発端

「抱かれに来たのか?」
 ドアを開けて開口一番に叶が軽口を叩くのはいつものこと。違いますよと返すのも面倒になったのは、叶のマンションを訪れるようになって半年も経った頃。
 身体を重ねるようになったのは反論を返すのが面倒になった時期とほぼ同じだ。好きだったからとか、そんな甘い感情が理由だったわけではない。
 男に好んで抱かれる趣味はないが、叶に抱かれるのは嫌ではなかった。彼から誘うことはほとんどなかったし、だからといって自分から積極的に誘う真似もしない。今日のように気紛れに叶の部屋を深夜に訪れれば、そのまま事に及ぶのがお約束パターンになっていた。叶が坂井の部屋を訪れる時も同様だ。
 言い訳に使うには足りない程度の酒を飲み、酔いを醒ますからと見え透いた嘘をついてシャワーを浴びた後は、お決まりのように広いベッドへ雪崩れ込む。お喋りな男もこの時ばかりは言葉少なになった。
 叶が坂井を抱く理由は坂井にはわからなかったし、叶にも坂井が抱かれる理由はわからない。ただ、坂井は一つだけ疑問を抱いていた。叶はいつも、決して坂井に口付けようとはしない。気にしなければ気にならないし、行為には支障はない。それが二人の仲を象徴しているようにも思え、気付いた時には少しだけ笑った。理由を知ったのは、つい先日の話。
 叶は男が相手でも充分、手練れと評せる。最中に余計なことを考える余裕はない。だから抱かれたくなる時があるのかもしれない。考えてみれば、叶の部屋を訪れる時はいつも心の奥に澱が溜まった時だ。
 されるがままになる時もあれば、積極的に動く時もある。いずれにせよ求めるものは快楽ではない。快楽は求めるものに付随するものでしかなかった。
 汗の浮く躯を後ろから貫かれ、揺さぶられる。緩急をつけて前をしごかれ、わずかにポイントを外して挿入される。求める所に欲しければ自分で動けということだと坂井は知っている。
 崩れそうになる膝と腕を必死に支え、挑戦を受けてたつ。最初の頃はともかく、決してされるがままだけにならない所を、叶は気に入っていた。
 後の始末を簡単に済ませ、坂井が帰ることもあれば、ベッドから動くのが面倒な時はそのまま二人で昼過ぎまで眠ることもある。甘い言葉が交わされるわけでも、まして必要以上に密着して眠るでもなかったが、自分以外の誰かの体温と呼吸が身近にあるのは、互いに悪くないと感じていた。
 
 
 
