弟子と寂然の
ティモローサメンテ
 ドアベルも押さずに、彼は堂々と居間に入ってくる。僕と師匠が工房で作業中であろうとなかろうとそれは変わらない。重そうなチェロケースをダイニングのテーブルに乗せて、鍵を外す。使い込まれていて、けれど木目もニスも美しいチェロを取り出すときの彼はずいぶん楽しそうだ。僕が知っている他の演奏家たちも、自分の楽器は命より大切そうに扱う。そんなふうに愛して貰える楽器が、僕はいつもほんの少しだけ羨ましい。
 彼はケースからチェロを取り出すとエンドピンを付け替える。その時はチタンと真鍮を合わせたものだった。彼は弾く曲や作曲家によってピンの種類を変える。床を傷つけないためのストッパーを用意するくらいには、彼も遠慮というものを知っているらしい。アカシアの椅子を一脚引っ張り出して腰掛けると次に弓をチェックしていく。弓に張られているのは馬の毛で、根元の螺子で張りの強弱を調節できる。毛の張り方は演奏途中にも調節するけれど、彼みたいに大きな男のひとが細かい作業をするため手元を真剣に見詰めているのはなんだか可愛かった。
 ストッパー付きのエンドピンが床に突き立てられ、彼は深く長く息を吐く。重音__二本以上の弦が同時に鳴らされる。手馴れたようすでペグを回しながら彼はチェロを直接チューニングしていく。僕はそれを見守り続ける。唸りを伴った音の濁りは灰色をまぶしたようで......そうして、開放弦が完全5度の音をもって響くとき、僕は彼のチェロの色を視る。この耳で捉えた音のすべてが色をもつわけじゃない。スイッチが入る瞬間があり、僕はそれを自覚する。小さい頃は人の声や生活雑音までぜんぶひっくるめて煩いくらいだったけど、マナがいなくなってしまってからはぴたりと視えなくなってしまった。楽器の音色を聴いたとき、マナへの想いが刺激されたとき、ちょっとしたきっかけでそのスイッチはオンになる。僕は世界がいまだにうつくしい色彩を描き出せることを知り、また無遠慮に混じり合わされた音がいかに醜いものかを痛感する。この心臓が刻む鼓動ですら、雑音に思えてくる。ああ、僕はきれいなものがみたい。きれいなものだけを......、信じていられたなら。
 調弦を終えた彼が、ようやくチェロから視線を外し、僕を見た。切れ長の眸、すっと通った鼻梁。左の泣きぼくろがなかったら彼の魅力だってちょっとは少なかったろうに。街を歩けば誰もが目を奪われるだろう。そして声を耳にすれば甘く蕩ける。あなたの声、好きですよ。ああ、だからそんな、焦げ付いたカラメルみたいな色はやめて。
 きれいなものだけをぼくにみせて。そうしたら、そうしたらぼくは――




 額から懐かしい手のひらの感触が遠のいていく。追いかけるように、アレンは白い睫毛を震わせ瞼を開いた。その拍子に涙が一粒、ほろりとまなじりを滑り落ちていく。瞬きのあと像を結んだのは、見慣れた自身の寝室の天井だった。カーテンの隙間から射す朝日はきらきら輝いてアレンにおはようと語りかける。夢から醒めたばかりのぼんやりとした頭で寝返りを打つと、皮膚にうすく伸びた涙はシーツに吸い込まれて消えて行った。ヘッドボードの上に置かれた時計は、普段アレンが起きる時刻よりだいぶ早い位置を示している。けれどもう一度目を閉じる気にはなれなくて、少年はそのまま静かに身体を横たえていた。
 枕元には、一組の人形が置かれていた。年季の入ったそれは布が毛羽立っていたりところどころ糸のほつれも見られたが、とてもていねいな扱いを受けているためか汚れや大きな傷みはなかった。ピエロ親子の人形は、アレンの唯一のたからもので、おまもりだった。枕辺に人形を置くなんて子供染みているとは思ったが、ここ最近これがないとどうしても寝付くことができなくて、アレンははじめてその人形たちをベッドに持ち込んだ。
 指先でちいさな人形の足をいじっていると、主が目覚めたことに気付いた飼い猫__ティムキャンピーが金の尻尾をゆらしながらベッドに近寄ってきた。ティムから朝のあいさつを受けたアレンは微笑んだものの、身体を起こそうとはしなかった。音も無く布団に飛び上がった猫に頬を舐められながら、じっと人形を見つめている。
「...ティムは草むらみたいだね」 ぽつりと云うと、首を傾げてにゃあと鳴かれた。よく晴れた日の草原の色のする声には、わずかに苦味も混じっていた。
 ティキとのキスはあまかったのに。
 ざらついた舌が唇を掠める。ティムが自分を心配してくれているのだということはその声の味からもわかってはいたが、アレンはちいさな猫の額を掻いてやることすらできずにいた。なにかと忙しくて、うっかり気付くのが遅れてしまった。数えてみればもう、10日はあのチェロを聴いていない。明日は来ないと云ったっきり、彼は姿を見せなかった。日程を聞きそびれていたコンサートに出掛けてしまったろうか。それともクロスへの交渉を諦めてしまったのだろうか。あるいは――
 人形のボタンの目が、考え込む少年の顔を映していた。
「声だけでも、聞きたいのにな...」
 連絡先さえ、アレンは知らなかった。毎日通ってくるティキをただ待っていれば良かったからだ。なぜそんな頼りないものを信じていたのだろう。彼の心ひとつで左右される出逢いなんかを。
 チェロでマナと良く似た世界を魅せてくれたあの日の、衝撃と感動のままにハグもキスもしたことを悔いてはいなかった。けれどアレンには彼はノーマルでヘテロな男性だとしか考えられなかった。恋をするのもセックスする相手も女性を選ぶ、ごく真っ当なひとだ。そういう見立ての正確さにおいて、アレンは一定の自負があった。そういう男、、、、、まで選んでしまうのはおまえの悪い癖だと師には何度も云われてきた。まったくその通りだ。過去、長く保った試しがない。でもそういう性分なのだから仕方ないじゃないか、といつからか吹っ切ってしまったアレンは、盛大に溜息をついて枕に顔を埋めた。ティムキャンピーのひげが、耳に触れてくすぐったい。
「あー...嫌われたかなぁ...避けられてるかなぁ...ねぇティム?」
 猫はすこし短く鳴くと、鬱々としていつまでたってもベッドから出ようとしない主の頭をかるく踏ん付けてそれに応えた。

 


前半は拍手お礼でした。微修正有。
ティキは手足長いと思うので、エンドピンも長めだと思いますとかそういう無駄な妄想。

互いにひとり悶々とするティキアレ。
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