ブラディ・ドールの営業時間は夜7時からだったが、常連、ことに川中と親しい連中に限っては開店時間以前から入店することも珍しくなかった。毎日ほぼ定時にやってきて藤木のシェイクしたドライ・マティニィを飲み、また仕事へと戻る。そんな川中に会いに来る者もいれば、気紛れに目的もなくやって来る者もいた。
その日の叶は、どちらかといえば後者だっただろう。川中の隣に座ってはいたが、別段何を喋るでもなくジン・トニックを呷っていた。お喋りな殺し屋にしては珍しいこともある。明日は雨が降るだろうかと、開店前のチェックをしながら藤木は思った。
半分ほど中身がなくなったグラスを眺めていた叶が、ふと視線をカウンタへ寄越す。
「坂井、お前ちょっとこっちに来い」
カウンタ越しに叶が手招きする。口元にはあるかなしかの微かな笑み。異性であれば見蕩れたかもしれない微笑だが、坂井の脳内では警報が発令されていた。
――ロクなことではない。
ちらりと時計を見れば、既に営業時間を回っていた。それにかこつけて、丁重に断ることにする。
「……仕事中ですので」
「まだ客は入ってないだろう。いいから、ちょっと」
後で好きな物を奢ってやると追加され、坂井の心は瞬間的に揺れた。それを叶のみならず、川中も感じ取ったのだろう。吹き出すように小さく笑うと、「まぁ少しなら構わないだろう」と叶の後押しをした。
川中にまで言われては、断れる坂井ではない。渋々といった様子でカウンタから出てくると、叶の脇に立った。叶は「ふむ」と腕を組み、坂井の頭から足の先まで眺めた次に、突拍子もないことを言って寄越した。
「ちょっと両手上げて」
「はぁ?」
「いいから」
客が入る前に早く、と急かされ、首を傾げながらも素直に小さな万歳をしてみせる。「もっと手を上に」と言われ、自暴自棄のように万歳をしてやった。
「一体何なんですか、叶さん」
これで意味はないとか言ったら殴るだけじゃ済みませんよと、坂井は言おうとした。が、出来なかった。坂井のみならず、その場にいた叶以外の人間の思考が停止した。冷静沈着なフロアマネージャーですら例外ではない。
「……思った通り、案外細いな」
スツールから降りた叶は、坂井を抱きしめていた。両腕で、しっかりと。ばかりか、背中を撫で、腰を掴む有様。
「うちの社員にセクハラは勘弁願いたいですね、叶さん」
さすがに立ち直りが早かったのは藤木だった。二人の脇に立ち、小さく咳払いまでしてみせる。
「女性社員じゃなくて何よりですが」
問題はそこではありませんマネージャー。
社員のツッコミは心中のみだったので、藤木に届くことはなかった。
叶は視線を藤木に移すと、口角を釣り上げた。その時にはもう、スツールに収まっている。固まったままの坂井の両腕を下ろさせると、残り半分になっていたジン・トニックを飲み干した。
「君は細いように見えて、案外しっかりした体格だろう」
叶の隣で川中が咽そうになったが、気合で口に含んだマティニィを飲み下した。
「……人並み程度には」
「謙遜する必要はないのに」
笑いながら「ジン・トニックだ」とグラスの底でカウンターを軽く叩く。その音で我に返った坂井が叶に食って掛かろうとしたが、それより早く藤木に肩を抑えられ、自制した。
「ジン・トニック」
微笑みながら寄越す再度の要求を睨んでやりながら、カウンターに戻った。
人間の身体的機能の一つとして「眼からレーザービーム発射」というものがあったなら、間違いなくそれで叶を殺していただろうと思われるほど強い眼光だったが、叶本人は気にするでもなく上機嫌に足を組んだ。
「すまんな、坂井。飯は3食分奢ってやるぞ」
「当たり前です」
他の社員の前で余計な恥をかいたと憮然としている。不機嫌な理由はもう一つか二つありそうだったが、これは叶にはわからない。相変わらず流れるようにカクテルを作る動作を眺めた。
「何がやりたかったんだ、叶」
苦笑混じりに川中が問うのに、叶は微笑を返した。いつもよりやや乱暴に置かれたジン・トニックを口へと運ぶ。
「あんまり掴みやすそうな腰をしてるから、つい誘われた。というか、好奇心というか」
「ついって……」
「誰も誘ってませんよ!」
坂井の心からの抗議も、叶の耳には入っていないらしい。
「俺との身長差的には藤木で試してみたかったんだが、絶対に万歳なんかしてくれそうにないしな」
「…………」
「…………」
「…………」
「ん? どうした、皆黙り込んで」
「叶。好奇心で身を滅ぼすような真似だけは止めておけ」
これは友達としての忠告だ。
真顔で言った川中の顔を、叶は怪訝そうに眉を顰めてから「そんな馬鹿なこと、俺がするかよ」と言い切った。
客がいなくて良かったと、いつの間にか持ち場へ戻ったフロアマネージャーは心底から溜息を吐いた。