3. 起こされる
日が昇りきってもう暫く経つ。
しかしながら主が部屋から出てくる気配は一向になかった。
朝が遅いのはいつもの事。ただこの時間になるとさすがに耐えかねたのか、彼に従う者たちが幾度か襖の前まで足を運ぶのだが、どうにも襖に手を掛ける事すら叶わず、すごすごと立ち去っていくばかりだった。
出来れば指示を仰ぎたい案件がいくつかある。
あれこれと何もかもを企てるというよりはそうなるように味方すら仕向けていくというのが此処の主のやり方だったが、それでも幾らかは耳に入れておかねばならない事がある。
それによって目に見えぬ忠誠も示せるというものなのに、一向にふすまは開く気配がない。
誰かが言って声を掛けるなり、肩を揺らすなりすれば良いだけの話しだが、
しかし、人為的に眠りから覚まさせる事は出来ればしたくない。
なぜなら、
…命の危険があるから。
部屋から少し離れた場所に立つ数人の男達は皆、この中の『人の形をした獣』に用事がある人々だった。
まるで ATフィールド でも張ってあるかのようなその襖に触れる事はおろか近づく事すら出来ずに、重い沈黙が訪れる。
暫く何も出来ずに時間だけが流れた。
一人二人と諦めて去っていく中、どうしても急を要する案件を抱えていて簡単には引けない運の悪い数人が途方に暮れつつも残っていると パタパタ と軽い足音がこちらへ近づいて来る。
居残りのうちの一人だった武市は不思議に思いそちらに目をやった。
なんせ此処にはそんな軽やかに歩くものは一人も居ないのだから。
あえて言うなら 来島また子 あたりがたてなくもない音だが、あれはもっとドスが利いている。
そんな事を考えながら、正体不明の足音が近づいて来るのを待った。
実は一人だけ心当たりがないでもないが、たしか彼女は今江戸に居る筈。と思い直す。
「武市さん。皆さんも、おはようございます」
程なくして もうちっとも早くない時間だが、美しい鈴の音のような声が掛けられる。
そこに現れたのは、今まさに武市の頭に浮かんだ女性 ー ー その人だった。
攘夷戦争時代からの仲らしく、冷酷無悲の我らが主がこの世でただ一人 心を許す人間。
にこりと微笑むその姿は華やかな桜のように美しい。
…特に今日は釈迦如来のように神々しい。
「さん。いらしてたんですか」
「ハイ。ちょうど万斎さんがこっちに帰るって聞いたんで、ご一緒させてもらったんです」
「そうですか。…助かりました」
顔は無表情だが、あきらかに安堵したかのように話す武市とは反対に、は少々げんなりとした様子でため息をついた。
「さっきまた子ちゃんにも同じ事言われましたよ。…晋さんまだ起きてこないんですか?」
「ええ」
「で、皆さんで立てこもり犯の説得を試みようとしてるんですね?」
「いえ…それは」
歯切れが悪くなるのも仕方のない事だ。
高杉がをこの上なく大切に扱うように、もまた高杉をこれ以上なく慕っている。
まさか「無理に起したら殺されそうだから」とは言えない。…たとえ、実際に何人もの仲間が被害にあっていたとしても。
目の前で悪く言われるのは(たとえそれが事実でも)あまり好ましくないだろう。
女性には等しく、嫌な思いは微塵もさせたくない。
フェミニスト(自称)武市はそんな事を思いながら目の前の女性を見る。
すると、暫く考え込んでいたらしい彼女は、不意に悪戯を思いついた子供のように無邪気な笑顔を浮かべた。
「…ご褒美いただきますよ?」
「え?…ええ、さんにでしたらいくらでも」
何を思いついたのかは知らないが、こんなに可愛らしい女性なら何でもしてあげたくなるのが男というものだ。その上、あの猛獣が穏便に眠りから覚めてくれるならこれ以上の事はない。
武市の返答に満足したように頷いたは部屋の前に立つと躊躇いもせず、襖に手をかける。
