チェリストの懊悩
アッバッキアート
 きっかけはなんだったか。
 ティキはそう自問した。
 さいしょは、そう、名高い楽器職人であるクロスに仕事の依頼をしに行ったことだ。住所を調べ上げて工房を直接訪ね、ドアベルを鳴らしたティキの前に現れたのが、アレンだった。取り次いでもらったクロス・マリアンにチェロ作製をすっぱりきっぱり断られて、それでもしつこく工房に通ったのはアレンがいたからかもしれない。あの師弟の間にある関係に薄々感づいていたティキの、師匠クロスを落とすならまず弟子アレンから__といった打算的な考えの元、チェロを弾き続けた。だがそのうち本来の目的を忘れ、集中するまま真剣に練習していた。居心地が良かったのだろうと思う。ティキの親族は貴族階級に属していて、古くから受け継がれてきた領地や城もいくつか持っている。そんな家に育ったが、彼自身はそういった特権階級の空間や思考に馴染めなかった。自分の持ち家として与えられた城の一室でチェロを弾くより、かろうじて防音設備のあるらしい職人の家や、野外といったオープンな場所の方がティキには好ましかったのだ。
 ある日、彼がいつものようにマリアンの居間に居座って演奏していたとき、お茶を淹れに工房からやって来ていたアレンがドアの影にいた。
 演じることに集中していたティキは、一曲弾き終わるまで少年に気付くことはなかった。だからアレンは、驚愕と郷愁とわずかな期待を綯い交ぜにした気持ちを胸に抱いて、その音に耳を澄ませていた。
 師のものともアレンの父とも異なる、大人の指先が弦を押さえ、しなやかに肉のついた腕が弓を動かす。ティキが奏で創り出す世界おとが、記憶を超えて心の奥底に眠る儚い息遣いを刺激する。凍えた吐息は胸に震え、ほんのりとした温もりを取り戻して唇のあいだから零れ落ちた。
 チェロの音色は、そのまま視界に鮮やかな色彩けしきを描き出す。朝靄に歪む虹がアレンにははっきりと視えていた__いや、聴いていたのだ。新緑広がる草原/吹き渡り木々揺らすそよ風/さえずる小鳥たちの声/空気は澄み、空は高く、光溢れる楽園がそこにあった。ずっとずっと昔、父がまだ生きていて、ふたりであちこちを放浪していた頃も、これとよく似た、プリズムを――
 扉に嵌め込まれた硝子の向こうでチェロを弾く男の姿を、アレンはまるでいま初めて目にしたような気持ちでいた。普段の演奏いろはもっと、冬の黄昏と黎明を雑じ合わせたどこか不安定な音をしていたのに。その少し俯いた顔には迷いも焦りも無く、ただ曲を奏でる喜びがあり、祈りのような真摯さで音譜に向かい合う姿があった。彼が楽譜から解いて結び直した世界が、粗末な居間を彩り満たしている。
 アレンはいつのまにか詰めていた息を解き、けして広いとはいえない空間にその虹色おとが溶け消えていくのを静かに見守った。
 彼が、師匠の作った楽器を手にしたのならどうなるのだろう。未だに震える胸を押さえつつ、アレンは思った。そうなったなら、父と同じ世界を魅せてくれるだろうか。
 幼い記憶の底、横たわる郷愁の音。さいごの音はなんだったか。ヴァイオリンの、調べは灰色の冬空に溶けて、マナは――

 弦が長く切ない響きを止め、ティキが弓を握る腕から力を抜いたとき、彼ははじめてドアの向こうに唯一の観客がいたことを知った。
 どきり、と心臓が跳ねる。
 かち合った視線の向こう、少年の瞳に、えも云われぬ色を視た。
