柴桑の城の廊下。
 夕刻にさしかかろうとしていた頃、呂蒙は休憩を取るべく適当な場所を探していた。両腕を天へとのばし、背筋をすっきりさせる。
 廊下がT字になったところで、目の前を陸遜が横切って行った。
「伯言」
「はい?」
 背後からかけられた声に陸遜が振り向く。
「持ちにくそうだな。手伝おう」
 そう言って脇に抱えていた竹簡に手を伸ばす。さりげないやさしさ、かな。
「助かります、子明どの」
 にこりと笑んで、竹簡を渡す。
 陸遜はこの竹簡の他に、何かの大きな塗箱ひとつと巻物が数巻を両手で抱えていたのだ。持てない重さではないが、バランスが悪く、そのうち全部ひっくり返すのは目に見えていたので、呂蒙の申し出はありがたかった。
「子明どのはこんな遅くまでお仕事ですか?」
 遅くとはいっても、日はまだ暮れていない。就業時間は少し、すぎているけれど。それでも陸遜はたいてい終業時間が終われば帰る方なので、彼にとってみればこの時間はちょっと遅いのかもしれない。
 ともあれ、呂蒙は陸遜の問いにちょっとだけ遠い目をした。
「…仕事というか…後始末かな…」
「ああ! 興覇どのの?」
 無言でうなずく呂蒙を横目に、陸遜は笑う。
「本当ーに、仲が良いんですね。子明どのと興覇どのって」
「主公にアイツを推挙したのは俺だからな……」
「責任を感じておられるわけですか?」
「まァな…」
「でも子明どのの面倒見の良さは責任感からくるものではなくて、性格ですよね。わたしも初めの頃とか、良くして頂きましたし」
 今は夜もね。(作者つっこみ)
 大きく、ためいきをつく。
「いい奴なんだがなァ…どうも、粗雑過ぎるらしい。文官のお歴々には相当、受けが悪い。あいつが入ってきてからけっこうたつのに、奴に対する評価が一向に変らないというのはどういうことだろうな……兵士の受けはいいんだが」
「楽しい方ですよね。わたしは結構好きですよ」
「…そうか」
 この時、呂蒙は実に微妙な、何かをききたげな表情をした。が、陸遜には気付かれなかった。
「そうだ! 興覇どのといえば、」
 自分より少し上にある顔を見上げる。
「興覇どのって、わたしのこと嫌ってるんでしょうか?」
「は?」
「子明どの、何か聞いてらっしゃいません?」
「いや…なにも聞いてないが…何故またそんなことを?」
 伯言のことを嫌う奴なんかいるのか? と、これは惚れた欲目。
 陸遜はあくまでまじめに言う。
「だって、興覇どの、わたしのことさけてるんですよ?」
「さけるって…」
 子供の喧嘩じゃあるまいに…。
「この十日ほど、わたしは興覇どのの影すら見たことないんですよ? 探しても探してもいらっしゃらないし。嫌ってないならさける必要もないでしょう?」
「何か思い当たる事でも?」
「…ない…つもりなんですが、知らず知らずのうちに興覇どのの気に障るようなことをしたなら誤りたいですし…」
 それは人間関係において、よくあることだ。考えられなくもないが…あの甘寧が細かいことをいちいち気にするとも思えない。だとするとよほどのことをやらかしたと考えなければならないのだが…陸遜が、甘寧が嫌うほどのよほどのことをするなど、想像もつくはずもなく。
「…なるほど。聞いておくよ」
「お願いします」
 もう一度にこりと笑う。
 その笑顔を見て呂蒙はやっぱりかわいいなぁ、と、ちょっと腐れたことを考えるのだった。


 呂蒙が甘寧を見つけたのは、次の日のこと。
 西の回廊の脇にある小庭園。そこの池のふちでぼんやり、座り込んで池面を見ているようだった。
 時間は昼過ぎ。ちょうど、三時前くらい。
「興覇!」
 呆けたような顔と、目が合った。
