やられた、と思った。左腕に灼熱が走る。
咄嗟の行動は、下村の方が早かった。素早く坂井を胸に庇い体を伏せさせると、コートのポケットに突っ込んでいた掌サイズの銃を取り出し、迷いなく引き金を引いた。銃口が二度火を噴くと、数人の足音が遠ざかっていくのがわかった。
倉庫の壁に坂井の背を預けると、下村は男達が逃げた方向を睨み、走り出そうとする。坂井も当然のように追おうとした。
「馬鹿、無理に動くな」
「何言ってる。この程度で俺が死ぬとでも思ってんのかよ」
笑いに唇を歪めたが、存外真剣な眼差しが右肩を掴んでコンクリート壁に坂井を押し付けた。
「いいから、そこに居ろッ!」
有無を言わさぬ迫力。一瞬言葉に詰まった坂井に、ふと微笑んだ。いつもの、口の端だけ釣り上げる皮肉っぽい笑い方だ。
「……こんなの、俺だけで充分だろ」
お前が行くには及ばねぇさ。休んでろ。
声音は既にいつもの調子で。つい先の切迫したような迫力はどこにも見受けられなかった。まるで幻のように。
「俺が戻ってくるまで待ってろ。動くなよ。ドクには連絡入れた。すぐに来てくれる」
動くな、ともう一度言い置き、コートを翻す。坂井はそれを追うことも出来ず、倉庫の古いコンクリート壁を背に、蹲った。
銃弾は、左の上腕を恐らく貫通している。焼けるような痛みがあり、腕を上げることはできない。走ることは出来るだろうが、それ以上のことは片腕だけで出来るかわからない。例えば、道具を持った相手とまともにやりあえるかどうか。
相手がプロでないことと人数が少ないことは情報として伝わっていたが、一人で突っ走っていい場面ではない。罠がないとどうして言える? 向こうはここで待ち伏せていたというのに!
「馬鹿野郎……ッ!」
奥歯を噛み締める。
下村が帰ってくるのはわかっている。いや、帰ってくるはずなのだ、彼は。まだその時は来ていない。来ていない。
湧き上がる不安を必死に打ち消す。大丈夫だと。
苛立たしいのは悔しいからだ。下村の言葉で動けなかった、自分が悔しいからだ。それ以外の理由であってはならない。
畜生、と呟きコンクリートの壁に拳を打ち付ける。痛みすら感じなかった。
大きく息を吸い、吐き出す。打った拳の隣に、敵が撃ち込んだ銃痕が見えた。
「畜生……」
吐息は熱い。生きている、と思う。いや、死なないと思うのだ。まだこんな所では死ねない。川中を、下村を残しては逝けないだろう。
慌てたようなエンジン音が聞こえた。聴き慣れたポルシェの音。理由はわからないが多分、川中がドクを連れて来たのだろう、と見当をつける。思ったよりも随分早い。それとも自分が意識していないだけで、時間が相当経ってしまっているのか。だとしたら何故あの男はまだ戻ってこないのか。
駆けつけた桜内と川中の顔を見、安心してしまったのか気を失ってしまった。
目が醒めたのは白っぽい部屋。どこと思うまでもなく、桜内の診療所だろう。沖田蒲生病院よりこちらの方が、隠れた手術には向いている。人が居ないからだ。
「おう、起きたか。気分はどうだ? って言っても腕だから、大丈夫に決まってるだろうがな」
缶ビールを飲みながら起き抜けの坂井に言って寄越したのは、桜内だった。
上体を起こし、室内を見回す。居るかと思った人間が居ないことに気付いた。
「……社長は?」
「川中なら、下村を追っかけてったままだ。かなり怒ってやがったからな。ありゃ当分戻らんだろう」
喉の奥で笑い、ビールを呷る。
「俺、どのくらい気を失ってました?」
「四十分くらいだろ。出血は少なくないが、今補充してるから……何してるんだ、坂井」
床に脚をつけたかと思うと、点滴の針を引き抜いた。点滴のパックはまだ充分に残っていた。針からぽたぽたと赤い液体が零れ落ちる。坂井はそれを無感動に見下ろすと、顔を上げて呆れた顔の桜内を見つめた。
「お願いがあるんですけどね、ドク」
「……野郎の願いなんざ聞く耳は持ち合わせちゃいないんだがな」
溜息を吐いたのは、存外坂井の視線が真剣だったからだ。理由もなく点滴を引き抜く真似を、普段の坂井ならしない。何かあるのかと、目線だけで問うてやった。
促す桜内の視線を受け、坂井は小さく頷いた。
「……なんだと、桜内。もう一度言ってみろ」
呆れたというより、どこか呆然とした声音だと、桜内は思った。一緒にやってきた下村も、川中と似たり寄ったりの表情だ。
