座っている時に後ろから抱きしめられるのは、なんだか子供のようで気恥ずかしいと、有栖川は思っていた。しかし慣れてみると、冬場には暖かくて悪くないと思うようになった。
暖か過ぎて眠くなってしまうのが、欠点と言えば欠点か。その上、頭など撫でられてしまっては眠るなというのが無理な話だ。
「アリス?」
「……寝てませんよ」
眠気に囚われかけていた有栖川の返事は、やや遅れた。首から肩のあたりに振動が伝わる。江神が声をたてずに笑ったのだ。
「何、笑うてるんですか……」
咎める台詞だが、どうにも眠気が滲んでいる。
江神は目の前の後ろ頭に口付けると、脇から有栖川の腹へ回した手で、宥めるように軽く叩いた。
「すまん。あんまり可愛いもんやから」
「何がですか……」
目を擦ると、やんわりその手を取られる。
「赤うなるで? や、腕の中でどんどん大人しなって力抜けていってるのを感じてな。こう、ようやく人見知りする猫か犬が懐いてくれたみたいな嬉しさがあるんや」
有栖川は体を傾け、背後の江神を振り返る。軽く睨むように見上げたが、江神は微笑んでおり、効果があるとは思えない。
「嬉しくないですけど」
「前は嫌がってたやろ? 最近は大人し抱かせてくれるやん」
それが嬉しいのだと江神は言う。有栖川は再び背を向けた。真っ正面から言われ、気恥ずかしかったのだ。
「……背中が温くて気持ちええだけです」
「それでも嬉しいんや」
アリスに触れるから。
さらりと言ってのけると、有栖川の髪に鼻先を埋める。そのまま、返す言葉もない有栖川の頭を撫でると、ちらりと腕時計に目をやった。
「終電なくなってまうよ?」
帰らなくて良いのかと問うと、有栖川はしばし逡巡した。しかし明日の授業の用意を持っていないことに気付くと、小さな声で「帰ります」と告げる。
暖かな体温とは離れがたかったが、学生たる本分を忘れては学費を払ってくれている親に申し訳ないというのが理由のひとつ。明日提出の課題が残っていて、片付けなければならないのを思い出したのがもう一つの理由だ。
本当は、まだここに、江神の傍にいたいというのが有栖川の本音だったが、そのために課題提出をサボったと江神に知られれば、矢吹山の飯盒の時のように叱られるかもしれない。教科の点数が危うくなるよりよほど、そちらのほうが恐ろしい。
「ほな、送ってこうか」
立ち上がり間際、江神は自然なそぶりで有栖川の頬に手を添え、振り向かせて唇を掠める。軽く触れ合わせただけの唇は、キスをした事実の認識がやや淡い。柔かな感触は幻ではなかったことを確かめるように、離れる唇を追って有栖川も口付けた。
それから江神と二人で連れ立って駅まで行き、「また明日」と改札で別れた。見送られるのは今までにも何度かあったが、今でも慣れない。見送ってくれる江神の顔を見るたび、胸が締め付けられるように苦しい。こんな風に見送られることに慣れていないからだけが理由だろうか。
地下鉄に揺られ、家路を辿る。頭にあるのは明日提出のレポートなどではなく、今別れたばかりの江神のことばかりだ。こんなことでは良くないとわかっていても、考えてしまうのだから仕方ない。日常生活に支障をきたさないのがいっそ不思議だ。
家に帰ると決めたのは自分なのに、どこかでそれを後悔している。どうせまた明日逢えるとわかっていても、ほんのわずかでも離れているのは淋しい。こんなことを考えるのは自分だけなのだろうか。
「江神さんは……大人やしなあ……」
机に突っ伏し、目を閉じる。
きっと彼はこんな風に思ったりはしないのだろう。それが思いの差のように思えて、堪らなくなる。
好きなのは、自分ばかりなのではないか。
問い詰めたくなるのを堪えたのは一度や二度ではない。有栖川にしてみれば、まったく根拠が無い話ではないのだ。
いわゆる恋人のような関係になって一ヶ月以上経つというのに、キス以上のことをしていない。キスにしても、今日のように軽く唇を触れ合わせるばかりで、舌を絡め合い、互いを貪るような情熱的な口付けは一度もない。
普通はもっと、相手を求めようとするものだろう。だが江神は、甘い空気を作ることすら避けているように思う。
「……あかん……想像を絶しとる……」
有栖川は呻き、頭を掻いた。
積極的に口付けやそれ以上の行為をしたいというわけではないが、こういう関係になってしまった限り、ないほうがおかしいような気がする。だが――
江神を抱くにしろ抱かれるにしろ、キス以上が想像できない。
いくら江神が仙人然としていても、彼とて人間だし、男なのだ。性欲くらいあるだろう。それでも、そんなことには無縁な人間のように思えてしまう。
「こればっかりは……してみなわからん、ちゅうこっちゃな……」
想像できないことを想像しようというほうが間違っているのかもしれない。有栖川は寝返りをうち、息を吐いた。
触れるだけの口付けの他、知っていることと言えば。
「頭撫でてくれる、手ぇは気持ちええんやけどなぁ……」
あの手で体に触れられたら、気持ち良いかもしれない。髪を梳き、地肌を撫でる指は、掛け持ちしているというバイトのおかげで多少荒れてはいたが、触れ方は江神の人柄そのままに、優しい。あの指に他意を感じたことは、一度もない。撫でられている間は沈黙に沈むことも多いが、気になったことはない。
「……何を考えとるんや、まったく……」
自分で考えたことに赤面すると、体を起こして頬を擦った。時計は午前を一回りしている。早く仕上げて、眠ってしまえばすぐに大学へ行く時間になる。今湧いた疑問は、機会があれば明日にでも聞けば良い。結末付けて、ボールペンを握り直した。