 揺らめくそれは、薄く張った涙の膜でふしぎな輝きを放っていた__そうティキが理解したのは、自分に向けて真っ直ぐに飛び付いて来たアレンが口を吸うのを許した瞬間だった。やわらかな唇が触れ、驚愕を隠せないティキの首筋へアレンの両腕が廻り、短いキスが終わって互いに額を合わせたとき、銀の眸から透明な輝きが零れ落ちた。アレンはそれを隠すように顔をティキの肩へと伏せる。押し殺された泣き声の、呼吸が服を湿らせた。突然のことに動揺したまま、だけれど幾分か大人であることの余裕からか__ティキはそっと、目の前の細い体躯を抱きしめてやった。
 アレンの行動の意味を、口吻けの意図を、ティキは言葉では問わなかった。
 首筋に縋り付いて静かに涙する少年の体温に頬寄せて、自分の弾む鼓動に耳澄ませる。アレンの気が済むまで腕に抱いていてやろうとして、楽器を持ったままの体勢はひどく窮屈だと気付いた。そうして漏らしてしまった溜息を聞きつけた少年が、おずおずと顔を上げ身体を離していった。しきりに瞬きし、目尻をこするアレンを見つつ、ティキはひとまずチェロと弓を慎重に脇に置いた。
「...ごめんなさい、」 すん、と鼻をすする音。「あんまり、その、あなたの演奏おとが...」
 ティキは椅子に掛けたまま、横に立つアレンをまじまじと見上げた。目元はすっかり赤い。腫れた瞼をまだ擦ろうとする手を慌てて掴まえて止めさせた。
「泣いちゃうくらい良かった?」 茶化すように軽い口調のティキに対して、アレンはひどく神妙に頷き返した。 「ええ、とても。感動しました」
 花の蕾が綻ぶような笑顔だった。今度は額に軽く、 「...ありがとう」 感謝のキス。それを受けたティキが途端に眉をひそめるので、アレンは首を傾げた。
「少年、感動したらいつもあんなこと誰彼構わずやんの?」
「――まさか!」 目を丸くしてきっぱり否定される。 「僕そんなに節操なくみえますか?」
「あの師匠にして、出来の良いお弟子さんだね」
 あの人は関係ないでしょ、と口を尖らせるアレンに微笑みつつ、ティキは掴んだままの腕を引いて顔を寄せた。 「なら、俺ともう一度キスして」
 湿った綿毛がゆっくりと伏せられて、その返事ごと唇を吸った。このときはまだ、アレンは自分の演奏に素直に感じ入ってくれたのだと、ティキは疑いもしなかった。


 きっかけはなんだったか。そうだ、この日だ。
 楽器職人のもとへ通い続けて二週間も過ぎようかという日の午後、それまで散々俺のチェロを聴いていたアレンが激しく反応を示したその日。
 弾いていたのは、幼い頃から叩き込まれた曲だった。本来は室内楽用に書かれた譜面の、一部分。ティキの一族が集まるときには必ず演じる曲目だ。作曲したのも、指揮を執るのも、ティキの後見人であり音楽の師である千年公__楽界を追放されて久しい鬼才の音楽家が、密かに今日まで育ててきたのがティキの家族だった。畏れおおくも天にまします父なる神をも慰撫する音色だと賞賛され、やがて他の者の奏でる音をことごとく呑み込んで潰してしまう狂気だと批難された演奏家が心血注いだ奏者の集まり__その一角を担うティキの、年齢と腕前にしては遅すぎるデビューを前に楽器職人のマリアンを教えたのは千年公だ。
 ティキはマリアンが容赦なく自分へ撃った言葉の弾丸を反芻した。あの憎らしい赤毛の美丈夫はなんと云ったか。“神の慰めノア”と確かに口にしたのだ__千年公がたびたびティキたちきょうだいをそう呼ぶように。千年公がマリアンを知っていたのならば、マリアンが千年公を知っていてもおかしくはない。態度から察するに、とても友好的とはいえない間柄ではあるのだろうが。ではアレンが自分の奏でる音に観たものは何か。
 いったい、誰の影を、俺に見た?
