チェリスト弟子
トゥムルトゥオーソ

 ティキの腕をしっかと掴まえた手のひらは大きくもなければ、女性のように華奢でもない。ただずいぶんと冷え切っていた。強引に店を飛び出して、足早に裏道を行くアレンの背をティキは見下ろした。
「なぁ、少年、」呼びかけても返事はなく、店からずいぶん離れてからようやくアレンが歩調を緩めた。ティキはゆっくりと立ち止まり、彼を掴んでいたアレンの指先は力なく地面へと垂れた。一方的に掴んでいた腕を離しても、アレンは背を向けたまま振り返ろうとしない。
 ティキが口を開きかけたそのときに「なんで来たんですか、」硬い口調でアレンが云った。「なんでよりによって、今晩あの店に来ちゃうんですか!」
 叫びは薄汚れた路地の暗闇に落ちて弾ける。ティキの眉間には深い皺が刻まれた__先程の店での光景を思い出したことによるものだった。少年と、知らない金髪の男が親しげに話しているさまは、どうしてか彼の鳩尾のあたりを重苦しくさせた。
「邪魔したから怒ってんの?」
「ある意味営業妨害っていうか...僕の仕事の邪魔ですよ。みんなが見てたよ、あなたのこと。戻ったらぜったい質問責めにされる。ヘテロ、、、だからって知ったら引いてくれる人ばっかりだったらいいけど、」
 ティキは怪訝そうに表情を変えた。「少年?」
「あなたみたいなひと...」そう云ってようやく、アレンは振り返りティキを見た。怒っているというより、悔しくて仕方ないという顔で。「無駄にハンサムで、スタイル良くて、外出れば絶対誰かが振り返るに決まってる」
「...それは...どうも、」 なんだかやたらに高評価だ__ティキは照れたように頬を掻いた。だがその態度もアレンには不満だったようで、白眉が きゅっ と吊り上る。明かりの少ない路地裏が瞬間輝いたかのような錯覚をティキは覚えた。
「とにかく、帰ってください。今すぐ。ここはあなたみたいな人が来るとこじゃあ...」
「おまえも一緒ならな、」ティキは悠然と云い、アレンのちょうど胸辺りを指で示した。「俺の話も聞けよ、少年。おまえを迎えに来たっつたろ」
「...いったい誰の差し金ですか! まさか師匠っ?!」
「残念だけどハズレ。クロス=マリアンになら門前払いくらったよ。あの店は眼帯クンに聞いたんだ。面白い奴だな、アイツ」
 ラビのばか、とアレンは内心毒吐いた。なにも知らないティキを、面白半分に行かせたに違いない。自分が慌てふためくとわかっていて__次に顔を合わせた時は容赦しないでおこうとアレンは心に決めた。それよりも今は、一刻も早く目の前の男を帰らせたかった。どうにも、冷静で居られる自信がない。
「理由も無いのに、どうしてあなたにホイホイついていかなくちゃいけないんです。僕は仕事の途中なんですから! 宿代と食事が掛かってるんです」
「理由は移動しながら話そうと思ってたんだけどな...」ティキは頭を掻いて嘆息した。仕方ないか、と呟くとアレンの腕を掴んで歩き始める。先程と逆転した立場に、アレンは踏み止まって抵抗しようとする。
「離してくださいよ! 僕は行きませんってば!」
 必死に逃れようともがくアレンを掴まえて、ティキはぐっと距離を詰めた。乱れた前髪の奥で、戸惑う色のつよい灰銀の目が隠れて震えていた。
「...ひとつ、確認だけど。さっき金髪ヤローに何云われてた?」
「あっ、あなたには関係のないことですよ!」
「俺がここで手ェ放したら、おまえアイツのとこに逃げてくよな、少年?」
 それは根拠も無い断定だった__はずなのに、アレンは咄嗟に否定もできなかった。声を失った少年を見ると、ティキは眉間に皺を寄せ目元を歪めた。完全に図星を突かれたアレンにとって、その視線は苦しかった。軽蔑されたような気がしたのだ。自分の行いがけして誇れるようなものでないことはじゅうぶんに自覚があったけれど、今このひとにそれを指摘されるのは辛かった。少年が、時々みずからを持て余していることを知る人々はアレンに寛容だったりもするのだが、彼は違う。
 誠実でありなさいと云うリンクの声が脳裏に蘇る。ああ、ほんと、君のお説教は耳が痛くなる__ふいに込み上げるものがあり、驚いて俯くとアレンの全身からは力が抜けてしまった。
ティキは掴まえた腕を放さず、ゆっくりとからだを引き寄せた。
「...行くとこないなら、俺んち来いよ」
 頭上からやさしい声が降ってくる。彼が聴かせてくれたチェロのように、やさしい色をして。なんとかしてこの手を振り払わないと__自分の心の一部が、そのまま流されてしまえと期待しているのが自覚できてしまってアレンは下唇を噛み締めた。
「悪い、ちょっとこっちの事情におまえを巻き込んだかもしれなくてさ。馴染みの場所だとすぐバレるだろうし...」
 ティキは言葉をゆるやかに切った。胸元にあった灰色の頭が緩慢に動き、シャツ越しに冷えきった手のひらが押し当てられ、押し退けられた。逃げて行くからだを腕を引いて引き留めることもできたが、ティキはそれをしなかった。距離を取り、後ろ向きにたたらを踏む少年をただ見つめた。
 後ずさる少年の足下で、踏み砕かれたガラスが悲鳴のように音を立て、「あなたの事情なんて知らない、」思わず語尾が震えたのを恥じるように、アレンは喉元を軽く押さえて息を吐いた。
「...昼間のことに関係してるなら、余計に僕は関わりたくないです!」
「俺は単に、心配なんだよ、少年」申し訳なさそうにティキが云うのに、アレンは激しく首を横に振った。
「ぼくが...っ、そう云えば僕が、喜んでついて行くとでも?!」
「じゃあどうしろっていうんだよ、俺に」明かりのない裏道の澱んだ暗さを這って、険を含んだ言葉が響いた。アレンは目に見えて戦慄き、
「放っておけばいいじゃないですか!」叫びを上げた。
「放っておけないから、こうして来てんのに?」
 微かな苛立ちはあるものの、男の声はどこまでも冷静で落ち着いているように聴こえた。アレンにはそれこそが恐ろしかった__ティキがまともな思考力を持っていて、平静で、大人であるということが。
「なんで...なんで、」自分はとてもじゃないが、冷静でいられる自信なんてないのに。マナのことも、音色が魅せる世界のことも、彼のことも__もう、ずっと。「...だって、あなたは、」
 ーーぼくを愛してはくれないでしょう。
 重みに耐えかねて、ついに漏れたアレンの心は、きらきら光って暗闇に零れ落ちていった。

 

 


 微妙にすれ違い。ティキが無自覚だからいけない。
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