。
「死ぬのが近いとわかったか、恋でもしたか、同情でもするようなことがあったか。って所じゃないか?」
肩を竦める。崩れた医者には似合いの仕草だ。大体な、と紫煙を撒き散らす。
「心理は俺の専門外だと何度言わせりゃ気が済むんだ、おまえらは。俺は外科医であって、カウンセラーじゃないぞ」
「すいません。ふと思いついたんですよ」
「考えすぎると禿げるぜ、坂井」
「怖いこと言わないでくださいよ、ドク」
笑って丸い椅子から立ち上がった。わずかばかりの金と「ありがとうございました」の言葉を残し、桜内の診療所を後にする。
外はむっとするような暑さで、まだまだ夏の名残を残している。狭い空は嘘臭いまでに晴れていた。見上げ、坂井は溜息をつく。
「……死ぬのが近いか、恋か、同情か……」
ぽつりと呟いた言葉は、ペンキを塗ったような空へ吸い込まれた。
「ジン・トニック」
スツールに腰掛けたのは、お喋りな殺し屋だ。坂井は小さく微笑むと、オーダーされたカクテルを慣れた手つきで作り上げる。叶の視線が手元に集中しているのを感じた。
あの一夜で何もかもを吹っ切ったとは思わないが、坂井の目に常にあった暗さは消えていた。自分でも、抱え込んでいたどうしようもない闇が小さくなったのがわかった。時折名残が覗くのは仕方がない。時間が経てば癒える傷とそうでない傷があるが、坂井が負ったのは間違いなく後者の傷。それは川中も同様で、恐らく坂井より深い。しかしいくら川中が強いとはいえ、すべてを割り切れたわけではあるまい。
傷が癒えないとわかっているなら、うまく付き合っていくしかないのだ。坂井は叶からそう教えられたと思っている。
閉店間際のブラディ・ドールは、ボックス席の常連も席を立ち、閑散とし始めていた。
手首を返すようにグラスを傾け、叶がジン・トニックを飲み乾す。わずかな合図に応じて二杯目を作り、空のグラスと入れ替えるように饗する。
「雰囲気が変わったな。前に来た時は気にしなかったが」
「何がです?」
「この店の雰囲気さ」
叶の言葉に、坂井はああ、と呟いた。店用の表情をわずかに崩す。
「遠山さんと沢村さんにも言われましたよ。芸術家だから鋭いのかと思いましたが」
「俺が気付いたのがおかしいって?」
「そうじゃないですよ。芸術家と同じ感覚を持ってるのかなって思っただけですから」
唇はほとんど動かさず喋り、笑う。叶も口元だけで笑った。
「……今はおまえがフロアマネージャーを兼ねてるのか」
かすかに坂井の表情が揺れた。叶の口調から他意がないのはわかった。純粋な質問なのだろう。
「社長が、新しいマネージャーを入れようとしないですから。俺も、俺が出来るから要らないと思ってます」
叶は何かを考えるような素振りを見せ、「そうか」と呟くように言うとジン・トニックを呷った。
「……早く、この店に似合いのいい男が見つかるといいな」
おまえの負担も減るだろう、と言いながらスツールから腰をあげた。グラスはいつの間にか空になっている。
いつもと変わらない叶の仕草、様子。だが帰るわけではない、と坂井は予測した。叶が帰れば客は誰も居らず、時計を見れば店を閉めるには良い頃合。きっと、車で待っている。特別な合図があるわけではないが、一瞬だけ合った眼が、来訪を予感させたのだ。
いくら待ってもフェラーリの音はやはり、聴こえなかった。