「いい男が、そんなとこでぼんやりと何してるんだ?」
「いやぁ…ちょっと、サボりッス」
 ふつう、バレバレでも「休憩です」とか言うものだろうに。妙なとこ素直だな、と苦笑する。
「暇なら、こっちにこないか? 勤務中だから酒というわけにはいかんが、一服しよう」
 空いた部屋に入りこみ、ついでに通りかかった女官に飲茶を頼む。
「子明どのと話すのも久しぶりッスねぇ」
「そういえばそうだな。…ま、おれはずっと誰かさんの後始末で忙しかったからなァ」
「やだなぁ、言わないでくださいよ」
「じゃあ、言われないようにすれば良いんじゃないか?」
「……だってさぁ、すっげ差別的な目で見られたら、やっぱ嫌がらせの一つや二つや三つや四つ、したくなるもんじゃないスか?」
 反省の色はちっとも見えない。…小さい子の言い訳みたいだ。そんな反応にため息ひとつ。
「………おまえがそんなんだから、よけい反感買うんだろうが」
「大人気ないッスよねぇ、みんな」
「おまえが言うな、おまえが」
 運ばれてきた茶に口をつける。
 …そろそろ本題に入るか。
「…昨日、ちょっと愚痴られたんだけどな、」
「はひ?」
 口一杯に胡麻団子を頬張って答えられた日には話す気力も萎える。…が、そんなことを言ってる場合じゃない。陸遜のため、陸遜のため。
「さけてるんだって? 伯言のこと」
 ぐふ、と妙な音がして、甘寧がむせこんだ。
「おいおいおいおい…大丈夫か?」
 背中をたたいてやり、茶もいれてやる。
 むせながらも茶を立て続けに三杯飲み干して、ようやく落ち着いた。
 そんな、不意打ちだったのだろうか、今の問いは?
 甘寧は涙目をぬぐいぬぐい、
「…別に、さけてないッスよ?」
 とだけ言う。
「さけてるだろ」
「さけてないッス」
 かましたバレバレな悪戯を稚拙な嘘で隠す子供のような表情をしている。
 なんてわかりやすい男だろう。思わず感心。
 こういうところ、いじめたくなるんだよな。なんて悪魔的なことを思ってみたりして、少しだけしかめっつらをしてみせる。
「相手と顔を合わせないようにしてるだろーが。それは充分、さけてるっていうんだ。
 話せないような理由でさけてるのか?」
「いや…そうじゃないッスけど…」
「じゃあ何でそんな曖昧な話方になる?錦帆賊の甘興覇の名が泣くぞ」
 この挑発は甘寧のプライドをいささか刺激したらしい。数十秒の沈黙の後、彼は鼻頭を照れくさそうに掻いた。
「実はッスねぇ………」

 晴れた夜。
 細く笑んだ月を肴に一杯やろう、という事で、甘寧と陸遜は呂蒙宅に招かれていた。
 酒は蜀の名水で醸造されたものとかで、澄んだ辛さが旨い。肴はその日に家人が山で摘んできた山菜や、市場で購った新鮮な魚を使った料理。これもまた美味いものだったので、甘寧はとても気分良く飲んでいたのだった。まあ、だいたい食べ物と酒があれば不機嫌にはならない男なのだが。
 甘寧の賊時代の話でひとしきり盛り上がった後、家人に呼ばれた呂蒙が席を抜けた。
「こんな時間に何スかねぇ」
 陸遜と二人きり。ちょっとめずらしいシチュエーションだった。二人きりで話すのも、初めてかもしれない。
「急ぎの書簡かな…山越あたりは最近静かになったばかりだから…」
「ふぅん…子明どのも大変ッスね〜…ありゃ?」
 空になった杯に酒を注ごうとした甕もまた、空になっていた。
「注ぎますよ」
 といって、陸遜が甘寧の杯をもらう。甕からヒシャクで杯を満たすと、甘寧に返した。
「こりゃどうも。……ッあーーーー、しっかし、この酒は旨いッ!! 肴も旨い!!!」
 オヤジくさく、膝をばしぃッと打って、ぷはぁっと息を吐く。