面倒臭そうな口調を選び、揶揄してやる。
「その年でもう耳が遠くなったか、川中」
「もう一度言ってみろ」
凄みを増した迫力にたじろぐわけでもなく、桜内は小さく肩を竦めた。呷った缶ビールの中身はほとんど入っていないらしい。一気に飲み干してしまうと、カルテの乗ったテーブルに置いた。
「ジョークが通じないわけじゃないだろう」
「時と場合を選べ。それで、坂井はどうしたって?」
「だから。俺がちょっと席を外した隙に、居なくなっちまったんだよ」
「……腕は?」
感情のない声で問うたのは下村。感情がないわけではなく、押し殺している。そんな風にもとれる声音だった。
下村の体をざっと見るが、服の上からでは外傷があるかどうかはわからない。少なくとも顔には何の怪我もなかった。
「治療はしたさ、当然。幸い弾はハローポイントじゃなかったみたいだし、綺麗に貫通してたからな。処置も楽なもんさ。ただ、ちょっと太い血管をやられてたから、血はいっぱい出てる。だから点滴は打っておいたんだが……まさかいなくなるとは思わないだろ、坂井に限って」
「坂井の出血はそんなに酷かったのか、ドク」
「五百ミリ以上、一リットル以内ってとこだろう。まぁ総出血量が全血液の十パーセントに満たないから、死ぬってことはないな」
ちなみに点滴のパック1つ分が四百ミリリットルだ、と余計な注釈までくれた。川中は腕を組んで眉を顰めた。
「多いのか少ないのかわからん」
「まぁきっちり点滴しないで歩いてたら貧血で倒れるだろうね、間違いなく」
今日は晴れてるね、と言うのと同じくらい当たり前で何気ない言い方をするが、口元は皮肉の形に歪んでいる。
桜内の神経質そうな指が坂井に落とすはずだった点滴のパックを指差す。傍目にはほとんど減っているようには見えない。つまり、坂井は血を流しながらほとんど点滴で補充もせずに出て行ったということ。
川中が更に何か言おうとすると、バタンと勢い良く診療所の扉が開閉され、次には階段を駆け下りる音がした。下村の姿が消えている。
桜内は「やれやれ、やっと行った」と溜息をつき、煙草に火を点けた。
「……どういうことか、説明してくれないか、ドク」
俺にはさっぱりわからん、と川中が患者用の椅子に座る。銜え煙草で桜内が笑うと、煙草も揺れた。
「端的に言うなら――犬も食わない、って奴さ」
やっぱりわからん、と呟く川中に、桜内は声を上げて笑った。
桜内の診療所を出てから、下村は走って町の中を駆け回っていた。
(く、そ……どこ行った、坂井)
我知らず舌打ちしてしまう。
坂井が撃たれた後、東京からの客を伸してしまうと、川中がやってきた。静かな口調で「帰るぞ」とだけ言われ、大人しく従った。
おそらく、少し前からあの場にいたに違いない。下村が窮地に陥るか、客を殺してしまおうとしない限り、途中で手を出すつもりはなかったのだろう。それでも、腹にきついブローだけは食らった。
「俺の知らない所で、あまり無茶はするな」
簡潔な一言は、しかし厳しい。わかりましたと応えたが、きっとまた自分は繰り返すだろう。
突っ走る所がある。いざとなれば坂井や川中の制止は聞かない。その突っ走りは、潔癖気味な性格に由来する。
汚れるのが許せないのだ。
大切な人が汚れるくらいなら、己が汚れた方が良い。そんな風に考えている。それだけの話だ。だから坂井にも来るなと言った。
(……それだけじゃ、ないけどな)
そっちの理由は本人に言ってやる気はない。わかってもらえなくても良い。
「くっそ……あいつ、どこ行ったんだ!」
さすがに上がった息を整えるため、立ち止まって肩で息をする。大体、町のどこへ行ったとも知れないのに走って一人で探そうとする方が間違いなのだ。遅まきながらその事実に気付き、回らぬ頭で考える。
坂井の所の若い連中を使うのは、止めておいた方がいいだろう。あれは坂井が面倒を見ているんであって、自分が見ているわけではない。それなら、徹底的に消去法で行くしかない。坂井の立ち寄りそうな場所はどこか。
桜内の診療所から一番近いのは、キドニーの事務所だろうか。ちらりと腕時計に目をやる。二十二時過ぎだ。さすがに開いていないとは思うが。
「……万が一、か」
行くだけなら安いとばかりに、方向転換をして走り出した。冬場とはいえコートを着たまま走っていると暑い。黒のコートを脱ぎ、掴んだまま走る。