 
 夏だった。
 叶が東京に行き、N市に戻ってきた時には友人が一人死んでいた。教えてくれたのは、不機嫌な顔を作った馴染みの弁護士。その下でどんな思いが交錯しているのか、叶にはわからない。
 いつか死ぬとわかっていた男だ。その時期がたまたま自分の不在だっただけ。
 あの男のことだから、どんな死に方をしても後悔はなかったに違いない。付き合いは長くはなかったが、存在を忘れるほど短い付き合いでもない。叶と同じ空気を持ち、深い闇を目の奥に秘めた、印象に残る男。
 死の間際に居た、川中と坂井のことが少しだけ気になった。特に坂井のことが。
 ブラディ・ドールへ飲みに行ったのは、フロアマネージャーが死んで二週間が過ぎた時。東京から帰った翌日だった。
 卒と隙のない男が客を出迎えることはない。違和感があるとすればそれだけだ。それ以外、店はいつもと変わらない。グラスを傾ける川中の前に居るのは、無表情の坂井。
「ジン・トニック」
 隣に腰掛けた叶に、川中は「よう」とグラスを持ち上げた。微笑みには心無しか、疲労が滲んでいる。気付かなかったふりで、「久しぶりだな」と返してやった。川中がグラスを空けると、間を置かず二杯目が出される。
「本当に久しぶりだな。東京に行ってたんだって?」
「ああ、店の様子を見にな」
「女もだろう」
 ニヤリと笑う川中に、苦笑だけを返す。否定しなかったのは半分は事実だからだ。
「よく女に愛想を尽かされないな」
「それだけ俺がいい男だってことだろう」
「自分で言うなよ」
 可愛げがない、と川中が笑う。
 いつもと変わらない調子に、少し安心した。一人の時がどうかは知らないが、他者に己を偽れる気力があるなら心配は要らないだろう。もともと川中を心配してやるのは自分の仕事ではないと心得ている。藤木がいなくなったなら、それは坂井の仕事であるはずだった。
 二杯目を一息に飲み乾すと、川中は叶へ軽く手を振って店を出た。そうして叶はようやく、バーテンを見上げる。
 瞬間、息を飲んだ。暗い眼をした男が布でグラスを磨いている。この世の闇の全てを双眸に閉じ込めたように、光のない眼をしていた。死んではいないが、それに近い。
 何故おまえがそんな眼をしているんだ。
 問いは寸前でジン・トニックとともに飲み込み、シガリロを咥えて誤魔化した。紫煙が、横たわる沈黙を縫って流れる。
 沈黙を破ったのはやはり叶。
「川中は、思ったより大丈夫そうだな」
 もっと毀れているかと思った。
 坂井はグラスを磨いたまま、視線もそこから外そうとしない。たかだかカウンターを挟んだだけの距離で、声が届いていないはずがない。返事をする気がないのだ。
 小さく溜息し、肩を竦めると、ジン・トニックを飲み乾した。グラスを置くと同時に席を立ち、そのままブラディ・ドールを後にした。
 話を聴かなければならない人間が、一人いる。宇野から聞いた少ない情報によれば、彼が客観的な情報を持っているはず。公衆電話から短い電話を一本かけると、フェラーリを駆り、街中を走る。さして時間もかからず、目的地へ到着した。
「案外早く帰ってきたんだな。一ヶ月は帰ってこないかと思ったが」
 叶の顔を見るなりのたまってくれたのは桜内だった。壊れそうな椅子に深々と腰掛け、机に脚を乗せてビールを飲んでいる。机の横には、アルミで出来た松葉杖が立てかけてあった。
 笑いもせず、叶は患者用の小さな椅子に座る。
「キドニーが連絡でも?」
「するもんか、あの男が。訊かなきゃ答えてくれない上に、訊いた所でまっとうな答えをくれるかもわからん。俺は、なんとなく予感がしただけさ」
「なんとなく?」
「ああ、なんとなくだ。胸騒ぎってやつさ。殺し屋には似合わないと思うか?」
「別に胸騒ぎなんぞ、職業に関係なく起こるもんだろ。ついでに言えば、年齢も性別も国籍も関係ない」
 現実主義者らしい意見を寄越し、ちらりと叶に一瞥をくれた。
「で? 胸騒ぎは見事的中、ってことを報告するために、わざわざ電話寄越して来たのか?」
「済まないが、藤木が死んだ時の様子を教えてくれないか」
「訊きたいことってのはそれか。そりゃあまあ、構わんが……」
 理由を問うていいのか迷った語尾を察し、叶は肩を竦めた。
「知っておいた方が良さそうなことがありそうでな」
「理由は訊かないでおいてやるよ」
 ビールを呷り、机に置いた。目を閉じ、居眠りしているような態勢で、ゆっくりその時のことを語り始める。
 坂井に問うた藤木のジッポ。
 川中にかかってきた土崎からの電話。
 高村の行動。
 坂井の沈黙。
 坂井が握り潰したグラス。
 マリーナへ向かう車内でのやりとり。
 着いてからのやり取り。
 二つの死。
 その後、川中との短いやり取り。
 叶は聴きながら時折疑問を挟み、桜内は思い出しながら答える。必要な話を聴くだけで、随分時間がかかった。時計の長針は二周しただろうか。
「感謝するぜ、ドク」
「まったくだ。惚れた男の死に目の話なんざさせないで欲しいね」
「惚れた男?」
「俺が藤木に惚れていたんだそうだ」
「何故伝聞系なんだ?」
「俺が自発的に気付いたわけじゃないからだ」
 知子に言われたんだと笑っている。苦笑ではない所を見ると、当たらずとも、なのだろう。
「そいつは悪かった。キーラーゴの飯で勘弁してくれ」
「ま、いいさ。それで手を打ってやるよ。今の話が何の役に立つかは知らないが」
 肩を竦め、出て行けよと言わんばかりにドアを指差す。余計な詮索をされなかったことに内心だけで感謝し、診療所を出た。
 時計はようやく二十一時半を指した。時間はまだある。情報の整理でもつけようと、フェラーリを走らせた。
 
 
 
