レナを川中が訪れた時、客は川中自身しかいなかった。閉店間際というのもあるだろうが、レナの立地自体が客を積極的に集める所ではない、ということも関係していただろう。
カウンターのスツールに腰掛けると、バーテンは川中が注文しない内から酒とシェイカーを取る。
シェイカーを鮮やかに振る、その手。
動いている物をつい目で追ってしまうのは習性と言って良かったが、藤木の手の中にあるシェイカーを見つめてしまうのは、それとは違う理由のような気がする。
計ってもいないのに、グラスにぴったり注がれたマティニィ。一息に飲むのが惜しく、三度に分けた。
店に静かに横たわるこの空気は、嫌いではない。
看板前に来るのはいつものことだが、一度も厭な顔をされたことはない。日付が変わったこんな時間にふらりと立ち寄るのも、それに甘えているのかもしれない。
甘いのとは違う穏やかな空気を壊さぬよう、川中は口を開いた。
「……なあ」
俺の所へ来いよ。
台詞だけはいつもと同じで口説いてみる。返される答えはいつも同じだった。それはこの日も変わらない。
藤木はカウンターの中で小さく苦笑すると首を横に振った。
「ここを離れるつもりはありませんよ」
いくら誘っても無駄だと、言外に示している。にも係わらず、川中は藤木を口説いた。口説かない夜もある。それが川中の気紛れなのかどうか、藤木にはわからない。
川中に、マティニィを出すのは嫌いではなかった。
初めてシェイクしたドライマティニィを注文された時には軽く驚いたものだが、バーテンの対応と腕を試すものではなく、純粋に飲みたいだけなのだとすぐにわかった。意地悪をしようという人間が、あれほど屈託なく笑えるものではないだろう。
視線で促され、二杯目のマティニィを作る。流れるように淀みない動作で作られたマティニィを、川中はやはり美味そうに飲み干した。自分が作るカクテルが美味いのかどうか、藤木にはわからなかったが、川中がそういう表情をするなら悪くはないのだろう。そう思っていた。
「俺の所へ来る気は、まだないか。……俺が来るのも嫌だったかな」
カウンターテーブルに肘を着き、顎を支えるようにして斜めに藤木を見つめる。いいえ、と藤木が微苦笑した。
「厭だったらそう言ってますよ」
そこまでお人良しではないと継ぎ、空のグラスを下げた。川中は小さく笑い、「それならいいさ」と席を立つ。
「君が首を縦に振る日が、今日じゃなかったってだけの話だ」
その時まで口説き続けるさ。
少年の顔で笑うと、金を置いて出ていく。ドアが閉まると、藤木は肺の奥から溜息を吐き、煙草を咥えた。