結局、下村が自分のねぐらに帰ってきたのは午前を大分回ってからのことだった。坂井は見付かっていない。
「貧血の癖に……どこ行きやがった」
悪態を吐いても、焦りは消えない。もしかしたら、昨晩伸した男たちにはまだ仲間がいて、そいつらに捕まっているのかもしれない。普段の坂井なら逃げるくらいわけないだろうが、今は手負いだ。血も足りていない。派手に立ち回れば倒れるのは想像に易い。
「く、そ……!」
安全な場所へ置いたと思ったのに。
「あいつ……絶対意趣返しだ……」
ぐったり手摺りにもたれながら、安アパートの自室へ上がった。ポケットから鍵を取り出し、ノブへ手をかけた所で、いつもと違うことに気付いた。
ドアに鍵はかけたはずだが、かかっていない。慎重に部屋の中の気配を伺えば、何かいるような気がする。
東京からの客ということはありえるだろうか。
考えながら、音を立てないようにノブを回し、部屋に滑り込むように入る。殺気はない。だからといって油断はできない。息すら押し殺し、足音を潜めた。
「おかえり」
剣呑な声には覚えがある。まさか、と明かりを点ける。白色灯の下、パイプベッドに転がっているのは下村が捜していた当の本人。
「お前っ……なんでここに居るんだよ?!」
憮然とした表情の坂井が、腹筋だけで上体を起こすのを茫然と見下ろした。
坂井は怒ったような顔で下村を見つめ返す。
「タクシーと合鍵」
合鍵は以前、下村が風邪を引いた時、病人にいちいち鍵を開けさせるのも悪いからと坂井に言われて作り、渡した物だ。同様の理由で、下村も坂井のアパートの鍵を持っている。
日曜の夜に走る数が減るとはいえ、タクシーを考えなかったのは全く、迂闊だった。
動転していたものが収まると、下村は不機嫌な坂井を見つめた。疑問は他にもある。
「……何でドクの所から逃げ出したんだ」
「…………」
坂井は怒気を孕んだまま沈黙している。理由はなんとなくわかっているからそこは無視をした。
「点滴ちゃんと受けてないだろう」
「点滴が必要なほどの血は出てない」
「嘘つけ。ドクが五百ミリ以上一リットル以内の出血だって言ってたぞ」
「それは俺がドクに頼んだ嘘だ」
実際には輸血パック一つ分にも満たない程度の出血。
下村が眉を跳ね上げるのと、坂井が下村のシャツを掴んで引き寄せるのはほぼ同時だった。
バランスを崩して坂井の上に倒れかけるが、咄嗟に手をつき身体を支える。坂井の上に覆いかぶさる態勢になった。
「何しやがる」
「それは俺の台詞だ」
「何?」
「一人で突っ走るなって、何度言わせれば気が済むんだ」
睨む目に力が篭もる。剛さに、息を呑んだ。
「お前ばっかり背負おうとするな。俺はヤワじゃないし、まだ死ぬつもりはないからな」
圧倒されそうな視線。肌を刺し、痛みを感じるほどの怒気。
しかし、下村はふと笑みを漏らした。いつもの皮肉っぽい、口の端だけの笑みだ。
「……知ってる」
「知ってても解ってなければ同じだ」
「……そうだな」
「殴る前に聞かせろ」
「殴るのかよ」
社長にも強烈なのを貰ったのに。
苦笑する下村を「自業自得だ」と冷たく切り捨てる。異論はないので小さく頷いた。
「どうして、一人で行った」
「そうしたかったから」
「なんで?」
「……なんとなく?」
「殴るぞテメエ!」
「殴ってから言う台詞じゃねえだろ!」
社長と同じ所殴りやがって、と膝を床について腹を押さえる。鋭い一撃は、怪我人のものとも思えないほど重かった。
「何となく、で命張るのかお前は」
坂井の口調は冷ややかで、かえって彼の怒りが深いと教えてくれる。
いいんだ。下村は小さく微笑んだ。
「その瞬間に俺が自分に納得してたら、そのために死んだって構わない」
生きるために死ぬわけでも、死ぬために生きているわけでもないけれど。瞬間の「理由」に納得が出来るなら、それだけで満足だ。
一度死んだようなものだ。いつ死んでも文句はない。だから、誰かが死ぬより先に死ぬのは自分で良い。
坂井の漆黒の目にあった怒りがにわかに強くなり、やがて悲しみに変化する。下村のシャツを掴み、肩のあたりに額を擦りつけるようにもたれた。
本当は気付いていた。
来るな、と言った下村の眼。
――置いていかれるくらいなら、置いていく。
この男がそういう人間なのだと。
「……馬鹿野郎」
震えた声が、下村の耳朶を打つ。すまん。出かかった言葉を、寸前で飲み込んだ。
卑怯者にはなりたくなかった。