碑文

 藤木。
 呼びかけて、慌てて口を噤んだ。取り繕うように口元へ手を当てる。坂井が一瞬だけ妙な顔をしたが、何も言ってこない。空になったグラスを下げただけだ。
 ショットグラス丁度に注がれた、シェイクしたドライ・マティニィ。あの男が作ったそれを最後に飲んだのは、一体いつだったか。
 無意識に煙草を咥えると、坂井がさりげなくジッポの火を点けてくれる。飾り気のないシンプルなジッポは、昨日まであいつの持ち物だった。すでに坂井の手元にあったが、それでもあいつの物だった。
 坂井がしまいかけたそれに、何か文字が書いてある――いや、彫られているのが見えた気がした。
「それ、どうしたんだ?」
「藤木さんから貰ったんですよ」
 ポケットにしまいかけた形で、ジッポを握りこむ。愛しい物、というより、何某かの決意を掴む表情。あの男のジッポを坂井が持っている経緯は、昨日聞いたように思う。
 坂井に初めに会った頃は「坊や」などと呼んでいたが――事実青臭い所のある若者だった――、今その欠片すら見えない。成長した、のだろう。
「……俺が訊いたのは、文字の方さ」
 マティニィを二口で飲み乾し、「始めから彫ってあったわけじゃないんだろう」と付け足した。坂井は何とも言えぬ表情をして頷いた。
「墓碑銘を、刻みました」
 掌を開け、ジッポをこちらへ見せてくれる。
 呼吸が、止まるかと思った。
 ジッポの表面、刻まれた文字へ手を伸ばした。指先で撫でる。坂井の体温で少し温まったジッポ、刻まれた文字の膚触り。まるであの男の膚に刻まれた傷痕と同じ。
「……巧い言葉をくれてやったもんだ」
 それだけ言うと、俺は席を立った。それだけしか言えなかった。それ以上何か言えば、多分俺の中の何かが毀れる。
 坂井がこの夜二度目の妙な表情をする。何か問いたそうにしていたが、構わず店を出る。
 これ以上、店にいるのが堪えられなかった。
 たった二十四時間前だ。二十四時間前まで、あの男はこの世にいた。