 
「……やっぱり来たな」
 上がれよと促され、坂井はのろのろと靴を脱いだ。出迎えてくれた叶の言葉がいつもと違うと気付いたのは、物の少ないリビングに入った後だった。
 壁の時計は二時を回った所だ。
 叶はクッションのきいたソファに身を沈め、突っ立っている坂井を斜めに見上げる。視線を逸らすと、坂井は背を向けた。帰る様子ではない。
「シャワー、借ります」
 汗をかいて気持ち悪いので、と律儀に断る。ああ、と小さな声で応じてやり、壁際に置いた水槽へ視線を移した。赤や黒の金魚がひらひらと舞う姿は、普段なら仕事後の心を無にしてくれる。今は何の感慨も沸かなかった。
 あまり長く待つこともなく、坂井が出てきた。黒いTシャツとスウェットは先日買わせて置かせている物だ。
 コーヒーテーブルを挟み、フローリングへ直に座った坂井は、心なしか放心しているように見える。何を考えているのかわからない時はあったが、何も考えていないとわかった時はほとんどない。
 暫くそのまま放っておくと、ゆっくりとした動作で叶を見上げた。ブラディ・ドールで見たのと同じ、闇を集めたような眼だ。虚ろ、とは少し違う。無気力に近い。
「……重症だな」
 沈黙を破ったのはやはり叶。坂井の前に立っても、視線は外れない。
「川中と一緒になって、無理な我慢なんてしなくていい」
 切り出しは唐突だった。しかし坂井の瞳が揺れる。率直に言った方が良い。
回りくどい言葉を使えば、坂井はきっとはぐらかす。本心を明かさせるのがいっそう困難になってしまう。強引な真似はしたくない。
「おまえの強さと川中の強さは別物だ。一緒になって我慢する必要はないだろう」
 まだ小僧なんだから。
 言おうと思ったが歯の裏で止めた。言えば坂井の気持ちを余計頑なにしてしまうだけだろう。
 沈黙が二人の間を支配する。苛々するのはそれに耐えられないからだ。水槽のポンプの音だけが場違いに響いている。冷蔵庫のモーター音が、やたら大きく聞こえた。
 待っても坂井が黙ったままなのがわかると、膝を折り、顎を掴んで無理矢理目線を合わせた。逡巡しているなら、引きずり出してやるまでのこと。強引な真似は好む所ではないが、仕方ない。
「何も言いたくないなら、構わない」
 坂井の腕を掴み、強引に立ち上がらせる。
「叶さ……」
「抱かれに来たんだろう?」
 振り返らずに寝室まで引っ張ると、脚の低いベッドへ投げるように押し倒す。
 坂井は視線を合わせようとはしない。それにいっそう苛立たされる。おまえが苛立たせているんだと心の中で言い訳すると、坂井の衣服を剥ぎ取った。宇野のことならばともかくも、坂井のことで自分が苛立つことになるとは。その程度には坂井が自分の中に食い込んでいるのか。
 乱暴に肌を弄り、性急に追い上げていく。行動に余裕はなかったかもしれないが、内心は冷静だった。どこをどんな風に触れれば身を捩らせることができるのか、すっかり知っている。それを執拗に繰り返しては追い詰めた。
 情交は、叶の腹立ちを象徴するように激しい。いつもは声を出さないように堪えている坂井も、さすがに抑えきれずに漏らしている。
 体位を変え、何度も貫いたし、吐き出させた。
「おまえは、川中じゃないし、ここには川中もいない」
 耳を嬲り、荒い息と倶に囁いた。坂井が聞いているのかいないのかはわからない。叶の躯の下で、ぐったりと顔を背けていたが、ぴくりと肩が震えた。肩や胸のあたりを掌で撫でる。まるで怪我を負った場所をさするように。
「悲しい時は、悲しんでいい。藤木の死が納得できないなら、そう言っていいんだ。川中の次いで奴の傍にいたのは、おまえだろう」
 穏やかな声音で言うと、下にいる坂井の表情が明らかに歪んだ。両腕で顔を隠す。
「社長が……泣かなかったの、俺が……先に泣いた、から……っ」
 ようやく、落ちた。
 行為を止め、坂井の髪を撫でてやる。
 藤木の居ない重圧に潰れそうになっているわけではなかった。そんなに坂井は弱くはない。だが、もっと根本的なことで悩んでいるのだ。
「悲しみ方は一つじゃない。涙を流さなくても、川中は泣いた。心の中でだ。
それだけさ」
「でも……っ」
「藤木が川中に泣いてもらいたかったとは思えん。だから、いいんだ。藤木のためになってる。奴が誰に泣かれたくなくても、川中の代わりにおまえが泣いたことくらい、きっと苦笑一つで許してくれるさ」
 それに、と言葉を継いで顔の前の腕を外させる。予想通り、涙で濡れていた。
親指で拭ってやる。闇に囚われていた瞳は、幾分光を取り戻しつつあった。
「おまえも、惚れてたんだろう? 藤木に」
 だから悲しむことで罪悪感に捕らわれることはない。
 坂井は息を飲み、ようやく叶の顔を見上げた。応えるように微笑むと、やおら腰を進める。短い声をあげ、坂井の躯が跳ねた。
 おまえはもっと泣くべきだ。近しい者の死に、慣れていないのだから。
「呼びたい奴の名を呼べ」
 囁くと坂井の腕を取り、自分に抱きつかせる。何か言おうとした坂井の腰を掴み、揺さぶった。理性など吹き飛ばしてしまえばいい。
 途中で浮いた熱を取り戻すように、抽挿を繰り返した。背に立てられた爪が、徐々に深くなる。
「……っ、じきさ……ふじき、さん……ッ」
 ようやく素直になった躯を一度強く抱き締め、始めた時のように荒々しく扱った。
 坂井は泣きながら、藤木の名を幾度も呼ぶ。
 その表情が。声が。
 叶の胸を痛ませる。
 何故痛むのか、その理由はわかっていた。坂井に色々許していることが多いのも、そのせいだ。けれども叶はそこから目を逸らした。
 感情を否定する気も肯定もするつもりもない。だが自分の心は一つ所に置いたと自分で決めた。それなのに別の者に囚われるのは、自分で自分が信じられない。
 存外自分は気が多い性質だったらしいと、内心で自嘲した。
 