そして、白い手は今まで誰も触れる事すら出来なかった襖を、いとも簡単に開け放ってしまった。
部屋の内部を見渡して目標を捕らえたらしい瞳がすっと細まり、淡いピンクの唇が緩く弧を描く。
それを見てしまった男達は一抹の不安を覚えたのだが、その直後 あっ と思う間もなく彼女は身体全体で獣の眠る布団の上にダイブした。
「晋さん!」
「のおっ!?」
眠っていて無防備な上、勢いのついた全体重でアタックされた高杉が奇声を発して悶える。
もちろん外で様子をうかがっていた者達は一同に声なき悲鳴を上げた。
脳裏には揃って、直後に起こるであろう惨殺事件がよぎっている。
「グッ…」
そして、とうとう覚醒した獣の震える手が鳩尾のあたりにきまった膝を掴んで、己の上にのしかかる物体を見上げた。
しかし、その目は一向に何時もの鋭さを現そうとしない。
まるで気配で誰だか分かっているかのごとく。
「おっはようございまーす」
それすらも計算のうちなのか、は掴まれた膝小僧をそのままに、そっと身体をずらして下の男が呼吸しやすいように足を下ろした。
「ーッ! お、おまっ…に、してんだっ!!?」
「エへ。来ちゃった」
「「「………」」」
ニコリと音がしそうなほど邪気のない笑顔に高杉だけでなく、外で事の成り行きを見守っていた男達も呆気にとられる。
それから、彼女が言っていた「ご褒美」の意味を理解して、暫くはそっとしておいて差し上げようと すごすご その場を立ち去った。
「もうお昼過ぎたよ?」
「…ったく」
暫く何か言いたげにしていた高杉だったが、あっけらかんとしたその姿に諦めたのか、いまだ自分の上に乗っかっている物体が転がり落ちないよう、細い腰にそっと手を回し支えながら上半身を起す。
揃った目線に何故か穏やかな気持ちになって、コツ と目の前の女の額に自分のそれを軽くぶつけてみる。
「………一人で来たのか?」
「ううん。万斎さんと来たの。一緒に電車で」
「てめっ!万斎!!」
だが、他の男の名が出た途端、の下の男が急に立ち上がった。
もちろん小柄なその身体は重力に逆らえず ころり と布団の上を転がる。
「ちょ、晋さん!?」
驚いて見上げれば怒りのオーラを体中から発する背中。
ただの大人気無い嫉妬だと気づく筈もないは、このままでは虐殺事件に発展してしまうと、標的を探しに部屋を出て行こうとしている高杉の着物の裾を慌てて掴んだ。
「ダメ!なんで怒ってるの?晋さんが一人で来るなって言ったんじゃない!だから万斎さんにお願いして一緒に帰ってもらったのに!!」
ギロリと逆上したままの視線を寄越しても、少しも臆すことなく見上げてくる。
「………。 チッ」
その姿に怒気を削がれ、高杉は大きくため息をつき、猟りを諦めた。
揚げ句、着物の裾を引く手にも逆らえず渋々とだが、大人しく腰を下ろす自分に内心呆れながら。
舌打ちをしつつもどうしても視界に入る黒い大きな瞳は、うっかり魅入ってしまうと危険だと高杉の中の何かが警告を発する。
しかし、逸らしてもまた負けのような気がして、仕方なしに子供にするようにの頭を撫でた。
途端 への字 に曲がる唇にようやく余裕を取り戻し、口の端をあげる。
「そんな膨っ面すんな」
「晋さんがいけないんだもの」
「…散歩いくか?」
確かに、大人気無いことで気を乱した感は否めない。
しかし、素直にそれを認めるのは高杉にとってなんとなしに癪でもあり、とりあえず話をそらしてみたが、そうは問屋が卸さず、案の定 の反撃にあってしまう。
「そう言うとこ、銀とそっくり!絶対自分が悪いって認めないだからー!」
「ッ、彼奴と一緒にすんな!」
それだけはなんとしても否定したい箇所だった。
何だって、あんなわけのわからない男と同じ処に分類されなければならないのか、それ以前にお前に言われるのが一番こたえるんだと必死の抗議をする。
