靴音を絨緞が消す。ゆっくり店内全部を見回し、開店前のチェックをする。特に見回している仕草はないが、さりげなく店内を見ているに違いないのだ。そんな下村の仕草は忘れられない人を思い出させた。
坂井は目を伏せ、グラスを磨くことに没頭しているふりをした。川中は既に帰った後。下村が入口近くへ行けば、プラティ・ドールは開店する。
下村が入ったことを除けば、店はいつもと変わりなかった。あの日から、まだそんなに経っていないはず。それでも何年も前のことのように思う。
開店して暫くすると、まばらに客が訪れた。オーダーの入ったカクテルを、坂井は無駄のない手捌きで作り、ボーイに渡す。
顔を上げると、下村と目があった、ような気がした。瞬きの間に下村は背中を向けたのでよくわからない。何か問いたげだったようでもあるし、ただ目が合っただけのようでもあった。坂井にはどちらかわからない。
週の谷間だったせいなのか、売上が激しく落ち込むことはなかったにせよ、客足はいまいちだった。たまにはこんな日もあるさと、川中なら笑うだろう。
片付けを済ませると、坂井は赤いベストを脱ぎ、ロッカーにかけた。晩飯は何を食べようかと考えていた所で、下村が控え室にやってきた。坂井を見ると口元だけで笑い、「よう、天使」と寄越す。それは止めろと言ったのに呼び続けてくるのは、最早嫌がらせだろうか。
「……お疲れ」
苦笑して返すと、下村はタキシードを脱ぎ始める。下村の方が年下だったが、坂井は自分に対する下村の砕けた口調を咎めたことは一度もない。坂井がそんなことを気にする性質ではないというのもあったが、皮肉屋で斜に構えてる割に、それを許せてしまう何かが下村にはあった。それに年下といっても、たかだか数ヶ月の差だ。気にする方がどうかしている。
坂井がTシャツとジーンズに着替えている間に、下村も着替えが終わったらしい。腕一本ない状態にも、どうやら慣れたようだ。順応力が高いといえば、そうなのだろう。
「なあ、なんか言いたいことあったんじゃないのか」
ふと下村の視線を思い出し、問うてみた。返事はない。小さく肩をそびやかして笑っただけだ。気のせいだったのか、言う気がないのか。
「ま、言いたくないならいいけどさ。……なんか食いに行かないか」
坂井の誘いを、下村は二つ返事で承諾した。
幸い、行きつけの赤提灯はまだ開いていた。出されるものを待つ間に、下村は煙草を咥える。片手でマッチを擦る仕草は、手馴れたものだ。どうせなら簡単に火が点く安いライターにでもすればいいものを。思ったが口にはしない。こだわりがあるなら、他人がどうこう言う問題ではなかった。
出された豚足を摘みながら、ビールを胃に流し込む。下村の吐いた紫煙が、目の前をひらひらと流れていくのを、なんとなく目で追った。
煙草が半分ほどになっても、下村の箸は進まない。ビールを一口二口飲んだくらいだ。腹が減っていないわけはないだろう。坂井の皿が空になっても、下村の皿は三分の二は残っていた。
「……なんかあったんじゃないのか」
何気なく、切り出してみた。
下村が悩んでいる風には見えない。だからといって悩んでいないとも断言できない。表面だけでは判断できないものが、人間にはあるからだ。笑っていても泣いている人間はいる。下村が積極的に人に悩みを打ち明けるようなタイプの人間ではないことくらいは先刻承知だが、本人の問題だと突き放してやるには、気になる所があった。あの視線のせいかもしれない。
店に来て三本目の煙草に火を点けた所で、下村はようやく口を開いた。
「藤木って人のことを考えていたんだ」
「藤木さん? 何故?」
「ちょっとな」
「そこまで言ったら言えよ」
「……どんな人だったのかと思って」
「なんだよ。聞いたことがないわけじゃないだろ」
「まあな」
話には何度も聞いていた。今まで会った、色々な人間の口からその名は出てきた。朧ろげながら、どんな人間かというのは想像できたが、実の所はよくわからない。
誰の口から聞いても、さほど気にならなかった。学校で歴史を習うのと同じ感覚で、そんな人がいたのかと思うだけだ。
気になったのは、川中の視線が原因だ。
今日、下村を見ていた川中の視線は、本当には下村を見てなどいなかった。何か失敗があったかと思ったが、思い当る節はない。しばらくして、自分を通し、誰かの影を追っていたのだと気付いた。それが藤木だと確信したのは、皆の藤木に対する評価だった。
自分を見ていないことが気になったわけではない。自分と藤木に何か共通点でもあるのかと考えただけだ。単に藤木と同じフロアマネージャーだからという理由では、川中の双眸に垣間見える影の理由にはならない。
「お前と藤木さんの共通点ねえ……」
反芻して呟いたきり、坂井は沈黙した。
外見的特徴ではありえない。藤木と下村では、容姿に違いがありすぎる。とすれば内面だろう。
下村が寄越した豚足も平らげ、大根の煮たものも腹に収めるとビールを飲み干した。藤木の面影を追うように、ジーンズのポケットへ手を突っ込む。大切なジッポが、指先に触れた。表面に刻まれた文字。藤木を現した碑銘。彼の言葉がいくつか、頭に浮かんだ。
「……巧く言葉にできそうもないな」
川中が下村に藤木を重ねているなど、川中の前にいたのに気付かなかった。とすれば川中にとっては無意識だったのだろう。
「新しいフロアマネージャーの働きを比較してただけかもしれないし」
気にすることはないさと坂井は下村の肩を叩いた。下村は四本目の煙草を灰皿に押しつけ、頷いた。坂井の発言が的外れだということだけは、二人ともわかっている。
下村が立ち上がり、「行くか」と勘定を置く。
「待て。俺が誘ったんだから、俺が払う」
財布を出そうとすると、下村はそれを押し留めにやりと笑った。
「宿代だと思ってとっといてくれ」
「……また俺の部屋に泊まる気か」
「いいだろ」
何しろ俺の天使は優しいから、と勝手なことを言う。
坂井は苦笑し、頷いてやった。週末にはこの男の部屋も決まり、引っ越しができる。それまでの間なら、居させてやっても良い。ただし、条件があった。
「俺のことを天使って呼ぶな」
店を出、坂井の車に乗り込みながら「わかったよ、天使」と下村は笑った。
ホテルに泊まるだけの金があったのにそうしたくなかったのは、一人でいれば会ったこともない男のことを考え続けてしまいそうだったからだ。
運転席に座った坂井の肘を肩のあたりに食らっても、下村は小さく笑っていた。