弟子使徒の旋律・一
モティーヴォルバート
 この街いちばんの劇場は、華僑であるリー家がオーナーを務めている。現当主のコムイ・リーは、顔もIQも良いけれど変わった青年だった。彼は古楽器好きでそれらの収集家だが、自ら生物の塩基配列を音符に変換し記した楽譜で演奏するという趣味をもっており、専属契約を結んでいる楽団員たちはたびたびこの不可思議な現代音楽をオーナー命令の下演奏させられていた。
 聴衆の反応はまずまず、幾度か雑誌の取材も受けたことがある。コムイが溺愛している妹・リナリーは名の知れたピアニストで、楽団の指揮を務める通称ブックマン老人は偉大なるマエストロのひとりだった。他の楽団員たちにしても、腕は超一流ではない変わりに強烈な個性をもった音楽家が揃っていた。世界中さまざまな国・人種の混ざり合ったちょっと風変わりなオーケストラは、親しみを込めて“黒の楽団”と呼ばれていた。
 アレンは、街のほぼ中心に位置するその劇場の裏口に座り込んでいた。足元には神田から預かった楽器ケースがある。朝一番に開店するパン屋で買い込んだ大小の焼き立てパンを紙袋から取り出しては頬張った。やがて日も完全に昇りきった頃、巡回に来た顔見知りの警備員の好意で劇場に入ったアレンは、良く知る舞台の裏手__楽屋のある方へと向かった。
 裏方にまできちんと掃除が行き届いているこの劇場がアレンは好きだった。東洋人は綺麗好きだと云うけれど、照明の反射板ひとつピカピカに磨かれているのだ。オーナーはもちろん、街の人々にもこの劇場が__ひいてはオーケストラが愛されているたしかな証拠だった。
 楽屋が並ぶ廊下まで来るのは久しぶりだった。数週間前、アレンが盲目のパーカッショニストの気を引こうと必死だった頃はよく通っていたのだが、彼とミランダが付き合い始めてからは近寄るのを敬遠していた。手近な扉を開けて部屋に入り、電気ポットで湯を沸かし紅茶を淹れる。完全に寛ぐ体勢である。ソファに腰掛けお茶を啜っているうちに昨晩眠れなかった分の睡魔が今頃襲ってきて、アレンはくたりと首を傾げるとそのまま寝入ってしまった。


