「ティキは、ドを聴くと
唐突に少年はそう訊いた。目的地に向け車を走らせている間、路地裏で声を上げて抵抗していたのが嘘のようにアレンは大人しかった。俯いて急に黙り込んだ子どもの腕を強引に引いて助手席に押し込んだのはティキだった。年季の入ったオンボロ車は深夜の海岸沿いをがたがた転がり、やがて停まった。深夜の道に響く車のエンジン音はうるさすぎて、シーズンオフで閑散としている別荘地だったからよかったものの、通報されていてもおかしくない程だ。アレンはやや青白い頬をさせて車に酔ったと云い、ティキは腕を伸ばすと窓を開け(手動だったので少し時間が掛かった)、少年の顔を覗き込んだ。そうしてさっきの質問が来た。
多くの人にとってそうであるように、ティキにとってC音はC音でしかなかった。それ以外に何があるというのだろうか。「それは、聴いてイメージするものってことか?」彼は困ったように眉を寄せてアレンを見た。アレンはぼんやりとした目のまま、どことなく幼い表情でフロントガラスの外を眺め、緩慢に口を開いた。
「違います、そうじゃない...たとえば僕には262ヘルツのドって黒に聴こえる。真っ暗なトンネルが実際目の前に現れるんです。そのまま吸い込まれて戻って来れなくなりそうなくらい、真夜中の明かりのないトンネルが」
ぶるり、とアレンは震えて両肩を竦めた。開け放った窓からは存外に冷えきった空気がなだれ込む。夜はもうすっかり冬の温度だ。
「でもって、この車のエンジン。ヘドロみたいな色した立方体が頭ガンガン殴って響いてくるんだもの、さいあく」
ティキはやや驚きを表したあと、頬を掻いた。アレンの云っていることを十分に理解できたわけではなかったが、知らず不快な気分にさせてしまったことだけははっきりとわかったので、「悪かったな」とティキが云うと、アレンはちいさくかぶりを振った。
「よくはわからないけど、体質だろうって云われたことがあります。だから仕方ないんです、もうずっと、ちいさい時からそうだから」
身を切る寒さは、アレンに大切な人との出会いと別れの記憶を想起させる。アレンは話し続けた。相手が何も云わず、時々打ってくれる相槌に引きずられるように喋り続けた。孤児だったこと、サーカスにいたこと、マナのことを__師以外には話したことのない過去を。
「記憶にあるいちばん古い音の色は、あったかいオレンジの...暖炉の炎みたいにやさしく揺れてる音。僕の父さんの、子守唄です...マナの、父さんのヴァイオリンがいちばん好きだった。汚いものばかりだった僕の世界をきれいにしてくれたから」
辛いとき、いつもアレンの心に蘇るのは養父の音色だった__うつくしい世界。どれだけ大切にしていても、手のひらから零れ消えてしまう想い出をどうにか留めたいと願い続けてきた。
いつのまにか潤んでいたアレンの目から、一滴の銀がほろりとこぼれ落ちた。ティキは手を伸べるとまだ腫れの残る頬にそっと触れ、その泣き顔を正面から見据えた。
「ただ代わりの音が欲しいだけなら、俺はそれを与えてやれる」
「あなたのチェロが好きでした。音が、僕が聴いた中で今までいちばんマナに似てた...」
「でも俺は、誰かの代わりなんてごめんだな」冷えた声音がふたりの間で響いた。アレンはそれが当然だと云うように顎を引いて深く頷き返した。
「...冷えたな。閉めようか、窓」云われて、アレンはレバーに手を掛けた。そうすることで視線を逸らし、はっきりと拒絶されたことでじくじくと疼く胸の痛みを耐えようとした。耐えることは慣れていた__諦めることも。レバーを回してきっちりと窓を閉めるあいだ、アレンはこれからどうすればいいのかを考えた。左手の握手をすべきかどうかを。迷ったまま答えは出せず、アレンは短く嘆息した。ふと目線を上げると、情けない自分の顔が窓に映り込んでいた。
そのとき、冷えきった車内の空気が動いて、アレンは背中越しにほんのりとした熱を感じた。目を大きく見開いた自分の顔の、そのすぐそばに寄せられた男の頭が、ゆっくりと肩に沈んでいくのをアレンは驚きに固まったまま見た。首筋の肌がぞわりと粟立ち、シャツの下で心臓が跳ねた。アレンの右肩に額を押し付けたティキは、くぐもった声で「なぁ、もし俺がおまえのためにチェロ弾いても、もう嬉しくない?」訊いた。
「なに...」震える唇でアレンは言葉を絞り出す。「なんで...?」
「俺はおまえくらいの歳の時にはもうチェロやってたけど、別になんとなくだったんだよな。家族みんな何かしら楽器やってたし、特に嫌いじゃなかったし。でも家族以外に聴かせたことはほとんどなかったんだ。内輪の席での演奏なんて、お世辞混じりに決まってるだろ? 褒められたって、ちっとも実感なんてなかったんだ。たぶん俺も、俺の家族も、自分たちは他の奴らより優れてて当然なんだって思ってる。それに、俺らの指導者ってさ、ヘタクソな音なんて出したら笑顔で鞭打つくらいのコワーイ先生なんだよ。心のどっかで聴衆よりもそっちの反応ばっか気にしてた気がする。だから、」
そう自らを告白して面を上げたティキを、困惑を多分に滲ませた銀の瞳が見上げた。理解を促すように男は微笑んだ__ほんとうに伝えたい言葉が相手にきちんと届くように願いを込めて。ゆっくりと単語を噛み締めながらティキは告げた。「...だから、おまえが俺のチェロに感動してくれたとき、はじめて嬉しいと想ったんだ。まあ正直、男の子からキスまでされるとは思ってなかったけど、」
