師匠弟子の揺籃
コンソランテ・カント
 ラビと神田が帰っていったあと、アレンは預かったフルートを工房に持ち込んで作業に没頭した。分解し、縮んでしまったコルクを取り外す。神田が好む音を再現できるように、慎重に新しいものを選んで付け替える。彼がこのフルートを六幻と名付けたその理由を、アレンはラビから聞いた。神田が吹き込む息に応えて、六つの音色を変幻自在に描き出せる名器だからだと。たしかに、彼が奏でる音には色があった。アレンには喩えではなく本当にその色が目に見えるのだ。神田ユウのフルートはうす水から雲を抜けて、どこまでも高く澄んで広がり鮮やかなグラデーションを描く蒼穹そのものだった。
 マリアンは、弟子がその修理を行うことを許し、作業台の一角を譲って工程を見守っていた。オイルを差して馴染ませ、タンポの磨耗具合をチェックし、トーンホールをクリーニングしてキーバランスを調整する。まだまだ未熟なアレンには根気のいる作業だった。師の厳しいチェックを受けながら、ようやく納得のいく仕上がりになった時にはもう夜も更けていた。
「...あーお腹減ったぁ...師匠もなんか食べますか?」 きゅる、と鳴いた胃を撫でながらアレンはキッチンへ向かう。軽い夜食を作るためにエプロンを掛けるちいさな背を見遣り、クロスは戸棚から取り出したグラスに酒を注ぐとそれを一気に呷った。この男の燃料は食事よりもアルコールだ。半ば呆れ顔のアレンは冷凍庫からフライドポテトの袋を引っ張り出して封を切った。
「いらん。俺は寝る」
「おやすみなさい、師匠」
 フライパンの中身をひっくり返しながらアレンが云うと、流しに飲み干したグラスを置きに来た師がじっとその顔を見つめた。
「...師匠?」
「夜は眠れてるのか、おまえ」
 アレンは答えず、俯いたままポテトを炒め続けた。
おしゃぶり、、、、、が必要か? 坊や」
「...いらない」 聞き零してしまいそうな弱々しい否定のことばに、クロスは片眉を跳ねさせた。 「お腹いっぱいになったら寝れます」
 皿の上にできあがったポテトを移し、淡々とアレンは云った。熱されたフライパンは水をかけられ小さく叫ぶと白い湯気を上げる。細い手首は強引に掴まれたせいでその柄を取り落とし、耳障りな音がキッチンに響いた。触れた舌はアルコールを含んで苦く、煙草のヤニ臭さにアレンは眉をひそめた。喫煙者独特の味のする口吻けは違う男とのそれを思い出させる。
 握り締めた拳を目の前の身体に打ち付けて抵抗する。触れる手が熱い。おとがいを無理に掴まれてされるキスなんてのは、クロス以外にされたことがない。その皮膚に爪を立てることを躊躇うのは、仕事に影響することを恐れてだった。呼吸を惜しんでいやだと叫ぶ。溢れかえりそうになる涙を押し留め、アレンはひたすら逃げようとした。置時計の秒針が上向きから横向きに変わってようやくクロスは捉えていたアレンの顎から指を離した。
「馬鹿弟子、」 アレンはうまく繋がらない呼吸と、真っ赤になった頬を隠すように腕を掲げ後退った。 「あいつ、、、はやめておけ」
 クロスが云う相手が誰を示しているのかはすぐにわかった。いままでアレンがどんな女性や男性と付き合おうが、けして事前の忠告などしなかった師が、なぜ彼にだけこうも警戒するのか。距離を考えずに後退したことで戸棚に背をしたたかに打ち付けたが、その痛みをアレンはほとんど感じなかった。舌の上に広がった苦味を吐き出すようにして叫ぶ。
「...だったら、最初から家に入れなきゃ良かったのに!」
「俺のせいだってか、」
 表面上はいたって冷静に見えるクロスの声のトーンが微妙に低く変化するのを、アレンははっきりと色で聴いた、、、、、
「僕だって、」 震えそうになる声を、身体を、必死に支えて立ちながら。 「ぼくだって、あんな音聴かなきゃ...こんな...こんなに、」
「...アレン」
「師匠にわかりますか、僕の...ッ!」 「俺を見くびってるのか、それは」
 クロスは楽器職人の師としても、マナ亡き後を継いで養育してきた保護者としても、アレンの在り方をもっとも理解できる人間だった。だからアレンがあのチェリストにいままでになく惹かれていることも、その要因も容易く察することができた。アレンにしかわからない感覚__音を聴くと色が視え、さらに感覚の混同が起こると味覚まで聴覚と連動しはじめる厄介な体質で、あのチェロの音色にマナと共通するものを見出してしまったのだろうということを。
 少年のまだ軟らかで傷つきやすい部分がひどく刺激され、アレンは揺らいでいた。マナの音は、元は双子の弟の音で、“ノア”の音だった。あのチェリストがノアの一員ならば、その背後に必ずがいる。マナたち兄弟と友人だったクロスは、直接面識はないが千年伯爵という男を心良く思ってはいない。
「...忠告はしたぞ、馬鹿弟子」
 高低差のある視線は真っ向からぶつかり合って弾けた。銀のひとみは月光の淡さを潜めて灰色に暗く沈む。アレンはカウンターの端を固く握り締め、師がゆっくりと背を向けてリビングを出て行くのを見送った。
 硬質な破砕音が階段を昇りかけたクロスの耳に遠く届く。
 彼は刹那足を止めると、深い溜息と共に赤金の頭髪をかき混ぜたものの、キッチンに戻ってこどもを慰めてやろうとはしなかった。