 きょうだいのうちの誰かだろうか。彼らが内輪の演奏会以外で、それも楽器職人の弟子であるアレンの前で嬉々として演じたことがあるとは到底考えられない。けれど誰かと接触したことがあるのは確実なのだ。でなければ、マリアンの言葉の意味が解せない。
「...っクソ、」
 頭を掻き回すと、ティキは肘掛け椅子の背凭れへと強く身体を押し付けた。ひとりで悩んでいても埒が明かない。問い質さない限り、どうしようもならないことは判っていた。だけれどティキにはマリアンの工房へ行くことも、チェロを弾くこともままならなかった。あれからもう、一週間は経つ。
 ひとり悶々と煙草ばかり吹かしていると、珍しいことに来客があった。今年コンクールへ初参加して見事にグランプリを勝ち取ったティキのきょうだいが、帰国間もないというのにわざわざ訪ねて来たのだ。
 仕方なく客間へ顔を出しに行くと、ティキの腰ほどしか背丈のない少女は彼を見るなり眉を跳ね上げた。
「なんてカオしてんの、ティッキ」
「...ご挨拶だな、ロード。よぉ久しぶり、」
 少女は片手を上げたティキを胡散臭そうに見て、呆れたとばかりに息を吐いた。 「千年公が気にしてたよ。クロス=マリアンに殺されたんじゃないかって。」
 随分な云い様だったが、あながち間違いでもないかもしれないとティキは思った。 「まだこの通り生きてはいるよ。おまえ、国外ツアーはどうだった?」
「たぁいくつ」 飾られた器から葡萄を一粒口に放り込んで少女は笑った。 「ボクと張り合えるピアニストなんていないんだもん」
「オケもな、」 と云ってティキは少女の傍に腰を下ろした。そういえばアレンの友人にピアノを弾く少女がいたが、ロードは彼女を気に入るだろうかと思案したところで、 「なぁおまえ、アレン・ウォーカーって知ってるか、」 思いついたまま訊いた。
「アレン? 何ソレ、男?」 アーモンド型の眸がぱっちりと開いてティキを見つめた。家族を除き、男性の名を口にするなんてありえないといった視線に、ティキは憮然とした。
「そうだよ、まだガキで、マリアンのところの弟子。逢ったことは?」
「ないよ!」 「ずっと前にも?」
「ないったら! 何、なんなの、それ? どういうことなの、ティッキー」
「...知らないならいいんだよ。気にするな」 詰め寄ってくるロードに向かって煩げに手を振る。用は済んだとばかりに早々と席を立つティキの背に、ぼふん!とクッションが当たって床に転がった。
「気になるだろ! バカ・ミック!」
「こンのお転婆め! ...大したことじゃねぇからいいんだよ。ホラ、さっさと大好きな千年公のとこ帰れよ」
「やァだ! ティッキーのチェロ聴きたい! せっかく千年公のお茶会に一緒に行こうと思って寄ったのに〜ぃ」
「俺ちょっといまそんな気分じゃねぇんだよ」
「...だから、酷いカオしてたの? そのアレンって子、何なわけ?」
 ティキは溜息しつつ床からクッションを拾い上げると、ロードへ放った。 「あとで千年公には顔見せに行くから。おまえは帰れ」
 不満そうな、心配そうな上目遣いでじっと睨まれる。彼女は我侭も人一倍だが、きょうだいたちへの情も同じくらい強かった。悪いなとティキが呟いて踵を返したその時、 「...アレン...ちょっと待って! ティキ!」 弾んだ声が客間の高い天井に響いた。ティキがゆっくりと足を止める。
「ウォーカー?って云った? クロス=マリアンの弟子だって?」
「ああ。逢ったことねぇんだろ、おまえは。なんだよ...」
「まさか、まさか...、マナ・ウォーカーの息子?!」
「は?」 思いも寄らないところから切り返されて、ティキが瞠目する。 「いや...親父の名前なんか聞いたことないけど...」
「何だよもう甲斐性ナシ!」 すっくとロードは勇ましく立ち上がり、ティキへ一直線に飛び付いた。 「千年公のとこ行くよ!」
「おい...いッて! 何なんだっていったい...! こらロード!説明しろって!」
 自分より小さな少女に引き立てられて行くティキの姿は、社交界のご婦人方が目にしたならば幻滅するだろうが、生憎彼の屋敷ではたびたび見られる光景だった。主人に仕える有能な執事は云いつけられるまでもなく車を用意し、運転手も行き先は心得ていた。後部座席に無理矢理押し込まれてティキはぶつぶつと文句を零していたが、常になく深刻そうな表情のまま黙り込んでしまったロードを真向かいにして口を閉じた。

 


ちっちゃいけどお姉ちゃん気質なロードたまがすきです
そしてうちのアレンくんはキスだいすきだからけっこうキス魔になる
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