弟子ピアニスト
「ハロー? マリアン工房です」
『ハロー、アレンくん?』
「やあリナリー! お久しぶりです、何かご用?」
『ええそうなの、ちょっとアレン君に頼みたいことがあって』
 僕に? アレンは訊き返した。 「クロス師匠ではなくて?」
『友人として頼みたいのよ』
「嬉しいな、」 肩に挟んでいた受話器をきちんと持ち直しながらアレンは云った。僕に出来る事だったら喜んでするよ、リナリー。少女が受話器越しに微笑むのが感じられた。彼女はひとつ呼吸をおいたあと、
『あのね、ピアノの調律を頼みたいの』
「アッコールダーンド?」 アレンが驚いて繰り返すと、残念そうな少女の声が駄目かしら、と耳元で告げた。それを慌てて否定し、 「リナリーのピアノを?」 改めて訊ねた。彼女のピアノに触れるのは、ひょっとして彼女自身に触れることより困難なのではないかという想いがアレンの思考を掠める。
『いいえ、わたしのじゃなくて、友達のなんだけれど、ちょっと事情があって』
「...ああ、ひょっとしてお金?」 いくらか残念そうな、それでいて安心したような声でアレンは訊いた。そうなの、と少女は答える。
『わたしが出してあげてもよかったんだけど...その人に断られちゃって。でもとってもいいひとで、すてきな音色おとをもってるから...ピアノを直してあげたいの。こんなこと頼めるのアレンくんしかいなくって...お願い、アレンくん』
 ああこんな声でお願いされちゃったら断れないよなぁ...と頭の片隅で思いつつ、アレンは、 「いいですよ、引き受けます」 快く承諾した。



 リナリーに教えられたアパルトメントに迷子になりながらも辿り着くと、アレンはドアベルを鳴らした。しばらくして扉が遠慮がちに2インチほど開かれ、どなた? おどおどした女性の声がした。
「ミズ・リーの紹介で来ました、アレン・ウォーカーです。あなたがミズ・ミランダ・ロットー?」
「リナリーちゃんの紹介? お、男の子? なななんの御用?」 ドアの影で慌てふためく女性に向かってニコニコと笑いかけながら、アレンはピアノの調律に来ました、と告げた。
 え、 拍子抜けた声に自身で驚いて口元を押さえるミランダに、アレンは変わらず微笑み続ける。
「お邪魔しても?」
「え...ええ、あの、...どうぞ......」
 ミランダは忙しなく左右に揺らしていた瞳を観念したように閉じた後、まるで深い谷底を下に向かいの崖へと飛び移る前のように、おおきく息を吸って、吐いて、ドアを開きアレンを招いた。暗めのトーンを基調とした、控えめな衣裳の肩が縮こまったままだ。
「サンクス、」 そんなに緊張させてしまって申し訳ないなと思いながらも、アレンは細い廊下を進んでいった。部屋は寝室と、キチネット付きの居間のふたつのようで、通された質素な居間に入った途端アレンは息を呑んだ。この部屋のなかで唯一の家具であるような存在感でそのピアノはそこに在った。
「すごい...」
 思わず感嘆の溜息を洩らし、アレンは足早にピアノに歩み寄る。後ろからミランダが恥ずかしそうに、 「古くてボロボロでしょ、祖母から譲り受けたものだから...最近音が外れすぎちゃって、」 云った。
 確かにそれは、古風なピアノハンマークラヴィーアだった。ペダルは足元にはなく、膝元にある。キーは61=5オクターブの音域しかない、ちいさなピアノ___鍵に触れると、現代風のピアノとは違う独特の音。アレンの目に音が薄桃色の水滴になって滑り落ち、ちいさな光の粒となって弾けるのが聴こえた、、、、
「...シュタインのピアノですね、初めて見た、」 お祖母さまはドイツの方ですか? 訊けばミランダはおずおずと頷いた。 「そうよ、わ...わかるの?」
「わかります、だってミズ・ミランダ、あなたのRの発音聞くと新緑の樹がざわざわ揺れるんだ......」 半ば夢見るような声でアレンは無意識にそんな言葉を口にした。意味がわからずミランダは え? と首を傾げる。暗く濁った茶色と黄色と、ほんのり青の光を弾いた木の実のようないがいが、、、、が目の前のミランダの髪の辺りから零れ落ちるのを聞いた、、、瞬間、アレンは自分の過ちを悟った。

 


初出;WEB拍手+加筆修正
そんなわけでアレンくんはシネスシージア。
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