 甘寧のそんな様子に、陸遜は微笑。
「そうですね。殊に、いま興覇どのが飲まれた酒は、特別製ですから」
「へ? 何かスゴい作り方なんスか、これ……?…?ん?」
 不意に、頭が脳ミソから回転したような感覚に襲われる。それと前後して、身体中がほてりだす。
「あぇ…酔ったかな…?…あっちぃ〜〜」
 顔も、指先も、頭も熱い。
 普段はまずめったに酔わないのだが…酒が旨いからといって、飲みすぎたか。
 へべれけになりつつある甘寧に、陸遜は変わらずに穏やかに解説をはじめる。
「興覇どの。その酒は、作り自体は普通の白酒となんら変わるところはありません」
「う〜〜?」
 力が入らない。呂律もあやしくなってきた。
 酔い目にも、陸遜は微笑しているのがわかる。いつもと変わらぬ、人当たりのよういいほほえみ。貂禪もかくやという微笑だったが、
「他と違うところはね、ふふふ…ある仙薬が入っているところなんです」
「せんやくぅ〜? なんらぁ、それぇ」
「平たく言えば、媚薬ですね」
「びやくぅ〜? えェ〜?」
 回る脳ミソでは、びやく=媚薬という漢字変換がすぐにはできないらしい。
 陸遜は傾国のほほえみのまま、言う。
「諸葛孔明どのから頂いた薬なんです。即効性だと聞いていましたが…本当でしたね」
 あの諸葛孔明からの薬。
 彼が呉に来た時には親しく会話を交わす機会などほとんどなかったが、彼に関する噂なら、いくつか聞いた覚えがある。…どれもこれも、感心するくらいとんでもない噂だったのだが。

 曰く、彼が農夫だった頃に育てていた野菜は、十日で収穫できた、とか(それは野菜なのか?)。
 曰く、ペットは竜だ、とか(あれは実際にいるものなのか…?)。
 曰く、法家の学はもちろんのこと、道家の学も(しかもかなり妖しげな所を中心に)修めた、とか。
 曰く、彼の悪口を言うと、十日以内に不幸が起こる、とか。
 曰く、劉備の幕臣が彼を受け入れなかった時、酒飲み対決で勝って受け入れられた、とか。あるいは一騎討ちで勝ったから受け入れられたのだ、とか(いやたしかにガタイはよかったけど)。

 ……一体どこから流れてきたのか、誰がそんなことを言い出したのかはわからないが、とにかくこの手の噂をあげればキリがない。ちなみに、カッコ内の言葉は甘寧の心のツッコミだ。
 ………そんな諸葛孔明から受け取った薬。
 噂を鵜呑みにするつもりはまったくないが、噂が噂だけに、絶対まっとうな薬ではないような気がする。
 いや、確実にまっとうな薬ではあるまい。
 …………いや、この状況で、問題にすべきポイントはそんな事ではなく。
「なんでぇ、そんなもんを俺にィ?」
 そうそう、それなのだ。
 が、陸遜は意に介さない。
「何故でしょうね?」
 とはぐらかし、甘寧の上着をはだけさせてみちゃったりする。かなり手早い。…慣れてるのか?
「なにすんだよぉ」
 抵抗になってないし、迫力がない事この上ない。今の甘寧の動きは三歳の子供にも見切れる。他の連中には見せられない、失態だ。
「はいはいはいはい、大人しくしましょうね、興覇どの♪」
 小さい子供をあやすように言う。
 さらに、どこからだしたのかわからない紐で、甘寧の手を縛ろうとする。
「なにすんだァ〜〜」
 暴れて抵抗しようにも、身体が言うことを聞かないのだから、どうしようもない。
 じたばたしている間にも、すっかり縛り上げられてしまった。まな板の上の鯉とは良く言ったものだ。
 そうして、仰向けに倒される。
 今まで数多くの女を押し倒したことはあっても、押し倒されたことはなかった(もっとも、上に乗っかられたことはある)。それが――――別嬪とはいえ、男に押し倒されるとは!