「そう言うのもそっくり」
つん。と、顔を逸らしたは捨て台詞を残し立ち上がった。
「ちょ、!待て!」
「………」
慌てて引き止めようと呼べば 冷たい というより、怒ったような視線が寄越される。
「…んだよ」
思わず謝りかける猛獣。
彼女にだけはめっぽう弱いらしい。
「お散歩」
しかし、その直後への字に曲がったままの唇が開くと、ようやくその意味を知り端正な顔に余裕が戻った。
溢れる笑い。
どうせ勝てるはずのない相手だったのだと、観念して軽く息を吐き出す。
「…なに?」
「いくか」
大事な姫さんのご機嫌取りのためならしかたがねえ。と、立ち上がれば、機嫌も直ったようで、ピンクの唇が緩く上がった。
「何が見てーんだ」
言っては見たものの、暫くは住んでいたこともある京の街を今更ながらに見たいものだろうかと思い直し隣の女に視線をやる。
と、案の定 は首を横に振っていた。
「なんにも」
「だろうなァ」
「天気も良いし、晋さんと歩きたい」
「そうか」
「あ、でもわらび餅も食べたい!」
「……」
可愛いことを言うじゃねえか。と持ち上げた手は茶屋に突然方向転換をしたの髪の毛を掠ることなく空を掻いた。
「美味しー ね、晋さん?」
振り回されるのは毎度のこと。と、諦めの境地でわらび餅を食べる猛獣(推定 肉食)
「……」
「ん?」
「ったく、何しに来たんだ」
「起こしにきたの」
「…。お前なぁ」
呆れたようにため息をつく高杉にはにこりと微笑んだ。
黒い大きな瞳が真っ直ぐに高杉を見上げる。
仲間ですら恐れる狂気を孕んだ己から、この女は一度も目を逸らした事はなかった。
…あの三人と同じく。
いくら闇に身を堕とうとも、狂った獣をちっとも恐がりゃあしねえ。
無償の親愛を受けるような大層な事をしたつもりはないのに。
しかし、それを言うなら自分もだ。と思い直す。
くだらない馴れ合いは簡単に断ち切ってしまえる筈だった。
それなのに、こうして並んで座り、たぶん酷く穏やかな面でを見つめる自分がいる。
これは、持っていてはならない感情の筈だった。
けれど、何故この女でなければならないのかなんて、本当のところ答えはとうの昔にわかっていて。
「」
思わず名を呼べば、これ以上なく愛しい笑顔が何もかも見透かしたように、こちらを見た。
「ココ」
とん。と、の細い指が高杉の胸をつつく。
「ココにある晋さんの人の形をしたものが眠っちゃいそうだったから。
起こしにきたの」
「……余計な事を」
ほんの僅か言葉をなくしてを凝視していた高杉だったが、暫くすると我に返り、盛大な舌打ちと悪態を一つついた。
だがそれだけで、それ以上何も発しない。
機嫌の悪さを装ってはいるが、その眼孔には剣呑さは見られなかった。
その証拠に、手つかずの麦茶を手渡せば渋々ながらも素直に口を付ける。
「また此処に帰ってきても良い?」
「…好きにすりゃあいい」
素っ気ない返事とは裏腹に、大きな手がそっとの髪を梳いた。
ほらもう起きてしまった。
だから、貴方は獣になりきることが出来ない。
幾度でも。
獣を眠らせる事は出来ないけど、ほんの少し残った、きっと捨ててしまいたいだろう人の心を、私は起こします。
何度でも。どんな事があっても。
2007.07.07 ECLIPSE

アトガキ
ハイどうも。お兄ちゃんと一緒でしたー(違)
このね、プラトニックな感じがね。もどかしいのが好きなんです!(えー)
三日ほっとくだけで驚くほど変わるのが男だとしても(銀ちゃん談)やっぱり、
かわれないところって残ってるんだと思うんです。
特にこの人たちのような一本筋の通った方々は。
たとえそこに捨ててしまいたい気持ちやなんやかんやがあったとしても。
だから、さんを側に置いて目覚めるのがいらない感情だったとしても杉様は
決して貴女を突っぱねることは出来ないわけです。