叶が自宅マンション前まで帰ってきて、入口に佇んでいる男がどうやら見知った男だと気付いた時、同時に呆れもした。
雪が降っているのにも関わらず、男は傘もささずにいるのだから。
「何してるんだ、そんなところで」
声をかけると、ようやく叶に気付いたらしい男――下村が、雪を頭に載せたまま振り向いた。見ているだけで寒い。叶は顔をしかめ、積もった雪を払ってやった。
「叶さん。……おかえりなさい」
思ったよりしっかりした声が帰ってくる。が、寒さのためだろう、鼻の頭は赤い。
「何してるんだ、こんなところで」
同じ質問を繰り返したが、すぐに「来い」と自室まで下村を促す。
外で話続けるのは得策ではない。自分も寒いが、下村をこれ以上凍えさせ、風邪でも引かれた日には誰に何を言われるかわからない。
しばらく空けていた部屋の中は外気とたいして変わらないほど冷えていた。すぐにヒーターとエアコンをつけた。
下村は、叶の部屋に来る時には定位置となったソファの足元、ラグマットに腰を落ち着けている。畳まれたコートがその隣にあった。
「どれくらいああしてたんだ、おまえは」
「さあ……今何時ですか」
「3時過ぎだ」
「じゃあ、2時間くらいです」
「2時間も何をしてたんだ」
「叶さんを待ってただけです。今日は店も休みで暇だったし」
インスタントのコーヒーを淹れながら、叶は思わず天を仰いだ。
「部屋の中で待ってるって選択肢はなかったのか。それとも鍵をなくしたのか」
下村には、叶が仕事でいなくなる時に「彼女」たちの世話を任せていたので合鍵を持たせている。だからわざわざ外で待たなくてもいいはずだ。
「ありますけど。でも今日帰ってくるって聞いたから」
誰からとは愚問だ。叶がそれを伝えたのはひとりしかいない。
「帰って来るからなんなんだ? そりゃ、俺がいない間にこの部屋に女でも連れ込んでたっていうなら、怒るかもしれないが」
「怒る。……叶さんが?」
「俺だって聖人君子じゃあないぜ」
「そりゃ、知ってますけど」
叶が聖人君子とはかけ離れた職業を選んでいることを、下村は知っている。叶は苦笑しながら、
「今度は部屋の中にいろよ。風邪でも引かれた日には、おまえの相方がうるさい」
軽い口調で言うと肩を竦めてみせる。
暖かな湯気を立ち上らせるマグカップを下村に渡すと、ソファに腰を下ろした。斜めに見下ろせば、下村がコーヒーを啜っているのが見える。
沈黙はどれほど続いただろう。
「……それで」
口を開いたのは叶だった。
「何の用事だったんだ?」
問えば、下村はかすかに眉をしかめた。
「訊こうと思って」
「何を?」
「それはこっちの台詞ですよ。出掛け前になんであんなことしたんですか」
あんなこと。
少しだけ記憶を遡らせれば、すぐに何を言わんとしているのかわかった。
いつも下村はふらりと叶の部屋に訪れる。やって来ない時は桜内か坂井が構っているはずで、だから気紛れな猫のようなものだと思っていた。が、どうやら少々違うらしいと知ったのは、桜内の言葉からだ。
どういう話の経路を辿ったのか忘れたが、下村といる時に何をしているのかという話から、下村は猫のようにやって来ると言った時、桜内が妙な顔をしたのだ。
どうしたのかと問えば、下村が自分からやって来ることはほとんどない。あればたいてい怪我をした時だという。そこに通りかかった坂井に桜内が同意を求めると、坂井も頷いた。
だからなんだと言えばそこまでだが、気にならなかったといえば嘘になる。
――自分には違うのか。
何故違うのか。
叶なりに考えて、行動してみた。
それだけといえばそれだけだ。後は下村がどんな反応を返すのか見たかったくらいか。
「逆に訊くが、おまえは嫌じゃなかったのか」
「……はい」
数秒の間は問いの意味を考えたのか。
「じゃあ、それが答えだ」
「? どういう意味ですか」
それくらい自分で考えろ。
澄まし顔で告げると、下村は置き去りにされた子供のように途方に暮れた顔をした。