 なんて云うんだっけこういうの、とアレンは思考を巡らせていた。デビルやデーモンに似た...いや、あれは女性の怒った顔のことだっけ?すごくぴったりだと思ったんだけど。あとでラビに訊いてみよう。
「俺は口にしたことを守らない奴は嫌いだと以前にも云ったよな?」
「はい、ええ、とてもよく憶えてます」
 腕を組み仁王立ちする神田の前で、アレンは表情だけは神妙に床に正座していた。正午に工房にフルートを引き取りに来ると云っていた神田へ、自分が直接劇場へ届けると電話で連絡し直したのはアレンだった。朝早く、家を飛び出した勢いのままにラビの留守電に伝言を残しておいた__だから昼まで楽屋で待つつもりだったのだが。約束の時間を過ぎても現れないアレンに苛立つ神田が目にしたのは、空きの楽屋に勝手に忍び込みソファで熟睡していた姿だった。
「でも神田、」 口を開いた途端に眼前の空気がぐんと尖るのを感じたが、生憎アレンはそれくらいで恐れをなすような性格ではなかった。 「僕はリハに必ず間に合わせますと約束したでしょ。それはちゃんと守りました」
 自分がうっかり寝過ごしたせいで引渡しが昼過ぎになってしまったことは棚に上げて、アレンが云い訳する。 「一時間くらい遅れたってどってことないじゃないですか...細かいことネチネチ気にしてんじゃねェよパッツン」
「ぁア?」
「...遅れてごめんな、さいッ!」
 目の前で足を頭の高さまで振り上げられて、アレンはちいさな悲鳴と共にようよう謝罪の言葉を吐いた。とりあえず溜飲を下げたらしい神田が、深い吐息のあとアレンの太腿から無言でケースを取り上げた。中身を取り出し、組み立てたフルートを構えて息を吹き込む。低音から最高音へ、ノンタンギングで上がりそして下がる音の流れは、汀に寄せるこまやかな泡沫を含んで遊ぶ潮騒に似ていた。
 海を映したのか、空を映したのか、深い色彩をもって蒼が揺れる。アレンはじっと神田から溢れるその色を聴いていた。天色あまいろの境界から寄せる波音はやがて息を潜め、同時にアレンが聴いていた色もうつつに溶け消えた。神田がプレートから唇を離し、床に膝を揃えて座ったままのアレンを睥睨した。
「...おまえが修理したのか、」
「はい、」 まっすぐな視線が返る。 「...師匠監修の下ですけど」
「ふぅん」
 云って、感触を確かめるように神田の指は幾度かキーを押して軽やかに動いた。しばしの沈黙のあと、くるりと背を向ける。肩口に掛かっていたまっすぐな黒髪が、音もなく背に零れて広がった。
 少しばかり拍子抜けしたアレンを楽屋に残して、フルーティストは銀光弾く愛器を片手にそのままステージへと行ってしまう。正座したまま床の上であっけにとられていたアレンに声を掛けたのは、偶然廊下を通り過ぎようとしていたラビだった。
「アレン? ユウには逢え...」「ッしゃあ!」
 突如ちいさくガッツポーズして叫んだ友人に驚いたラビは、珍しい動物を見るような目ではしゃいでいるらしい彼を見守った。アレンの興奮が落ち着いてしまうと、今度は正座で足が痺れたと泣きつかれる。
「まったく世話の焼ける...ほら、立つさー」
「ああ、ありがとうラビ...」
 痺れが完全に抜けていないのか、時折よろめく少年の腕を掴んでやりながらラビはアレンを誘ってホールへ向かった。
「来るの久々だろ? 時間あるなら聴いてけよ。珍しくピアノセッションなんさ」
黒鳥リナリーのピアノと? へぇ...ひょっとして初めてなんじゃないですか?」
 リナリー・リーはその容姿からよくブラックスワンと評されていた。見た目だけでなく、音楽と向き合う姿にも当てはまるとアレンは思っている。優雅に湖を泳ぐ水鳥が水面下では必死に足を動かしているように、彼女は相当の努力家だ。もちろん、それを聴衆に気取られないようにするのも才能のひとつではある。
「うん、相手方からすんげー申し入れがあったってブリジットが云ってたさ。この前ダブリンでグランプリ取った娘だってよ、今日は顔合わせにその子が来てんだ」
 連れ立って二階のバルコニー席へ腰掛けながらふたりは取り留めなくおしゃべりを続ける。舞台上から見て左手に当たるこの位置はラビのお気に入りだ__フルートを吹く神田の姿がよく見えた。
 指揮者であるブックマン老人の愛弟子であるラビは、師と同じく驚異的な記憶力を持っていたが、本人はオケを指揮することよりも自ら楽譜を記すことを好み、その点でブックマンと仲違いしてしまっている。彼はその稀なるアイデティック・メモリーを、ステージマネージャとしての任の一部に活用していた。団員一人ひとりの癖や要望に合わせ、譜面台の角度から椅子との距離までを正確に把握し、演目に合わせて各ステージのセッティングをさらっとこなしてしまうのはまさしくラビの才能だった。
 実際、指揮者とステマネであるブックマン師弟のコンビは素晴らしかった。指揮者が求める楽器配置と楽員が、ラビの手でぴたりと揃えられる様はブックマンも認めているし重宝しているのだとアレンは知っていたが、そこに老人が唯一の後継と認めた青年への深い落胆があることもわかってはいた。楽譜上から読み取れる作曲者たちの意思に忠実に、音を再現することを使命とするマエストロの想いは、いくら棒を振り音に乗せたところでラビに届くことはなかった。
 ステージ上にはピアノが二台と、協奏のため編成を調節されたオケが並んでいる。思い思いに調弦する団員たちのようすはのんびりとしたもので、二階席のアレンに気付いた幾人かは手を挙げて合図を送ってきた。それに笑顔で応えつつ、アレンは神田のようすをそっと伺った。自分が修理したフルートを音楽家が扱うさまは、なぜだか妙に緊張し、また気恥ずかしく嬉しかった。
 指揮台にゆっくりとブックマン老人が上る。舞台の下手からリナリーが年下の少女を連れて現れた。団員たちより一足先に挨拶を済ませたのだろう、ふたり揃ってブックマンの傍へ佇み、リナリーが少女を紹介する。リナリーと同じく艶やかな黒髪を短く切り揃えた愛らしい顔立ちのおんなのこだった。並べられたそれぞれのピアノの前に座ると、少女とはいえ随分とおとなびた気配を纏うのが遠目にもわかった。
 plunk...とピアノが鳴いた。リナリーの白い指がずらりと並んだキィを撫でる。椅子を調節し、音律とタッチングを確かめるように奏でられた音が反響し消えゆく前に、別のピアノが美しい歌声を上げた。
 ブラックスワンが揺らした水面を追いかけるように、少女の音が舞った。
 だれも、なにも云わなかった。楽団員たちは椅子に座ったまま、ブックマンも指揮棒を動かさなかった。リナリーはピアノを挟んで対する少女をじっと見つめていた。
 そのピアノは、実に神秘に満ちていた。
 名も知らぬ少女の指先が生み出す音は、ふしぎなほど聴くものを引き寄せた。滑らかに叩かれるキィがピアノを歌わせ、旋律はそれだけで完璧な世界を創りあげる。ピアノと、少女。余計なものはいらなかった。照明の降り注ぐステージの上、その一対のみが存在を許される。
 ちいさな方舟の中に、ノアは世界のすべてを詰め込んだ。
 不要なもの一切を排除した、完全なるゆえにうつくしい世界。天上には虹が揺れ、それは至高にして唯一のものを示して――
「...う、ちがう、違うっ、――やめろッ!!」
 その叫びは、世界を汚す雑音となってホールじゅうに響き渡った。
 罵声を浴びせられた少女は、それでも手を止めなかった。二階席で立ち上がって震えているアレンは、明らかに取り乱し、狼狽して、哀れだった。異端の少年を、ゆっくりとピアニストが視線に捉える。彼女__ロード・キャメロットは、演奏を続けたまま、ひどく満足した様子で微笑んでみせた。

 


ブックマンの指揮はA・トスカニーニのイメージで是非。
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