 翌朝、自室にも階下にもアレンの姿は見当たらなかった。工房に置いてあったフルートはケースごと消えていて、大方依頼人へ直接納めるためにアレンが持ち出したのだろうと見当をつけたクロスは、常と同じく工房で楽器制作に没頭した。時計が昼を回り、午後のお茶の時間に差し掛かった頃、廊下でけたたましくベルが鳴った。いつもならば3コール以内に電話に出る弟子は当然おらず、クロスは仕方なしにたっぷり10コールは待たせたあと受話器を取った。
『ハロー?! ...マイスター?』
「...リナリーか、どうした?」
 ああ、居てくれて良かったと呟く少女の安堵の息がクロスの鼓膜をくすぐる。
『あの、いまからうちの劇場に来れますか、アレンくんが...』
「馬鹿弟子にピアノでも壊されたか、」
『違います。アレンくんが、その、倒れちゃって、』
「...なんだと?」
『いま兄さんが診てるんです、けど...どうしたらいいのかわからなくって、それで、あの...』 普段のリナリーらしからぬ歯切れの悪い台詞に、クロスは自分とアレンが諍いを起こしたことを少女が知っているのだと気付いた。
「...そうか。手間を掛けさせたな、リナリー」
『いいえ! そんなこと、』
「今から向かう。詳しい話はそっちへ着いたら聞かせてくれ」
 お待ちしてます、という声を最後にその電話は沈黙した。


 拾ったハックニーで劇場へ乗り付けたクロスは、勝手知ったる通用口から中へ入ると楽屋へ向かった。途中捉まえた団員に案内されて辿り着いた先に、ここ最近見かけなくなったチェリストの姿があった。男の隣にいる見知らぬ少女は、クロスに対して無遠慮なまでに興味津々の視線を送った。
 クロスは眼鏡の奥の眸をわずかに細めると、纏わりつく視線の糸をまったく無視して扉を開いた。その音に振り返ったリナリーが安堵の表情を浮かべてクロスを出迎える。
「...ちょっと過呼吸になったんだって、兄さんが云ってました。落ち着いて、さっき気付いたところです」 少女は部屋の奥を気にしつつ、小声でそう耳打ちした。
「すまんな、」 云ってクロスは軽くリナリーの頬を手の甲で触れた。 「外のふたりはなんだ?」
「女の子は、この間グランプリを取ったロード・キャメロット。男の人は付き添いで来たみたい。今日はロード嬢とうちのオケのリハだったんです。アレンくんも久しぶりに顔を見せてくれたから、聴いてもらってたんですけど...そうしたら急に、ようすが...」
 クロスはちらりと扉の外へ視線を移すと、 「アレンと話をさせてくれ、」 告げて奥のソファへと向かった。リナリーはちいさく頷き返して静かに部屋を出て行った。彼女なら気を遣って楽屋に誰も立ち入らないようにしてくれるだろう。
 据えられたソファの上に横たわる弟子は、タオルケットを片手で握り締め、もう一方の手で顔を隠していた。その頬に涙のあとを見つけるのは容易かった。クロスは黙ってソファのすぐ傍へとしゃがみ込むと、じっと弟子の顔を見つめた。
 どれくらい沈黙していたか。吐息と共にクロスが名前を囁くと、アレンは声と息を詰まらせて びくり 震えた。クロスが指で払ってやった前髪は、涙に濡れたのかしっとりと絡む。露わになったちいさな額には、アレンが幼い頃__ちょうどマナが死んだときについた傷のあとがうっすら残っている。それは左の瞼を裂き、頬にまで至る酷い怪我だった。白い産毛の額の際へとクロスが口吻けを落とすと、か細い嗚咽が上がった。離れていくのを追いかけるように伸ばされたアレンの両腕に捕らわれながら、首元に染みるあたたかな滴を感じながら、クロスは震えるこどもの背をできうる限りのやさしさでくり返しくり返し撫でてやった。
 

 


修理工程は適当に想像☆...ってかあれ?
師弟は...乳離れできない息子と子離れしがたいパパみたくなる
師匠には父性を求めたい .d です
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