「
それはまるで日曜に教会で聖書を読む神父のような__静謐でいて抑圧されて高慢な声だった。だが男は神父でも聖人でもなく、楽器職人で__少年の師匠だった。ティキ・ミックはなんとなしに指でオリーブ弦をいぢった。ピチカートのなりそこないみたいな音がまさに今の彼の心境だった。 「――それ、牽制のつもり?」
その言葉に片眉をぴくりと跳ね上げたクロスは、不機嫌そうに息を吐いた。紫煙がゆるやかに空へとのぼり、消えていくのをティキはじっと見つめた。
「...馬鹿弟子の恋愛事情なんざに口を出すつもりはねぇ、」
「じゃあ親ゴコロってやつ? クロス・マリアンが?」 からかうようにティキが云うと、クロスはさっと表情を消し去った。どきり、跳ねる心臓__厭な予感。勝手知ったるこの楽器職人の家の居間、定位置になりつつある椅子の座り心地が最高に悪くなる。
「――ひとつはっきりさせておいてやる、ティキ・ミック。あれがお前に惹かれているのは認めよう。だがな、あれが視ているのはお前じゃない。
がたん。
「あれ? 来てたんですか、ティキ。どうしたんです? チェロ持ったまま突っ立ったりして、」 軽い物音と共に居間に飛び込んでくる声。絶妙なタイミングで現れた少年を、ティキはひどく恐れるように無言で見つめた。
へんなの、アレンは笑うと、すぐにクロスへと駆け寄った。色素の薄い彼の頬が上気しているのを見れば、少年が興奮に色めき立っているのはすぐにわかる。ねえ師匠、僕すごくすてきなピアノをみつけたんです! 稚ささえ感じる口調でアレンは云い、クロスの袖を引いた。
「ああ? だからなんだってんだ、」
突然乱入してきたアレンを理由に、クロスはティキとの会話を早々に切り上げなかったものとして扱った。弟子にまとわりつかれて不機嫌そうな師匠の仮面を被った男は、それでもティキに向ける視線より何倍も慈しみに満ちたものをアレンに注ぐ。
「だから! 師匠も見てみたいでしょう? シュタインですよ、」
「そりゃまた古臭いもんを持ち出してきやがったな。で? どこのお貴族様を引っ掛けてきやがったんだお前は、」
む、 アレンは頬を膨らませた。 「師匠じゃあないんだからそんなことしません。紹介されたんです、リナリーに。調律をしてあげてほしいって」
「...で、馬鹿弟子のお前はピアノを調律できずに戻ってきやがったんだな?」
「う゛」 クロスの太い指がアレンの額を弾いて音を立てる。
「...図星か。それとお前、調律師にでもなるつもりなのか?」
「違います! けど、だって、頼まれて出来ることだったらやりたいじゃあないですか、」
「お前の
う゛__アレンはふたたび詰まって、しおしおと頭を下げた。それでもクロスの袖を子どものように掴むのだけはやめなかった。
「ししょう、」 縋るような声をアレンが出す。愛してと懇願するような。クロスは自分の肩にも満たない弟子の頭を乱暴な手つきで掻き回した。 「美人のピアニストなんだろうな?」
「え、」 ぱっ と上がったアレンの表情が輝きに満ちた。 「師匠!」
「わめくな、うるさい。で、どうなんだ、そのリナリーの友達とやらは」
「えーと...、師匠のタイプではなさそうかも?」 首を傾げつつ。「でも、良いひとですよ。だってとってもピアノを大事にしてるんだもの。それに、彼女はきっと付き合う男性によって化けると思います。エスコートしてあげれば、このうえなく素敵なレディになりますよ」
「馬鹿弟子、ヒギンズ教授の真似事なんざするんじゃねぇぞ、」 紫煙を吐きつつクロスが云う。煙草の灰がアレンに掛からないよう、長い腕が遠くでさりげなく灰を落とす。 「あ、」 居間のテーブル、ティキが座っていた椅子のすぐそばに置かれた灰皿目掛けて、吸い差しの煙草が宙を舞った。
「師匠! 煙草の灰、床に落とさないでくださいよ。それと投げない!」 あぶないでしょう__アレンが注意し、見事に灰皿にシュートされた煙草を摘み上げて火を消した。銀の双眸がティキを見上げる。「だいじょうぶでした?」
「ああ...」
にこりと白い薔薇が咲くような笑顔。 「ティキ、ティキもいっしょに来ますか?」
「...いや、俺は、帰るよ」 喉の奥に張り付いた舌を無理やりはがすような声が云った。「明日は来ない」
アレンは少しだけ、ほんの少しだけ不思議そうな顔をした。少年が背後にいる師を振り返る隙に、ティキは手早くチェロを仕舞ったケースを持ち上げ、ふたりの横を早足で過ぎ去った。ぎぃ、と長く尾を引いて玄関の戸が閉まるのを聞きながら、アレンは怪訝そうに己の師を見上げた。
「...また何か云ったんですか、師匠?」
「なんで俺が悪いんだと決め付ける。なんもねェよ、」 あってたまるか__クロスの憎まれ口。
「でも、師匠、」 若いチェリストの去って行った方角を見送るように、視線を遠くにしてアレンが零した。「彼の声、焦げ付いたみたいに黒い色で、苦い感じがしましたよ」
途端に、クロスが渋面になる__アレンはばつが悪そうに肩を縮こまらせた。自分のこういった発言を、師が殊の外疎んでいることを思い知らされる。 「あの...」
「調律に行くんだろ、道具は持ってるんだろうな、アレン」 「え、」 「さっさとしねぇと日が暮れるだろうが、馬鹿弟子。案内しろ、」
「あ、はい!」 歩き出す大きな背中に、アレンは慌てて従った。必要な道具はすべてミランダの部屋に置きっぱなしだった。
俺は修復はしねぇ性質なんだが特別だ__調律だけに及ばず、クロス・マリアンはその古いピアノをわざわざ工房に引き取って、一度
予定外に忙しく過ごした数日、そしてあっという間に一週間が経って、アレンはあのチェリストが奏でる音色を、久しく聴いていないことにようやく気付いたのだった。