その言葉にアレンはわかりやすく動揺した。とっさに距離を取ろうと逃げる身体を背から掬うと、ティキは背後からアレンを抱きしめて捕まえた。その暖かく力強い腕から逃げる気力を奪われたアレンの身体は、ずるりと男の膝の上に引きずられた。襟足を湿った吐息が掠めて、アレンは狼狽えた。ティキ、と男の名を呼んだのが合図のように首筋に熱い唇が押し当てられる。
「まっ...て、待って!」
「ん?」
僕は男ですよ__身じろぎし、しどろもどろにアレンが告げると、「わかってるよ」平然とした口調でティキが返す。これにはアレンも言葉を失って、首を曲げ呆然とティキを見た。
「どうして...」
「妬けた、」男は整った顔で口の端を歪めてみせた。「マナってやつにも、おまえの師匠にも」
銀の瞳が忙しなく左右に揺れるのをティキはじっと見つめていた。震える細い指がティキの腕に縋った。そっと額を合わせる。やわらかな髪、小さな額がいとけなく感じて、男は苦笑した。相手はまだほんの子どもだった。どれだけ頑なに強がってみせても、ティキと10以上も歳の離れた子どもで、大人に守られ甘やかされても良いはずの存在だった。
「ごめんな、」アレンの目が何の事かと無言で問うのに、「俺のわがままで少年を連れてきて」ティキは云った。
アレンは口を閉ざしたまま、何も云わずにいた。どこか今にも泣き出しそうに見える。少年の薄い肩を抱いて、ティキは身体を引き寄せ胸を合わせた。少し速い鼓動が伝わってくるのを感じながら耳元へ囁いた。「おまえの大切なひとの代わりになるつもりはないよ」すぐそばのこめかみにそっと唇を押し付けると、腕の中の身体が震えた。「だから、俺のチェロも、俺のことも、ちゃんと見て」
アレンはまるで声を失ったように沈黙を続けた。大人に抱きかかえられながら、ティキの温もりを感じながら、なぜ手放しで喜べないのかを考えた。即物的な慰めも快感もどうすれば得られるか、アレンはすでに知っていた。今ティキにそれらを求めたなら、おそらく彼は応えてくれるだろうということも薄々感じていた。まさか男同士の経験が彼にあるとは思えないけれど、可能な範囲で相手はしてくれるだろう__少なくともキスは許してくれそうだった。そう思うのに、どうしてか求める気にはなれなかった。大人が触れてくるたびに、熱を感じるたびに、胸が締め付けられる気がした。
彼のチェロの音色を思い出した__きつく閉じた瞼の裏に。マナによく似ていて、でもどこか違う、美しくてやさしい色だった。もう一度聴きたいと願ったはずなのに、今はすこし恐ろしい。ピアノの少女のことが脳裏を過るからだ。マナとそっくりの、ありえないはずの音色が。
そうだ、ほんとうはわかっていたのだ__アレンは唇を噛み締めた。ずっとマナが欲しかったのだ。すでに亡くなった養父自身が。ありえないものを他人に求め続けて、ひとり勝手に絶望して傷ついて。マリアンに殴られた頬が じくり と痛んだ。
「ぼくは...」
やさしく抱き止められる温もりを感じながらアレンは呟いた。いままで優しくしてくれた人々に対して申し訳ない気持ちが募った。友人や、師匠や、ティキに。そうして自分がいい加減にマナを求めることを止めなければいけないのだ、と気づいたとき、アレンの両目からは涙が溢れた。ずっと、だれかを愛したいと__愛されたいと願っていたけれど、それはアレンの心の中にマナ以外の人を住まわせなければ始まらないのだ。いままでずっと失敗してきた__好きだと告げてキスをし、触れ合ってきたのはマナの幻影を求めたがゆえだった。だからアレンは今でもひとりぼっちなのだった。
年月と共に、自身の成長と共に、薄れていくマナを留めようと足掻いて__自分はなんて愚かだろう。いい加減マナを眠らせてあげなければいけなかったのだ。アレンの心の裡で。マリアンは弟子としてアレンを育てることで、マナという過去の幻影から未来を見せようとしてくれていたのに。
胸を引き裂かれるような衝撃があった。アレンは喉の奥で嗚咽を殺し、たまらず目の前の身体に縋った。そうしなければ到底、耐えられそうにないほどの苦しさだった。声を殺して啜り泣き始めたアレンを、ティキは力強く抱き返した。ひとりではないことの安堵と、忸怩たる思いに涙はますます溢れて止まらなかった。嗚咽の合間に名前を呼んだ__応えるように大人の手が背を摩り、アレンはちいさいこどものように マナ、と声を上げて泣きじゃくった。
ごめんなさい、マナ、ごめんなさい、ごめんなさい、__
こめかみに、濡れた頬に、幾度もキスが送られた。子どもをあやすためのその唇を、泣きながらアレンは捉えた。がむしゃらに舌を伸ばすと、驚いたらしいティキがわずかに怯んだあと、押し返してきた。深く口づけて、舌を絡ませ唾液を呼吸を互いに吸って、むさぼり合った。
あなたが好きです、と合間に囁く。自然と溢れた言葉だった。ティキ、と痺れたように感じる舌の上で愛しげに名前を紡いで。アレンの求めにティキは応じて、欲求を満たすものを与えようとした。キスと、慰撫と、名前を。少年は素直に悦びを見せ、感極まって啼いた。切ない、悲鳴のような声だった。