 甘興覇、一生の不覚。
「ふふふふふ、観念なさいましたか?」
「う〜〜〜〜、んなわけあるかァ〜〜〜〜〜〜〜ッ」
 今や傾国の微笑は地獄の獄卒よりもオソロシイものへと甘寧の中で変貌していた。
 そんな甘寧の内心を知るわけもなく、陸遜はさらに追い討ちをかけるようにおおいかぶさってきた。キレイな顔が、間近。でも悪魔。
「抵抗されるといっそう燃えるというのは本当のようですね。…興覇どの、あまり嫌がって抵抗していても、いいことはありませんよ?」
 と、胸元に吸い付かれる。…三日や四日では消えないような花弁の跡を、思いきりつけられた。
「かッ、かんべんしてくれぇ〜〜〜〜ッッ!!!」
 甘寧はこの時、生まれて初めて真剣に泣きそうになった。

「……それで?」
「そこで目ェ覚めましたよ…」
 憮然としている甘寧の前で、数分前から呂蒙撃沈。
 声もなく笑っているのは、肩を見ればわかる。
 ―――呂蒙の肩の震えが止まるのに、五分はかかった。
 眼の端を袖でぬぐいながら、
「しかし…それはまた、夢にしては災難だったな」
「わかってもらえますかね、子明どの。俺だって別に避けたくて避けてるわけじゃないんスよ」
 悪夢以来、陸遜の姿を見ると条件反射でさけてしまうのだ。男に…それも、よりにもよって攻めには一番縁遠そうな(←失礼)陸遜に!
「そりゃあ、俺はわかってやれるけどな…問題は、伯言本人がそんな理由で納得してくれるかどうか、だろ」
「……してくれないスかね」
「俺だったら、まずしないね」
 にやり、と笑う。…所詮は他人事か…。
 今度は甘寧が撃沈。ただし、さっきの呂蒙とは別の意味。
「あ〜〜〜〜〜〜ッもォ!!! どおすりゃいいんだああああああああッ!!!」
「…興覇」
「はい? 何か名案でも?!」
 がばっと頭を上げる。呂蒙は、甘寧を指差していた。
「後ろ。振り返ってみろ」
「? 後ろ?…って、ゲェッ!!!!!」  夢の中と寸分たがわぬ微笑を浮かべた悪夢の象徴が、真後ろにいた。
 思わず逃げ腰になった甘寧の方を、陸遜はすばやくつかんだ。顔に似合わず、けっこう強い力で。
「やっとつかまえましたよ、興覇どの。ちょっとお話があるんですけど、よろしいですか?」
 後半の言葉は呂蒙にふったものである。
 甘寧は必死の形相で呂蒙を見て、首を横に振っているが、
「ああ、おれならかまわんぞ。こっちの話は終わったからな」
「そうですか。それでは失礼しますね、子明どの」
「しッ、子明どののッ裏切り者ォ〜〜〜〜〜〜ッ!!!!!」
「何を言う。誤解があるなら早いうちに解いておいたほうがいいんだぞ。先輩の親切心と言え♪」
「そんな親切いらねェ〜〜〜〜!!!!!!!」
 陸遜に引きずられながら甘寧はさらに何事かをわめいていたが、遠ざかっていくうちに聞こえなくなっていった。
 残された呂蒙はひとり、茶をすすってつぶやく。
「……平和だなァ…」
 まったくその通りだ。
 心のかたすみでほんの少しだけ、興覇が帰ってきたらどんな言葉で迎えてやろうか考えている呂蒙だった。