 
 
 
 躯を離した時、日はほぼ昇っていた。遮光カーテンから漏れる光でそれを知る。
 すぐには動けない坂井の躯を大雑把に拭ってやり、シーツを敷き替える。流石に汚れきったシーツを敷いたまま寝る気にはならなかった。
 無茶をした自覚はある。薄ら躯が重いのも久々だ。自分がこうなのだから、坂井も同様かそれ以上だろう。しかし仕事に支障が出るほどではないはずだ。
「叶さん……」
 呼ばれ、振り返る。坂井の黒い瞳が真っ直に叶を見つめていた。シガリロを咥えたまま「なんだ」と返すと、坂井は子供のような笑みを口元に滲ませた。
「ありがとう、ございました」
「……礼を言われるようなことはしてないぞ」
 微笑に暫時見惚れ、反応が遅れた。誤魔化すようにシガリロに火を点け、独特の香りを吐き出す。
 それでも、と坂井は睫毛を伏せた。浮かぶ笑みはふわふわと優しい。ようやくいつもの坂井に戻ったか。
「叶さんのおかげです」
 相当眠そうだ、と叶は判断した。そうでなければこんな無防備な笑顔を晒すことはないだろう。揺れる自分がどうかしているのだ。
 ベッドに腰掛け、汗で貼り付いた前髪を払い、梳いてやった。
「そういうことに、しておいてやるさ」
「お礼は、ジン・トニックでいいですか?」
「そうだな……」
 それでいい、と言いかけ、止める。坂井に覆い被さったのは考えがあってのことではない。何ですかと問われるのに構わず顔を近付け、唇を触れ合わせる。
 驚いたようだったが、抵抗はなかった。顔の角度を変え、柔らかな唇に、舌を這わせる。小さく躯が震えたが、構わず口内へ滑らせた。ぎこちなく、坂井も舌を絡めてくる。
 舌は恐らく、シガリロの味がするに違いない。苦いだろうか。それとも甘いだろうか。
 幾度も角度を変えて深く口付け、息があがる頃になってようやく唇を離した。
これ以上躯に火を点けては、いよいよ起き上がれなくなりそうだ。
「……礼は、今のでいいぞ」
 親指の腹で坂井の唇を撫で、にやりと笑ってやる。再燃しかけた情欲は、それで誤魔化した。坂井はそれがわかったのかわかっていないのか、小さく苦笑しただけだった。
「寝ろよ。昼過ぎには起こしてやるから」
「そうさせてもらいますよ」
 笑ってから目を閉じると、すぐに穏やかな寝息が聞こえ始めた。寝つきがいいにもほどがあるが、激しい情交の後だ。無理はない。
 すっかり灰ばかりになったシガリロを灰皿へ押し付けると、坂井の横に体を寝そべらせた。叶もまた疲労しており、速やかに睡眠の海へと落ちてゆく。
 そういえば坂井との口付けは今のが初めてだったと、落ちゆく意識の中で気が付いた。