幾度目かの唸り声をあげた有栖は、鼻先を芳香が掠めたことにようやく気付いた。顔を上げると、茶のマグカップから湯気が立っている。中を満たしているのはコーヒーだ。慌てて更に顔を上げると、こたつの右隣に座っている江神と目が合った。
「す、すいません……僕、気付かんで」
「よお集中しとったもんな。ええよ」
あたふたとコーヒーに口をつける有栖の動作がおかしかったのか、江神は微笑を零した。
コーヒーはほんの少し、冷めてしまっている。有栖が文庫本に熱中している間に江神が淹れてくれたのだろう。気付かなかったことを申し訳なく思いながら、三分の一を飲む。
「唸ってたってことは、解決編の手前まで読んだん?」
「はい。江神さんは犯人、わかったんですか?」
「俺はダイイング・メッセージの意味がわかったから、そう難しいことあらへんかったけど」
「ほんまですか?」
「うん。ヒントは――言うてええ?」
有栖が何度も頷くと、江神は楽しそうに「ヒントは被害者の専攻」と言って、クッキーを摘んだ。ここへ来る前に、有栖が買ってきたクッキーだ。いつの間にそれを開けたのかと訝るよりも先に、有栖は与えられたヒントの吟味を始める。
(被害者は宗教学科に所属していて、専攻は北欧神話やったな。ていうことは、ダイイングメッセージの『火』は、人の名前やなしに北欧神話の火の神を指してるんか?)
解答まであと一歩、だと思うが、さすがに北欧神話などゲームで馴染みのある神の名前くらいしか知らない。
「……一般教養でわかるメッセージにして欲しかった……」
「興味ないと読まんわな、神話やなんて」
有栖のぼやきにかぶさるようにして江神は笑う。江神自身は北欧神話どころか日本神話に中国神話、南米神話に聖書など、色々な神話に通じているばかりか、およそどこで仕入れたのかわからないような学術にまで読書の範囲が及んでいる。
江神の笑顔を恨めしそうに有栖が上目で睨むと、笑みは苦笑へ変わった。そうして部屋の一角、天井まである大きな本棚を指す。
「アリスの後ろの本棚の、上から三段目の左側、漁ってみ。北欧神話関係あるから」
なんとしても自力で解きたいという気持ちを量ってくれた言葉に、有栖も不機嫌面を長く続けるのが不可能になった。
「ありがとうございます」と小さな声で言うと、「どういたしまして」と返される。
立ち上がって本棚を漁り始めた所で、更に声が投げられた。
「謎解き終わったら、今度は俺と遊んでな」
含みがあると受け取るのは、きっと彼の術中に嵌る。
本を探す手が止まったのを目敏く「どうかしたんか?」と指摘され、「いいえ、別に」と返すのが精一杯だった。
謎は解きたいが、さてどうしよう。
有栖の迷いに感づいたように、江神は視線を有栖の背に固定している。
自分より相手が何枚も上手なのはわかっているので、きっと逃げられないんだろう――思いながら、擦り切れた箔押しの『北欧神話』の背表紙へ手を伸ばした。